第4話
「ただいま~」
周防の話に付き合っていたらすっかり遅くなってしまった。帰りにスーパーに寄って、家に着いたのは十九時だ。
本当は適当なところで話を切り上げてさっさと帰りたかったのだけれど、周防のやつにはこれからもお世話になるんだろうと思うと邪険にはできなかった。本人も、これからもこの案件に関わるつもりらしく、別れ際に「先輩、また何か進展があったら教えてください!」なんて言って、やる気満々な様子である。というか、途中からずっと素だった気がするが、それは良かったのだろうか。
さて、これから夕飯の準備か…… 俺一人ならもう適当に出来合いのものを買って済ませてしまうところだが、ミケがいると思うと適当に済ませてしまうのは少し気が引ける。
リビングに入ったところで、ソファに座ってテレビを見ていたミケと目があった。
「ふーん、今日は抱きついてこないのね」
抱きつくか!!
流石に人間の女の子の姿をしたものに飛びつけるほど無神経ではない。
しかし、今まで、家に帰ると毎日のようにミケを抱きかかえて撫で回していた身としては、少し物足りない気がしないでもない。だが、今のミケに抱きつこうものなら拳が飛んでくるのが関の山だろう。猫パンチなら可愛いが、鉄拳制裁はただただ痛い。ここは我慢だ。
「遅くなって悪かった。今から急いで夕飯作るから待っていてくれ」
物欲しそうにしていたミケだったが、ふいっとそっぽを向いてしまった。
そんなにお腹空いていたのか、申し訳ないことをしたな。
「全く、私を待たせて、遅くまで外で何やってたんだか」
「まあ、俺もたまにはやることがあるんだよ」
「まさか女?」
「いやそんなわけないだろ!」
意味分かって言っているのかコイツ。実際、女子と話していたので部分的には合っているのだけれど、決してそういう意味の『女』ではない。
朝はあんなにデレていたのに、今はだいぶツン寄りになってしまっている。ツンデレさんの心と秋の空。難しい。
それだけ話すと、ミケはまたテレビを見始めた。海の生き物特集に興味津々らしい。やはり姿は人間でも猫らしいところもあるものだ。俺は、そのまま夕飯の準備に取りかかった。
実は、俺は料理が苦手というわけではない。円がちょくちょく料理を作ってきてくれるのでついつい甘えがちだが、自分でも多少は作れるのだ。特にこの一年間で、円からいくつか美味しいレシピを教えてもらって、得意な料理もできた。所詮は一人暮らしなので人に振る舞うことはないと思っていたけれど…… それがまさかこんな形で役に立つとは。人生分からないものである。
今日は、時間もないのでパスタをメインにいくつかの副菜を足すことにした。パスタを茹で、待ち時間に明太子とマヨネーズ、めんつゆを混ぜてソースを作る。たらこスパゲッティを作っているのだ。他にもサラダとかを盛り付けて準備完了。……となったところで、ふと気づいた。
猫にも、食べていいものと食べてはいけないものがあるのはご存じだろうか。有名なところで言うと、タマネギやチョコレートなどは、猫の体にとって毒なので与えてはいけないと言われている。一方、今日のサラダにはタマネギが入っているし、たらこスパゲッティだってこのまま猫が食べて大丈夫なものなのかよく分からない。ミケは人間の姿になってはいるけれど、食べ物についてはどうなのだろうか。何も考えずに、昨晩は円の手料理を二人で食べてしまったし、今朝も俺と同じ物を食べさせてしまったが、体調に障りはないのか。
ミケと二人で食卓についたところで、聞いてみることにした。
「ミケ、今更だけど食べ物って人間の食べ物でいいのか? キャットフードとかじゃなくて」
「ホントに今更ね…… 私も気になっていたけれど、こうして人間の食べ物を美味しく食べられているし、たぶん大丈夫なんだと思うわ。体は完全に人間なのよ」
「そういうものなのか。でも、中身は変わってないんだし、やっぱ食べ物の好みは一緒だろう?明日はマグロにするか?」
ミケはマグロの刺身が好きなのだ。
厚意で提案する俺に、ミケはジトッと目を細める。
「その『猫は魚が好き』みたいな話、すごい困るのよね。私たち猫科は肉食だから、肉全般が好きなのは確かにそうなんだけれど、別に魚の肉が特別好きなわけではないのよ?」
「え……」
ショックを隠せない俺。
「じゃあ、マグロを出したとき嬉しそうに食べていたのは……」
「たまにしか出ない生肉だったから、ついついがっついちゃっただけよ」
そうだったのか。俺はてっきり猫は魚が好きなんだとばかり…… 知らなかったぜ。
「じゃあむしろ、今まであげたことない肉料理を作ったほうが嬉しいのか。ハンバーグとかどうだ?」
「まあマグロよりはいいんじゃないかしら」
言い方こそぶっきらぼうだが、ミケの口は嬉しそうに緩んでいる。
「でもハンバーグは自分で作ったことないんだよなぁ。円に作ってもらえるか聞いてみるか」
ハンバーグは準備が大変そうだし、週末が良さそうだ。今日は木曜日だから、明後日か明明後日に家に来られないか、あとで円に聞いてみることにしよう。
そして、話の流れとしてもバッチリだったので、ここで俺は本題を切り出した。
「他にもそんな感じで、人間になってやってみたかったことって、何かないか?」
「どうしたの急に……」
「些細なことでも何でも良いんだ」
「そうねぇ」
さっき周防に言われたことだ。ミケが人間になったのは、ミケにとって人間になることで叶えたい願いがあったからじゃないのか。
そうだとするならば、その願いを解消することで、ミケは人間に戻ることができる。この異常事態を、解決することができるというわけだ。
突然の問いに困惑して、ミケはうーんと首を捻る。
しばらく何やら考え込んでいたようだが、ぱっと顔を上げると、テレビのほうを指さした。
「水族館に行きたいわ!」
テレビではさっきの海の生き物特集が続いている。
……やっぱり魚好きなんじゃないか!
