第8話 大場

 エレベーターの扉が開く。

 久々に訪れる洞窟は、湿った匂いがした。懐かしいような、しかし圧倒的な恐怖の記憶をはらんだ匂いだ。苔の生えた石橋、どうどうと流れる滝、時折そのしぶきの中に『ミズカラ』の細い腕が見える。

 景色を一望し、私の胸を強い違和感がよぎった。

「橋の上の『ミズカラ』がいませんね」

 隣の松井が私にささやく。彼は金属バットをお守りのように握りしめていた。

「本当ね。こんなこと今までなかったわ」

 この橋にはたいてい三匹の『ミズカラ』がいるはずだ。数の増減はたまにあるにしても、一匹もいないという状況は経験したことがない。

「ここに潜む何者かが狩ったのかもしれないわ。ひとまず、先に進みましょう」

 刻み込まれた恐怖は抜けない。ここへ来るたびにそのことを痛感させられる。水が滴る音を聞くだけでひどい動悸が起こるし、自分の影が目の前を横切るだけで肌がざわつく。

「いやに暗いわ」

「やっぱりそうですよね。僕もさっきから思っていました」

 先人たちが整備した明かりが何者かによって撤去されているのだ。闇が色濃くなって、その向こうに『ミズカラ』たちが潜んでいまいかと嫌な想像を掻き立てる。

 今更ながら松井がいてくれることに感謝した。一人で行くと主張したのだが、危険だからと彼は譲らなかった。

「早速その殺人鬼とやらを探し出したいわけだけど、そうもいかないわね」

「そうですね」

 私と松井がここを訪れる算段を立てているさなか、松井と通じる今回の参加者が連絡を寄越した。なんでもここ数日連続して『呼ばれ』、今や生き残っているのは二人しかいないらしい。そして、今日もチャイムの音を聞いたのだ。

 連続して『呼ばれ』ること自体は珍しくない。しかし、今は間が悪いとしか言いようがなかった。

 せめてその二人だけでも助け出したい。それで、私たちは今まさに始まりの部屋へと向かっている。調査を始めるよりも、そちらの片を付けるのが先決だ。

「ニュースをチェックしてみましたが、現時点では誰かが凶行に走ったとかいうものは見つかりませんでした」

「私も同じ。それもまた不思議よね」

「洞窟のルールが変わったことと何か関係があるかもしれません。俺、頭があんまりなので、推理するのは得意じゃないんですけど」

「この洞窟はまだ分からないことだらけ。しかたないわ」

 私の胸はざわついていた。ここで命を落とした者が仲間の到着を待っていたらどうだろう。生き残りがいなくなった時点で、それまで鳴りを潜めていた全員が結託し、大規模な事件を起こす。極端なことを言えば、そんなことだって考えられる。

 根拠のない妄想に憑りつかれながら、神殿に足を踏み入れる。私たちはまた違和感を抱くことになった。

 静かな神殿。『ミズカラ』の姿は一匹もない。彼らを攻略するための通路に目をやると、格子戸は閉められていた。しかし、針金が括り付けられてはいない。

「誰かがすでに『ミズカラ』を閉じ込めたのかしら。そして、すべてが水に還ってから針金を外しておいた」

「そうとしか考えられないですが」

 松井はそう言うが、可能性はいくらでもある。たとえば、もうこの洞窟に『ミズカラ』が出現しなくなった――とか。

 ここを牛耳っていた『ミズカラ』が消え、殺人鬼が現れた。これは何を意味するのだろう。

 念のため格子戸を開けておき――帰り道で『ミズカラ』たちが復活しないとも限らないのだ――、私たちは先へ進む。神殿から先の道も、明かりがいくらか撤去されてしまったようで、いつにも増して暗い。目が慣れないうちは数歩先までしか視界がない状況で、白い壁がぼんやりと光って見えた。始まりの部屋だ。

 重い鉄の扉を開くと、中にいた二名の参加者がこちらを向いた。

「松井さん、来てくださったんですね」

 言いながら、一人が立ち上がる。小柄な短髪の少年だ。おそらく中学生だろう。どことなく、昔の松井を彷彿とさせる。

「梶、遅くなってすまんな」

 松井は少年のことを親しげに呼んだ。どうやら松井はこの梶少年から洞窟の情報を仕入れていたらしい。

「こちらは大場さん。洞窟で言えば、俺の同期だ。頼もしい人だよ」

「よろしくね」

 微笑むと、梶少年は「よろしくお願いします」と頭を下げた。頬が少し赤くなっている。快活で、感情がすぐ顔に出る。年上にかわいがられるタイプかもしれない。

「梶はもともと、僕と同じユニホッケーチームに所属してたんです。OBとして顔を出しに行ったら、洞窟に巻き込まれていることが分かって」

 松井には悪いが、その説明は私の頭を素通りしていった。部屋の奥で座っている少女に、私の全意識を傾ける。白いワンピースを着た少女。梶とは違い、立ち上がろうともせず私たちのことをぼんやりと見ている。相当消耗しているのかもしれない。

