第6話 大場
君野梨歩の自宅へ向かう電車の中で、松井からメッセージが入った。開いてみると、人名と簡単な情報が羅列されている。
『現時点で分かっているだけの、今『呼ばれ』ている人たちです』
行動が早い。夜勤明けですぐに動いてくれたのだろう。
『ありがとう。時間ができたら改めてしっかり確認させてもらうね』
そう返信する。
名前の一覧を眺め、ひとまず知っている名がないことを確認する。彼らにしても、突然訳の分からない情報に放り込まれ、困惑しているだろう。できるだけ早急に助けたいが、こればかりは何とも言えない。
私はある名前に目を留めた。同時に、冷たい汗が背中を伝う。
『白井美里』
私の知らない人の名前だ。中学一年生。性格に関する情報は無し。問題は、彼女の居住地にあった。
見覚えのある施設名が記載されている。私が数年前まで生活していた児童養護施設だ。
途端に、私の脳裏に鮮烈なイメージが浮かんだ。
消灯された部屋の中で、むくりと起き上がる少女。そのまま床に降り立ち、毛布を治そうともしないまま、裸足で部屋を出ていく。
場面が変わって、食堂。施設長が難しい顔で新聞を読んでいる。人手が足りないと、彼女は自ら夜勤を買って出るのだ。洗い物や洗濯を一通り終えてしまうと、濃いブラックコーヒーを飲みながら一夜を明かす。
そこへ、少女がやって来る。彼女に表情らしきものは認められない。
どうかしたの、と施設長が声を掛ける。彼女も年老いた。私が入所した頃よりさらに白髪が増え、本人は隠しているつもりだが、片足をかばって歩いている。
少女は答えない。するりと調理室へ入っていく。怪訝な顔をして施設長が後を追う。施設長の胸に去来するのは、きっと何年も前に、包丁を持ち出そうとした高校生の姿だ。あの時、施設長はその子を抱きしめ、大丈夫、大丈夫、とささやき続けた。
でも今回はそううまくいかない。施設長の方を振り向いた少女は、やはり刃物を握っている。その顔にたたえられているのは、満面の笑みだ。抱擁しようが、どんな言葉を掛けようが、救うことのできない狂気の笑み。
少女は俊敏に、施設長へ迫る。
私は頭を振って、そのイメージを振り払った。不要な想像を働かせるものではない。少女が『ミズカラ』に入り込まれると決まったわけではないし、今まさに、私はそうならないように策を講じているところなのだ。
私が名前を知らないということは、ここ最近入所した子なのだろう。
私の胸を、強い痛みが通り過ぎた。
これはきっと嫉妬だ。私が出た後で、施設長らに優しい言葉を掛けられ、大事に守られているであろう少女。命がけで私のことを引き戻してくれた人を、手に掛けるかもしれない少女。
深呼吸して、その強い感情をやり過ごす。それに引きずられてはならない。
私がすべきことは、桜庭さんを見つけ出すことだ。その方が、洞窟に生じた異変を解決する可能性が格段に上がる。しかし、それが難しければ――。
私が何とかするしかない。
君野梨歩には、事前にアポイントを取ってある。かなり簡単に現状を伝えたが、彼女は快諾してくれた。電話だけのやりとりでもいいのだが、込み入った内容は直接話した方が誤解も無い。それに、確かめたいこともある。
チャイムを押すと、相当な時間待たされた上で、玄関の扉が開いた。君野梨歩の家族は全員外出中なのだそうだ。
「待たせちゃってごめんなさい」
君野梨歩がそう言うので、いいえ、と私は返す。
「上がらせてもらってもいいのかしら」
「もちろん。入ってください」
玄関の緩やかなスロープを上る。リビングは小ぎれいだった。机やソファといった家具はコンパクトなものが多く、逆に動線は広くとられている。誰にとっても行き来しやすいだろう。
「本当は温かいものをお出しできればよかったんですけど」
ソファに掛けさせてもらうと、彼女はペットボトルのお茶を差し出した。
「ごめんね、気を遣わせてしまって」
「何も、です」
しばらくは当たり障りのない世間話に花が咲いた。私の仕事がどうだとか、君野梨歩の近況だとか。
やがてそれらが霧散するころ、思い切って私は切り出した。
