第11話 桜庭

 栗原さくらは迅速に院長へ電話を掛けた。若者は拡声器を持つと、再び軽トラックに乗り込む。これから島中に声を掛けて回り、屋内への避難と援助の要請をするらしい。これらも、基本的にはマニュアルで定められた対応なのだそうだ。

 若者の話によると、今回洞窟へ入り込んだ中学生たちは、本当にどうしようもない連中だったらしい。粋がって入り込んだくせに、いざ『ミズカラ』を目にしておじけづいた。権蔵ともう一人の島民が助けに入って洞窟を順調に進んでいたにも関わらず、『マリアの横顔』の辺りで一人が錯乱し、権蔵を突き飛ばした。どうやら、権蔵を生贄にして逃げようとしたらしい。不意を突かれた権蔵は『ミズカラ』の前へ無防備に放り出され、命を落とした。中学生と、もう一人の島民は洞窟を脱し、待機していた若者へ口々に事情を説明する。直後、洞窟から這い出してきた権蔵によって、中学生らは惨殺された。生き残ったのは若者だけ、というわけだ。

「対応班のみんなに、旦那から連絡を入れてくれるらしいです。すみませんが、近くに派出所があるので、そこへ行って現状を伝えていただいてもいいですか? 私はここで役所に連絡してみます。一人で避難できない方へのサポートチームが組まれるはずなので」

 それだけを一気にまくしたてると、栗原さくらは再び携帯電話を手に取った。僕は一度会館を出て、通りを南へ向かう。こぢんまりとした交番があるのだ。

 嫌な音を立てる扉を開くと、中年の巡査がこちらを見た。

「あれ、先生。どうしたんですか?」

 僕は努めて冷静に状況を伝えた。巡査の顔色がみるみるうちに変わる。

 彼は迷わず拳銃を抜いた。

「ひとまず、共に会館へ行きましょう。きっと対応班も来るはずですから、合流できればと思います」

 無線を取り上げ、何やら報告をしながら巡査は歩き始める。僕もその後を追った。

 会館へ戻ると、栗原さくらが電話を終えたところだった。

「サポートチームがすぐに動いてくださるそうです。おそらく避難は問題ないかと。後は、権蔵さんの対処だけですね」

「対応班はどのくらいで到着ですか?」

 巡査の問いに、栗原さくらは首を振った。

「なんとも言えません。皆さん、今日はばらばらに行動されているみたいで」

 僕はガラス戸の向こうを見ていた。正面に山がそびえている。そこへ向かう道は一本だ。脇の民家は、すべて雨戸まで下ろされている。若者による注意喚起は功を奏しているらしい。

 その道の向こうに、とぼとぼとこちらにやって来る人影が見える。

「来たようです」

 僕は二人に言った。

 よれよれの作業着に、膨らんだ筋肉。確かに権蔵だ。ただ、その足取りはおぼつかず、一目で正気を失っていると分かる。

「二人は中で待機を。バリケードの準備をした方がよいかもしれません」

 巡査が言って、外へ出て行った。

 権蔵との間には、まだ十分に距離がある。

 巡査は銃を構えた。動きに躊躇がない。本気で発砲するつもりなのだ。

 権蔵の目が巡査を捉えたようだ。無表情に首をぐるりと回し、駆け足で近づき始める。

 巡査が引き金を絞り、貫くような破裂音が響く。

 弾は権蔵の腰元へ命中したようだ。だが、こちらに来るスピードは変わらない。

 どうやら骨や筋を逸れ、裂傷を負わせただけのようだ。その程度では、入り込まれた人間は止まらない。痛みで彼らを止めることはできないのだ。

 巡査は引き返し、戸口に飛び込んでガラス戸を閉めた。僕と栗原さくらで長机を戸の前に置く。気休め程度だが、無いよりましだろう。

 権蔵は同じペースでこちらに接近しつつある。目測で、あと三十メートルほど。

 エンジン音が聞こえ、猛スピードで軽トラックや乗用車が現れた。

「対応班です。間に合いました」

 ほっとした声を栗原さくらが出す。

 六台ほどの車で密集し、権蔵を取り囲む。運転席には、年寄りから若者まで、性別を問わず乗り込んでいる。

「生身で闘うのは危険ですからね。ああやって車で囲むんですよ」

 巡査が言い、長机をどかして再び戸を開けた。

「この後はどうするんですか」

 聞くと、彼は立ち止まった。

「これです」

 拳銃を掲げて見せる。

「腹を決めねばなりません。今まで共に闘ってきた仲間ですが、こんな日が来るかもしれないことは誰もが承知していました。きっと権蔵さん自身もね。だから、引導を渡さねばならんのです」

 巡査が歩き出したその時、前方で車が大きく揺れた。権蔵が車を押しているのだ。金属の曲がる嫌な音が響く。

 慌てた様子で、運転席から女性が降りてきた。彼女が巡査の背後に隠れた瞬間、車が持ち上げられ、とてつもない勢いで吹き飛ばされた。車は二度ほど回転し、道路の端で止まる。残りの五台で再度行く手を阻もうとするが、権蔵はさらに一台を――青年の乗るスポーツカーだ――両腕で押しのけた。スポーツカーは耳障りな音を響かせながら、ドリフトの要領であらぬ方向へと滑っていく。青年は無事のようだが、運転席で呆然としていた。