「それなら早速、明後日の土曜に一緒に水族館行くか」
「そんな急にいいの?」
「どうせ土日はいつも暇してるからな」
水族館に行く。これが果たして、ミケが人間になってまで果たしたかった願いなのかは、分からない。あんなに悩まないと思いつかなかった時点で怪しい気もするが、とにかくやってみるしかないだろう。まあ別に、猫に戻れなかったとしても、ミケが楽しんでくれるならそれはそれでアリだ。
と思ったところで、『一緒に』と言ったことを少し後悔した。もしかしたら、ミケのやつは俺と一緒だと楽しめないかもしれない。
不安になって、ちらっとミケの顔色を窺ったが、ミケはにこやかに体を揺らしていた。
「今から楽しみだわ」
これは良いのか。やっぱりミケは難しいな。
――俺は、真っ白な空間に立っていた。
上も下も右も左も、遠いも近いもない、一様に白いだけの空間に、圧倒される。
俺の横には、同じく圧倒されたように、ポカンと口を開けたミケがいた。念のため言っておくと、ミケは人の姿だ。
何となく、現実感が乖離しているような感覚。
俺もミケも、パジャマを着ていた。
ミケのパジャマは、ピンク色の地に赤いチェックが入っているものだ。中学生くらいの円はこういうのを着ていたらしい。
――これは良くない連想だな。
服を貸してくれた親切な友人のプライベートを勝手に想像するのは相当な恩知らずだろう。やめだ、やめ。
……そうか、パジャマ。
俺はさっき、自分の部屋の自分のベッドに入ったはず。寝る用意をして。
ということは。これは、夢を見ているということなのだろうか。
昨日非現実的なことが起こったせいで、こういうときに夢かうつつか本当によく分かんなくなってきた感じがあるな。
変化のない日常をこよなく愛す俺としては、これはとても良くない傾向なんだけども……
「ミケ、聞こえるか?」
理解できない現状を前に、まずは目の前のミケが正常かどうかの確認をしてみる。
俺の声を聞いて。遠くを見つめるようだった彼女の瞳に、焦点が定まるのが分かった。
「なによ、この距離で聞こえないわけないでしょ」
「ま、まあそれはそうなんだが」
ひとまずミケからは普段通りの、ツンツンなほうの反応が返ってきた。会話は成立するようだ。
もしこれが夢なんだとしたら、多少は自分に都合を良くして、デレなミケを見せて欲しかったものだなぁ。
「じゃあ、ちょっと、俺の頬を抓ってみてくれないか?」
「え……?」
今自分がいるのが夢かどうか確認する、最もありがちな方法と言えばこれだ。自分の身体を痛めつけてみて、痛みを感じるかどうかを確かめるというもの。普通に痛いかも知れないので自分でやるのは怖かったから、ミケに頼むことにした。
しかし、それに対して、ミケの反応は冷ややかだった。
「あんたってそんなシュミあるの……?」
自分の身体を抱きかかえるように腕を組みながら、ミケは一歩下がって完全に引いている。
なんか、誤解されているな?
「いやいや。仮に僕がMだったとしてもこの状況では頼まないでしょ」
「そんなの分かんないじゃないの。これ私の夢っぽいし……」
「ん?」
なんでミケの夢だと俺は痛めつけられたがってもおかしくないんだ。
というかよく見ると、組んだ腕から右腕が少し浮いて宙を彷徨っている。それには何の意味が……
「いえ何でもないわ」
「いやちょっとよく分かんn――」
「うるさいわね!」
バチコンっと。
俺の頬を、ミケの右手が打った。しかもパーじゃない、コイツはグーで殴りやがったぞ。
理不尽な暴力すぎる……
でも、幸いというべきか何というべきか。俺の頬は全く痛みを感じていない。
鈍い衝撃だけが、俺の頭を揺らした。
「俺は"ちょっと抓って"と言ったんだけどな……?」
「同じようなもんでしょ」
「だいぶ違うわ!」
俺の抗議をすまし顔で受け流すミケ。これ以上俺が何を言っても、もう意味はなさそうだ。
ひとまず、今の状況が夢だと分かっただけでも良しとしよう。
夢ということは、やはり目の前のミケは俺の頭の中にある想像上のミケということになるのだろう。
夢に見てまでなんでこんな気分屋の相手をしなくてはならないのだろうか……
そんなことを思っていると。ふと頭上に、何かの気配を感じた。
それはミケも同じだったようで、俺らは揃って天を仰ぐ。
――そこにあったのは、何か人の形をした、シルエットだった。
黒く塗りつぶされていて、輪郭以外は何も分からない。それに、輪郭さえもところどころぼやけていてハッキリとはしなかった。
夢の中だからか、何でもアリという感じだ。
この影は何者なんだ……?
