第9話 桜庭

 権蔵らと洞窟に行った翌日、僕は島の会館へ出向いた。特に用があったわけではなく、することがなくなってしまったのだ。

 村唯一の携帯電話ショップから、修理に出していた自分の携帯を受け取る。その隣が会館だったので、何の気は無しに立ち寄ってみた。

 ガラス戸を引くと、一階は土間になっていて長机が雑然と立てられている。その上に湯飲みやお茶菓子がこれもまた雑然と置かれていて、奥ではコンロの火にかけられたやかんが湯気を吹いていた。

 最初誰もいないのかと思ったが、パイプ椅子を三つほど並べてその上に寝転がっている人間がいる。長机で隠れていて見えなかったのだ。

 近付いてみると、栗原さくらだった。どう考えても寝心地のよさそうな体勢ではないが、仰向けになって本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。薄手のシャツに黒いカーディガンを羽織った彼女の胸がゆっくりと上下していた。

 起こさないよう、静かに部屋の奥へと向かい、コンロの火を止める。やかんのお湯はひとまず手近のポットへ注いでおいた。栗原さくらには後で注意を促しておいた方がよいかもしれない。木造の会館で火の消し忘れは命取りだ。

 残ったパイプ椅子に腰かけ、携帯電話を開いてみる。いくつもの通知や履歴が目に入った。しばらく返事をしていなかったから生存確認だろうか、それとも僕のいない間に何かあったのだろうか。それらを開き、返事を打ち込むために指を走らせる。

「忙しそうですね」

 声が方向へ顔を上げる。いつの間に起きたのか、栗原さくらが頬杖をついてこちらを見ていた。

「いえ、携帯電話が故障しちゃってて、さっき修理から戻ってきたところなんです。だから溜まったメッセージに返事をしなきゃならないだけで」

「ふうん」

 さして興味もなさそうに彼女は相槌を打った。しきりにあくびをしているから、まだ眠いのかもしれない。

「あ、火、止めてくださったんですね。ありがとうございます」

「不用心ですよ。火を点けたまま寝るなんて」

 彼女は「てへ」と頭に手を当てた。反省はしていないのだろう。

「昨日はどうでした? 行ったんですよね、洞窟」

 なぜそのことを彼女が知っているのだろう、と首を傾げかけて、院長がしゃべったのだと合点がいく。院長の苗字は「栗原」。つまり彼女は院長の奥さんというわけだ。

 院長の見た目は若々しいが、それでも二人の年齢を考えれば年の差婚と言えるだろう。仕事の関係でやってきた島で、年の離れた男性と一緒になるとは、彼女の強さが感じられる。

「行ってきました。内部も想像以上でしたし、権蔵さんの強さも強烈でしたよ」

「私は入口までしか入れてもらったことがないんです。旦那が危ないって言って許してくれなくて」

「その方がいいですよ。中にいる『ミ――いえ、カゲが本当に危険ですから」

 栗原さくらは「まあ、そうなんですけどね」と不服そうだ。

「権蔵さんは、今日もまた洞窟に行ってるらしいですよ」

 彼女が言うので、僕の頭にはてなマークが浮かんだ。

「なぜ?」

 昨日の時点で、権蔵は何も言っていなかった。となれば、何か不測の事態でも起こったのだろうか。

 得てして嫌な予感というのは的中するものだ。栗原さくらは、少し顔をしかめてみせた。

「私から聞いたって言わないでくださいね。一応、島の秘密なんですから」

「もちろん」

「以前から、私たちでマークしていた中学生三人組がいたんです。ちょっと度が過ぎてやんちゃというか、家庭環境も複雑な子で。それが今朝になって、洞窟に入り込んだらしくて」

「たまにそういうことがあるらしいですね」

「ええ。私がここへ来てからはほとんどなかったんですが……旦那も久々だと言っていました」

 僕は時計を確認する。もうすぐ昼時だ。朝から駆り出されるとは、権蔵が不憫でならない。後で戻ってきたら、昨日のお礼も兼ねて、昼食を一緒にとるのもよかろう。運がよければ、今日の顛末も聞かせてもらえるかもしれない。

 これ以上秘密をもらせないと考えたのか、栗原さくらはそこで話を打ち切り、ハンドバッグをごそごそやり始めた。化粧道具でも探しているのかと思ったら、分厚い本を取り出す。