 巡査は銃を構えるが、焦りからか狙いを定められていない。放たれた銃弾は権蔵から逸れ、コンクリートの地面を穿った。

 これ以上の応戦は不可能だと判断したのだろう。彼は踵を返し、女性を連れて再び会館へと戻る。

 彼が飛び込んできたとき、僕は奥の炊事場で、頭から水をかぶったところだった。

「閉めないでください。僕が行きます」

 バリケードを張ろうとする栗原さくらたちを止め、僕は足早に外へと向かう。

「桜庭さん、だめです。危険ですよ」

 栗原さくらの声が聞こえるが、僕は答えない。迫る権蔵の姿だけを捉えている。

 僕は会館を出て、なるべく遠くへ権蔵を誘導しようと、民家とは反対の方向へ歩を進めた。権蔵の背後に、対応班の姿が見えた。車での妨害をあきらめたようで、全員が運転席から降り、会館の方へ走っていく。一度、体勢を立て直すつもりなのだ。全員が避難を終え、ガラス戸の閉まる音がする。栗原さくらたちがバリケードを再構築している姿がちらりと見えた。案の定、権蔵はこちらへターゲットを定めたようで、後を追ってくる。

 権蔵のそばに、最初に弾き飛ばされた乗用車が逆さまに転がっている。

 権蔵はそれをつかみ、こちらへ押しやってきた。

 鈍い音を立てて、鉄の塊が僕の眼前に迫る。

 両腕を突き出して、それを止めた。息が詰まり、信じられないほどの圧力が全身にかかる。足が地面を滑った。全力で踏ん張り、腕と背中に力を込める。

何とか車は止まったが、今の一撃で靴底が壊れてしまった。車を使った攻撃がこれ以上続けば、足の裏の皮がはがれる羽目になる。

 車を乗り越え、権蔵に飛び掛かる。権蔵は今しも次の一撃を車に加えようとしていたところだった。僕は両手を組み、彼の脳天へ振り下ろす。

 太い腕がそれを遮った。両腕に、バットで殴打されたような痛みを感じる。

 僕はそのまま吹き飛ばされた。権蔵の力はすさまじい。正攻法で挑めば、今のようにあしらわれてしまうに違いない。

 起き上がると、すぐ横に会館のガラス戸が見えた。せっかく引き離したのに、ここまで弾き戻されてしまったらしい。ガラス戸をはさみ、栗原さくらと目が合った。

 権蔵がこちらへ走り寄って来る。その目は何も見ていない。ただ破壊するだけ。

 僕は折れ曲がった道路標識をねじり切り、権蔵へ振りかぶった。権蔵は構わず突進してきた。世界が反転した。

 地面が空に、空が地面に。そして、何かの割れる音が響き、僕の視界をきらきらとした何かが覆った。

 権蔵とぶつかり合った僕は、会館のガラス戸を突き破ったのだ。

 栗原さくらは? けが人は?

 起き上がって見回すが、全員奥へ避難できていたようだ。権蔵の方を振り向くと、彼は立ったまま静止していた。腹部を、道路標識の棒が突き破っている。

 彼の顔は、ガラスによる切り傷だらけだった。顔の真ん中をとりわけ深い傷が走っている。べろり、とそこから顔の皮が向けた。服を脱ぎ捨てるように、権蔵の皮膚が剥がれ落ちていく。

 中から、黒い何かが現れた。黒く、やたらと大きな頭部が二つ。黒く、細い胴体が一つ。黒い腕が四本。足は二本。

 半ば癒着した状態で、二匹の『ミズカラ』が絡まり合っているのだ。権蔵に元から入り込んでいた一匹と、今回入り込んだ一匹。

 腹部を貫かれ、どちらもひどく弱っているように見えた。僕はパイプ椅子を拾い上げ、一匹の頭へと振りかぶった。聞きなれた破裂音が聞こえ、そいつの頭部が失せた。

 もう一匹が頭をもたげた。苦しそうに息をしている。僕がとどめを刺す必要すらないかもしれない。

 そいつの顔面に切れ込みが入る。そこに並んだ歯を見て、初めて僕はそれが口だと気付いた。その『ミズカラ』は言った。

「手間かけたな、先生」

 そのまま、あっけなく溶け落ちた。残されたのは、権蔵のはがれた皮と、その内側に残された内臓だけだ。

「終わりました」

 誰にともなくつぶやく。栗原さくらが恐る恐るといった様子でこちらに近付いてきた。

「桜庭さん、あなたは一体――」

 僕はどう答えればよいのか分からなかった。何も言えず、ただ目線を落とす。

 床に、衝撃で飛ばされたであろう僕の携帯電話が転がっている。ロックも解除されているようで、画面がぼんやりと光を放っていた。

 この騒動が起こる前に、大場スミへ送ったばかりの返信が開いたままになっている。

 ――『とある島の調査中だよ』

 無機質な言葉が並んでいた。

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