俺が睨んでいると、その影が声を発した。
「随分とお楽しみのようじゃが、そろそろ良いかのう?」
脳に直接響くようなその声は、しゃがれて聞こえた。
「コイツにセクハラされてただけで、ぜっんぜん楽しくはないんだけれど?」
この返答はミケだ。おいおい、お前なぁ……
その言葉が相当ツボにハマったのか、影はカカカッと笑い声を上げた。
話が先に進む気配がなかったので、仕方なく俺が進行役を買って出ることにする。
「で、貴方は何者なんですか? ここは俺の夢の中みたいですけれど」
「ふうむ。妾は名もなき神の御使いじゃよ。話があってお主らをここに召喚したのじゃ。お主らの認識として言えば、夢というのもそう遠いものじゃなかろうな」
…………。
またなんかキャラが濃いやつが現れたぞ。
ま、まあ。夢の中の話だからな。これが現実じゃないんだったら何だって良いだろう。
早く目が覚めないかなぁと自分に念じてしまう。
「で、ミツカイ?さんが俺に何の用で?」
「正しくは”お主ら”に用事があるんじゃがな」
そう言って、影はミケのほうへと視線を送る。より正確には、影の目は分からないので、身体をそちらに向けた気配を感じたといった状態だが。
ミケはその意図を図りかねて、ゆっくりと首を傾げた。
「そこな小娘よ。人間の生活はさぞ楽しかろう?」
「ほどほどかしらね」
ミケはチラリとこちらを見ながら短く答えた。
「カカカッ。よく言うわい。お主が人間になりたいと申すからしてやったというのに」
再び愉快そうに笑う影の言葉に、ミケの目が小さく見開かれた。
「じゃが。タダで願いが叶えてもらえるなどと甘い考えではおるまいな」
「え……?」
「妾がその小娘を人間でいさせて遣る対価に、お主らにはとある務めを果たしてもらわねばならぬ」
「……対価だって?」
その疑問を紡いだのは俺の口だった。
何だか、雲行きが怪しくなってきた気がする。
「これは、俺の夢なんですよね?」
「言ったじゃろう。話があって、妾がお主らをここに召喚したのじゃと」
影が放つ、形なき圧力に、俺は二の句が継げなくなってしまう。
「妾を使わし給った神は、この街を
そこで、もう一度、影がミケのほうへと注目したように感じられた。
「それを防ぐのがお主らの役目じゃ。その小娘には、ケガレを祓う巫女になってもらおうぞ」
ミケがゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。
巫女だって?
俺は、影へとようやく聞き返す。
「どういう、ことだ……?」
「どうって、そのままじゃよ。良くない気を祓うのに必要なのは、良い気じゃ。つまりは尊さ。お主らのような互いを思い合う主従関係は正にうってつけというわけじゃ」
影はそれまで張り詰めていた空気をふと緩めて、愉快そうに肩をすくめた。
「要は、お主らの愛でこの街を救ってくれという話じゃよ」
?????????
はい?
ただならぬ単語に、思わず思考の歯車がズレてしまった。
「あっ、愛だ、なんて!? コイツと!?!?」
ミケも目を白黒させながら俺を指さして叫んでいる。
「左様。左様。まず初めての祓いは、明後日、つまりは……お主らの暦でいうと、日曜日かの? その日に行ってもらおうか」
勝手に話を進めないでくれ。
「いやいや、俺たちにそんなよく分からない難しいことはできませんよ」
しかし、影は俺の言葉を聞き咎め。再び見えないプレッシャーで俺たちを圧倒する。
「ほう? お主は神のご判断を疑おうと言うのかね」
「え? あ、いや……」
「とにかく、お主らには祓いを行ってもらわねばならぬ。行わなければ、その小娘は猫に戻ると思え」
見ると、ミケは小さな手で握りこぶしを作っていた。
「ええ分かったわよ。やってやればいいんでしょう?」
影へと強気に叫ぶミケ。
……俺的には、ミケは早く猫に戻るべきだと思っているので。
この影の言うことには全く従う必要はないわけだが。
しかし、ミケはそうは思っていないようで。めちゃくちゃなやる気だった。
――今のこの場所が俺の夢であるならば。
この影の荒唐無稽な発言は全て俺の妄想の産物であって。ミケのツンツンな反応も全ては俺の想像した幻であるはずなのだが。
しかし、鈍った五感に確かに宿る現実感が、これが俺の脳内の出来事ではないのだということを、しっかりと告げているようだった。
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