「桜庭さん、これ、お返ししますね」

 僕が貸していた本だった。正直僕が読み返すこともほとんどないし、そのまま渡してしまってもよかったのだが、律儀な人だ。

「ああ、お貸ししていましたね。もっと持っていていただいても大丈夫だったのに」

「いえ、さすがにそれは申し訳ないので」

 では、と口にして本を受け取る。僕はバッグを持ってきていなかったので、ひとまず長机の上に伏せた。その上に携帯電話を置く。

「桜庭さんは、ずっと、青少年の問題行動について研究されていますよね」

「ええ。でも非行なんかは門外漢ですよ。もっぱら心神喪失の研究です」

「それはやっぱり、大場スミさんのため?」

 突然の懐かしい名前にどきりとする。しばし記憶を探った後、そうか、栗原さくらは大場スミを目にしたことがあったはずだ、と思い出した。

 僕が今の専門領域で研究を続ける理由。

 厳密に言えば、栗原さくらの推測は間違っている。大場スミはあくまで、現象を突き詰めるためのきっかけをくれたに過ぎない。そもそもの要因は、僕が洞窟に呼ばれ、最愛の人を亡くした経験だろう。そして、今も僕の中に巣くっている『ミズカラ』への不安なのだろう。

 僕は正直に否定することにした。

「大場スミのためではないですよ。もちろん、無関係とは言いませんがね」

 くすくす、と栗原さくらは笑みをこぼす。

「ま、分かってました。でも、今となっては少し想像がつきます。大場スミさんは、きっと洞窟関係の何かに巻き込まれていたんですね。それで、桜庭さんが力になったんでしょう?」

「守秘義務で伝えられませんね」

 僕も笑いながら返す。ただ、彼女の鋭い指摘に内心ひやひやしていた。

 このまま大場スミとの関係について追及されるのかと構えたが、栗原さくらはするりと話題を変えた。

「あの頃は、まだ若くて、バカなこともしてましたね。覚えてますか? 古井教授のゼミでひたすらメモを取らされたこと」

「あれはこたえましたね」

 栗原さくら――旧姓遠藤さくらは、当時を懐かしむように目をつぶった。

 旧知の仲である彼女が口をきいてくれたからこそ、僕はこの島で患者と面会することができたのだ。感謝してもしきれない。

「三人で討論したり飲みに行ったり。毎日刺激的で楽しかったです」

「近藤さんも面白い人でしたから」

「そうそう。大場スミさんが桜庭さんと面談した後、私も近藤さんも飲みすぎちゃって、気付いたらホテルに運ばれてたことがありましたね」

 僕もよく覚えている。なぜなら運んだのは僕自身だからだ。それと、大場スミも。

「近藤さんのやきもちにも困ったものですね」

「やきもち? ああ、なんで選ばれたのが自分じゃなくて僕がっていう――」

「違いますよ」

 栗原さくらは目を丸くした。そのまま「やっぱり鈍い……」と声をもらす。

「近藤さんがやきもち焼いてたのは、桜庭さんと大場スミさんが、なんていうか、こう、つながり合ってる感じがあったからですよ」

「つながり合ってる?」

「ええ。記録を取ってるだけの私たちでも分かりました。私たちの知らないところで、何かを理解し合ってるって。今思えば、それが洞窟のことだったんだなあと」

 しかし、僕と大場スミが、他人の知らないことで通じ合っていたとして、それとやきもちにどんな関係があるのだろう。今一つ腑に落ちないまま、曖昧にうなずいておく。

「桜庭さんはよく分かってないかもしれないですけど、とにかく、あれはやきもちのヤケ酒でしたよ」

「よく分からないけど、なんだか大変だったんですね。近藤さんとは、今も連絡を取り合ってますか?」

 栗原さくらはうなずいた。

「彼女は今も大学附属のクリニックで立派に働いてますよ。現場たたき上げの実力で、今じゃ学会発表に講演会にと引っ張りだこです。昔好きだった人が忘れられなくて、未だに独身らしいですけど」

 バリバリと働く近藤さんは容易に想像ができた。あの勢いのまま、今もクライアントと向き合っているのだろう。イメージの中では、髪色はやはり金だった。そのくせ昔好きだった人が忘れられないとは、僕には見せない繊細な部分があったのだなあと思う。

 もっと聞きたいことがたくさんあった。栗原さくらの近況。共通の知人について。旦那さんとの馴れ初め。

 しかし、それはぶつからんばかりのスピードで向かってきた軽トラックによって遮られた。運転席から、若い男性が転がり出る。昨日、軽トラックで僕らを運んでくれた人だ。

「大変だ!」

 会館のガラス戸を開けて叫ぶ。

「栗原さん、今すぐ旦那さんに連絡してください」

「落ち着いて、何があったんですか」

 栗原さくらが毅然と聞き返す。若者は息を吐いて冷静さを保とうとしつつ、しどろもどろになりながら言葉をつないだ。

「中学生は三人ともだめでした。でもカゲには入られてない――洞窟から出たところで殺されたからっす。それで――それで――」

 血走った目が左右に泳いでいた。

「権蔵さんがカゲに入られたんです」

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