第10話 大場

 神殿までたどり着くと、『ミズカラ』たちが復活していた。そこは慣れたもので、松井が隅の通路へと誘導し、格子戸の中へ閉じ込める。これでしばらくは問題ない。神殿内部は比較的明るさが残っていて、殺人鬼の影に怯える必要もなさそうだ。

 白井美里が肉体的にも精神的にも限界だったので――私が引きずるようにしてここまで来たのだ――私は休憩を提案した。

 背中側から襲われることを避けたかったので、神殿の壁際まで移動し、そこに背を預けて座り込む。白井美里が小刻みに震えていたので、背中をさすった。

「すみません」

「いいのよ。何か話でもしましょう。黙っていても気が滅入るだけだわ」

 松井と梶は、すでに何かを話し始めているようだ。「ハンバーガー」「いや、ラーメン」といった言葉の切れ端が聞こえる。大方、ここを抜けだしたら何を食べたいかを相談しているに違いない。梶少年については心配いらないだろう。

 白井美里は黙ってしまった。何か話さなければならない、でも何を話せばよいのか分からない。そんな困惑が見て取れる。見るテレビは、好みの食べ物は、と私は聞くべきだったのだ。自嘲気味に笑みを浮かべ、パスを出そうと口を開きかける。

「私、笑うのが下手なんです」

 驚いたことに、白井美里は話し始めた。私は慌てて口を閉じ、「うん」と相槌を打つ。

「人並みに、楽しいとか嬉しいとか感じている――と思うんですが、表情にうまく伝わらない。だからほんの少しだけ対人面で苦労しました」

 感情表現が苦手な子は、実はかなり多い。というか、思春期に感情を素直に表出できる子の方が実は少ないのではないか。だから白井美里の悩みは気にしすぎと言えばそれまでだろう。しかし、彼女がそう感じるに至った背景があるはずだ。

「何か、そのことで困ったことがあったのね」

 白井美里はうなずく。

「一人の時間が好きだったこともあって、友達は時々話せる子が数人いれば満足だったんです。特に避けられたり、攻撃されたりすることもなくて。でも、それを許せない大人がいたんです」

「大人?」

「私、実は今施設にいるんです。典型的なネグレクトで、親元から保護してもらえました。今の施設はすごくいいところで、不満なんて一つもないです。でも、前までいたところがひどくて」

「前までいた施設が?」

「はい。そこの職員で一人、私みたいなタイプがどうしても許せない方がいらして。それで、毎日一時間、『笑顔の練習』をさせられました」

あまりにも見当違いな話に、私は「何それ?」と頬を引きつらせた。

「単純な話です。真顔から笑顔になる。また真顔に戻して、笑顔になる。あるいは、三分から五分、笑顔の状態をキープする。笑っている人の絵を描く。何十枚もある写真の中から、笑顔の人の写真を選り分ける」

「それで、怖くなっちゃったのね」

 白井美里は、表情を変えず、それでも嬉しそうに「なんで分かるんですか?」と口にした。

「その通りで、怖くなっちゃったんです。自分の表情が気になる。ちゃんと笑えているか気になる。笑えないことで責められているような気がする」

 それはそうだろう。その職員のやったことは洗脳に近い。あるいは、今の彼女に対する全否定に他ならない。

「もちろん、施設側としてもその職員を問題視する声が多かったみたいなんです。でも、なんていうか、縁故で採用された人らしくて、結局辞めさせることができなくて……。結果として、私が別の施設へ行くという形でまとまりました」

 環境が変わるということは、白井美里にとっても大きな決断だったに違いない。大人が思うほど、若者の順応性は高くないのだ。慣れていくように見えて、そこには不安もあるし、負担もかかる。しかし、彼女の場合は施設を変わって正解だったように思えた。

「前田施設長――今の施設長なんですけど、この人がすごくいい人で。聞くところだと、引継ぎの会議で、私に対する仕打ちがあんまりだって啖呵を切ってくれたらしくて」

「ああ、なるほどね」

 あの人ならそうするだろう。変わっていないのだと私は嬉しくなる。

「甘えさせてくれるところと、そうでないところの線引きがはっきりしていて分かりやすいんです。だから、何も不安にならない」

「不安はだいぶ消えているのね?」

「はい。施設の生活に慣れたころ、言われたんです。『無理して笑わなくていい』って。私はまだ笑顔に縛られたままだったんですけど、それでかなり楽になりました。でも、もちろんそれだけじゃなくて」

「甘えすぎない線引きね」

「はじめ、まだ私は不安定だったんです。人との関係でも何でも、うまくいかないと、自分がうまく笑えないせいだって落ち込んでたんです。それを叱られました。『あんたは無理して笑わなくていい。それは変わらない』って前置きをした上で、『何かが起こったときに毎回そこに立ち返っていたら、一生縛られたままだ。それを一回手放せ』って」

 施設長は強い。何があっても子どもたちの力になり続け、何があっても自分で責任を取るという覚悟があるからこそ、恐れずに意見できる。私のようなカウンセラーの卵では、怖くてできないことだ。