「それで、前に電話で話したことなんだけれど」
「ええ、洞窟のルールが変わったかもしれない、ってことでしたね」
君野梨歩は賢い子だ。私の渡した情報だけで、ある程度の概要を把握している。
「あれから何度か、桜庭さんにも連絡してみたんですが、少なくとも現時点で、私にも連絡はありませんでした」
わずかな落胆を感じながら、私は「そう」と返した。
「君野さんにも連絡がないのなら当然だけれど、私にも連絡がないの」
「大場さんもそうなんですね」
私たちは、それからしばらく洞窟のルールについて意見を交わす。桜庭さんの助力が得られない以上、自分たちで可能な限りの対処をする必要がある。
しかし結局、その議論は二つの可能性に収斂される。生存率が高まったことによる、何らかの介入。あるいは、危険な人物の侵入。
私たちでは、どうにもそれ以上の可能性を吟味できそうになかった。
息をつき、話し合いを打ち切る。君野梨歩も「私の頭じゃ、これが限界ですね」とぼやいて、伸びをして見せた。
「桜庭さんに会ったのはいつ?」
何とはなしに、私は尋ねてみる。
「どうでしょう? 本格的に調査に乗り出す前だったので、ちょうど一年前ですかね。それまでは、むしろ関係を疑われるくらい一緒にいたわけですが」
「そうだったね。携帯で連絡したのは?」
「あ、それはたぶん、大場さんよりも前ですよ。私は島がどうのこうのって話なんて聞いてないですから」
そうすると、やはり『とある島の調査中』というのが、私たちに残された唯一の手掛かりというわけだ。手がかりと言っても、もちろんこれ以上探しようがないわけで、私は選択を迫られている。
「桜庭さんの助力が得られないのは痛いけど、一度、洞窟へ行ってみようと思うの」
そう口にすると、君野梨歩は「そうですか」と言って、少しうつむいた。
「私は怖いんです。いつも、怖いんです。一緒に戦ってきた仲間が、ある時突然、いなくなっちゃうんじゃないかと思って。『残念だけど、生きて戻れなかった』なんて言われるんじゃないかって。ごめんなさい、不謹慎ですよね。大場さんはみんなを守ろうとしてるのに」
君野梨歩が言わんとすることはよく分かる。生存率が高まったと言えど、ノートに書かれた攻略法が相当数蓄積されてきたと言えど、やはり命を賭していることに変わりはない。いつ何時、誰が死ぬか分からないのだ。
「大丈夫、今回は調査だけ。誰も傷つかないし、安心して」
そう言うと、君野梨歩は小さくうなずいた。
「私が以前、怪我をしてしまったときの桜庭さんの顔が忘れられないんです」
私もそのことを知っている。ずっと前、私たちが洞窟へ向かったときのことだ。一瞬の隙を突かれた君野梨歩は、『ミズカラ』の襲撃を受けた。命を落としこそしなかったが、大きな怪我を負ったのだ。
桜庭さんの動きは速かった。深手を負った君野梨歩をすぐに抱き起し、私たちには目もくれず、すぐさまエレベーターに向かって走り去っていった。
結局、彼もまた自分の内にある『ミズカラ』の影響を被っているのだ。私が施設長の安全に執着するのと同じように。
君野梨歩はすでに、その怪我から立ち直ろうとしている。しかし、大切な人の負傷を目の当たりにした桜庭さんは、洞窟に関わる調査に一層打ち込み始めた。自分がもつ時間のすべてを犠牲にするほどに――誰の目から見ても、それは常軌を逸する寸前の有様だった。
私には、『ミズカラ』がそうさせているのだと分かる。桜庭さんにとっての君野梨歩は、私にとっての施設長と同じ。『ミズカラ』に入り込まれた私たちは、ありとあらゆる事柄の中心にその人がいる。逆に、それ以外の人はどうだっていいのだ――それがどれだけ人間味を欠いた状態だとしても。
「桜庭さんは、今どこで、何をしてるんですかね」
寂しそうに君野梨歩はつぶやく。
私は何も言えない。ただ、彼女を見つめる。
今にも涙を流しそうにしている、車椅子に座った彼女を。
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