 彼女に近づくと、肌の白さが際立つ。貧血を起こしているのかと心配になるほどだ。

「ねえ、話しかけてもいいかしら?」

 顎を少し引いて、こくんとうなずく。意思の疎通は図れるようだと分かり、少し安心した。

「私たちはあなたたちを助けに来たの。怖いことばかりで混乱してるかもしれないけれど、もう大丈夫。私は大場スミ。あっちは松井さん。一緒にここから逃げ出しましょうね」

 少女はまたうなずいた。その目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。もう限界だったに違いない。

「私は、白井です。白井美里」

 私は、「ええ、知ってる」と答えた。


 ぐずぐずしている暇はなかった。『ミズカラ』たちが消えていた理由は不明だが、復活されるより先に洞窟を抜けてしまいたい。それに、殺人鬼はどこに潜んでいるかまだ分からないのだ。

 まずは梶と白井をエレベーターまで送り届ける。その後、私と松井は引き返し、殺人鬼の痕跡を調べるつもりだ。

 始まりの部屋を出て、洞窟内に踏み出す。頼りないまばらなランタンの光が足元を照らしている。本当は手に持って歩きたいところだが、殺人鬼にこちらの居場所を知らせることにもなりかねない。

 足音をひそめながら進む。

「幸い、この辺りの『ミズカラ』もまだ復活してないみたいですね」

 松井がささやき声を出す。

 本当はささやき声すら出すべきではないのだろう。だが、松井も考えなしにしゃべったわけではない。梶と白井を安心させる目的でそうしたのが分かる。

 気の毒なほどに白井は怯えていた。自分を抱きしめるように両手を組み、辺りを落ち着きなく見回している。梶も、白井ほどではないにしても、かなりの不安を抱えているのが見て取れた。

 通路の曲がり角へと進む。私にとっては因縁の場所だ。この洞窟へ『呼ばれ』たとき、君野梨歩たちを追ってここまでやって来て『ミズカラ』に襲われる羽目になった。結局、自分でも望んでいない何かに、変貌を遂げてしまったのだ。

 注意深く行く手を確認するが、『ミズカラ』の姿はない。しかし、明るさがひどく損なわれているのだ。油断はできない。

 どこからか水の音がする。水があるということは、『ミズカラ』が現れる余地があるということだ。動悸がひどくなり、全身に力が入る。

 松井が曲がり角の先へ踏み出した。その後を、梶、白井が続く。私は最後尾だ。こう見ると、小学校か何かの引率のようだ。

 洞窟の中ほどへ差し掛かった時だ。暗闇の中から、黒い手がぬっと差し出された。それは、梶の首元へまっすぐ伸び、暗がりへ引き込もうとする。

「わあああああああああああああっ」

 梶が悲鳴を振り絞った。松井がすぐに飛び掛かり、金属バットで黒い腕を殴打する。しかし、それは梶の首から離れようとしなかった。

 私も加勢する。黒い手首をつかみ、渾身の力を込めた。水をかぶっていないが、それでも平均的な成人男性を超える程度の力が加わっているはずだ。

 さすがに観念したのか、黒い腕は梶の喉元を離れ、私の手を振りほどいて暗闇の中に消えた。

「下がった方がいいわ。急いで」

 梶と白井の襟首をつかみ、少し後退する。その瞬間、暗がりから『ミズカラ』が飛び出した。相変わらず、ぎょおお、という昆虫じみた鳴き声を発している。

 すかさず松井が金属バットで頭部を打ち抜く。水風船が破裂するように、『ミズカラ』の頭部がはじけた。司令塔を失った胴体は倒れ込み、じわじわと水に還っていく。

 松井はポケットから懐中電灯を取り出し、辺りを照らした。今の戦闘で、とっくの昔にこちらの居場所は伝わっている。だからもう耐える必要もないのだ。

「もういないようです。すぐに対処できて運がよかった。行きましょう」

 梶は「はいぃ」と泣きそうな声を漏らすが、すぐに松井の後ろへと戻った。なかなか芯のあるやつだ、と私は感心する。一方で、白井は腰を抜かしたらしく、地面へと座り込んでいた。私は、ワンピースが汚れるなあ、とかいうことをぼんやり思った。

「あなたも立って。四人の命がかかっているのよ」

 脇に手を差し入れ、強引に立ち上がらせる。かわいそうだが、ここで止まられては全員共倒れだ。しばらくは身体に鞭打って私に従ってもらうしかない。私の脳裏に、人へナイフを突きつけてまで参加者全員を救おうとした桜庭さんの姿がよぎった。彼がいたら、もっとスムーズにことを運べただろうか。

「暗いから、『ミズカラ』たちが闇と同化してやがりますね」

 松井が愚痴を発する。

「そうね。やっぱり『ミズカラ』たちが消えてしまったわけではないみたい。注意する必要があるわ」

 私はそう応える。

 彼らに不要な情報を与えて、混乱を引き起こす必要はない。

 先ほど私がつかんだ腕は、触れ慣れた革の感触だった。『ミズカラ』はもっと湿り気があり、ぬめりを帯びているはずだ。

 黒い革の手袋をはめた何者か。暗闇に潜む黒ずくめの何者か。

 やはり、殺人鬼は人間なのだ。

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