「すごく難しかったですし、悩みもしたんですが。少しずつ私も気分を変えることができて。今まではちょっとそっけなくされただけで『私が笑えないせいだ』って思っていたのが、少し緩和されつつあります」

 私はうなずき、「何よりね」と言った。

 この少女は大きな成長の過渡期にある。こんな洞窟でその芽を摘ませてたまるものか。彼女を守ることは、同時に施設長たちを守ることにもなる。そんな思いが私の胸中で渦巻いた。

「じゃあ、そこへ帰ったら何をしたい?」

 白井美里は、「んー」と顎の下に手を当てた。表情に変化はないが、彼女のまとっている雰囲気で幾分明るい調子を取り戻していることが分かる。コミュニケーションに笑顔は必須ではないのだ。彼女には彼女の表現方法がある。

「前田施設長と、将棋をしたいですね」

「将棋ね。なんだか意外」

「よく言われます。施設長に教わって、だんだん楽しくなってきて」

 脳裏にイメージが浮かぶ。眉間にしわを寄せて考え込む施設長。脇のコーヒーからは湯気が立ち上っている。その向かいにいるのは私だ。ホットココアのカップを両手で抱えながら、施設長の一手を待っている。

 夜によく眠れないとき、そうして将棋を打ったものだ。

 施設長は子どもに将棋を教えたがった。なんでも、先を読む力を身に付けてほしいからだそうだ。今ここで逃げることが、その先でどんな結果を引き起こすか。今ここで無理をすることが、その先でどんな結果を引き起こすか。見通しをもって行動を調整してほしい――云々。それが後付けで、将棋の対戦相手がほしいだけだということを私は知っている。そして、白井美里もいつかそのことに気付くだろう。

「私も将棋が好きなの。そのうち二人で打ってみてもいいかもしれないわね」

「そうなんですか? ぜひそうしたいです」

「でも、女子二人がカフェで将棋盤なんか出してたら、ちょっと不思議な光景かしら」

 白井美里はふふっ、と声をもらした。彼女は立派に笑えるのだ。呪縛にとらわれているだけで。そして、その呪縛は施設長が必ず解きほぐしてくれるはずだ。

「さて、そろそろ行きましょうか」

 私は立ち上がる。

 松井と梶はゲームの話に興じていて、「ええ、もう?」と声を上げた。

「今の状況忘れてるんじゃないでしょうね? ここを出てからたっぷり話しなさいよ」

 私の隣で、白井美里も立ち上がる。身体も心も、もう大丈夫そうだ。

 松井と梶も立ち上がり、伸びをした。

「橋の方で『ミズカラ』が復活しているかもしれないわ。用心していきましょう」

 私が言ったそのときだった。

 頭上から何か黒い小さなものが降ってきた。最初、巨大な綿毛かと思った。それはとげとげしていて、私の拳ほどの大きさがあった。

 それがかぎ針の束だと気付くまでに、時間はかからなかった。

 あっという間だった。

 かぎ針は白井美里の下顎に深く突き刺さった。彼女は声も出せなかった。顎に穿たれた穴から、鮮血が流れ落ちた。

 かぎ針はそのまま上に上がり始めた。がこん、と白井美里の顎が外れる音がした。

 かぎ針にはピアノ線のようなものがついていた。それで誰かが彼女を吊り上げようとしているのだ。

 顎の痛みに耐えかねたのか、白井美里はピアノ線をつかんだ。そのまま身体が宙に浮き始めた。

 私は動けなかった。松井も動けなかった。

 無理に引き戻せば、白井美里は下顎全てを失うだろう。そんなことはできなかった。

 殺人鬼に違いない。神殿の二階部分から――ちょうど幽閉の牢のある辺りから――かぎ針を操っているのだ。

「松井っ」

 声を振り絞る。

「今すぐ梶くんをエレベーターまで連れて行って!」

 まずは、一人を確実に守り切るのだ。松井ならやってくれる。

「私は白井さんを助ける。無理はしないから、あなたは戻ってこないで!」

 松井は「はい!」と声を上げ、梶の腕をつかみ走り始めた。運がよければ、まだ橋の方の『ミズカラ』たちは復活していないはずだ。

 私は神殿の奥へ進み、木製のはしごを上った。幽閉の牢まで、狭い通路を走る。

 怪我をしていても、エレベーターまで連れ戻せば、目覚めたとき傷が残らない。白井美里がまだ殺されていないことを祈るだけだ。

 幽閉の牢へたどり着く。そこには、白井美里がいた。正確には、彼女の肉体が。

 顎は無惨に裂け、その胸に太いナイフが突き立てられている。

 ――遅かったのだ。

 彼女の手前に、黒ずくめの人間が立っていた。自分が手に掛けたであろう死体を見下ろしている。

「誰?」

 声を掛ける。殺人鬼は微動だにしなかった。

「こちらを向きなさい」

 毅然とした態度を崩してはならない。私は虚勢を張った。言いながら、後ろ手にショルダーバッグへ手を伸ばす。そこには水のペットボトルが一本入っている。いざとなれば、これを使って闘うしかない。

 殺人鬼はゆっくりとこちらを向き、私と対峙した。

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