第3話 桜庭

 携帯電話を探してポケットをまさぐり、修理中だったのだと思い出した。この島へやってきてから、データの送受信に支障をきたすようになったのだ。やがてプツリと電源が切れ、それ以来うんともすんとも言わなくなってしまった。島であるがゆえに電波の調子が悪いのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。

 ため息をつき、見慣れない景色の中を歩き出す。

 少し先に、暖簾と提灯の明かりが見える。ここは島唯一の飲み屋街だ。と言っても、その実居酒屋は三軒しかない。串物の居酒屋が一軒、昔ながらの大皿料理を食べさせる店が一軒、少しお高めの創作料理屋が一軒。もとより観光客の来るような島ではないから、どれも地元の人向けのものだ。

 今日、患者との面会を許してくれた病院の院長が、わざわざ飲みの場をセッティングしてくれたのだ。見た目にたがわず、やることも若々しい。なんでも、「こんな何もないところに足を運んでくれたのに、お構いできないのは忍びない」とのことだ。病院に勤務する心理士らを集めてくれるとのことだから、情報交換の場でもあるのだろう。すなわち、僕は自分の持ちうる情報を――島の外の情報を――差し出す必要があると言うことだ。

 横並びになった三軒のうち、一番奥の暖簾をくぐる。ちなみに、ここは大皿料理の店らしい。入った瞬間に、焼き魚の匂いが鼻を突いた。

「あ、いらしたいらした」

 店の中にはカウンターがあり、奥に一つだけ座敷席がある。そこから顔をのぞかせていた女性が僕の姿を認め、声を上げた。手招きされるままに、座敷へと歩み寄る。

「すみません、遅くなりました」

「私たちも今来たところですから。何もないから、時間を潰すのも大変だったでしょう」

「いえ、商店の方をぶらついていたので」

 言いながら靴を脱ぎ、上座へと座らせてもらう。隣にはすでに、昼間の院長が控えていた。

「お忙しいのにすみませんな。なかなかこう、新しい空気とか、そういったもんがここには足りんものですから」

「僕も楽しみにしていました。よろしくお願いします」

「そんなにしゃちほこばらんと、リラックスしてください」

 飲み物は、と聞かれたので、ひとまず生ビールをお願いしておく。近藤さんと遠藤さんに鍛えられたおかげで、今では何杯飲んでも悪酔いすることはない。

 飲み物が運ばれ、いくつかのお通しが並んだところで乾杯となった。

土地柄だろうか、この島の人はよくしゃべる。そして、よく食べる。当たり障りのない自己紹介をし合っているうちに、あっという間に空の皿が重ねられていった。

「うちのもんはみんな遠慮という言葉を知りません。適当にあしらってやっていいですから」

 院長が苦笑いをして言う。

「ちょっと、適当にあしらうってどういうことですか」

 最初の女性が声を上げる――名前を栗原さくらという。この島で働く心理士やカウンセラーの中では最も若い。もともとはこの島に縁もゆかりもなく、臨床心理学系の大学を修士課程まで進んだ。いくつかの職場を経てこの島にやって来て、そのまま島の人間と結婚したということだ。

 周囲を見回すと、この栗原を除き、この島の心理士やカウンセラーは中年の女性が大半を占めていることが分かる。その中でひときわ異彩を放っているのが、中央に座る壮年の男だ。話を聞く限り、この男は心理士でもカウンセラーでもなく、島内で農家を営んでいるらしい。

 自己紹介では、「権蔵」と名乗っていた。日に焼けた肌、引き締まった体躯、鋭い眼光、いわゆる「ただ者ではない」とは、こういう人間を指すのだろう。両隣の女性にしゃべりかけては笑いをとっているが、その実酔ってもいないし、こちらのことをしっかりと確認している。

 油断ならない、と思った。同時に大きな興味を抱く。権蔵は、何のためにこの場へやって来たのだろうか。院長はなぜ彼をこの席に呼んだのだろうか。


 それらが氷解したのは、僕らの飲むものが日本酒に代わり、卓上へ冷ややっこや酢の物といったさっぱりしたものが並び始めたころだった。

「先生はどうして、今のテーマで研究をなさっているんですか」

 赤ら顔の院長が、それでもはっきりとした口調で尋ねてきた。人の名前と顔を一致させるのに必死になっている頭で、何をどこまで話すべきだろうかと思案する。

「月並みですが、身の回りにそんな人が複数人いて、興味があったからですね」

 ひとまず逃げの一手を打っておく。嘘はついていないが、この答えを聞いて深く掘り下げようと思う者もいないだろう。そもそも僕は研究職ですらないのだから、下手に話を続けて墓穴を掘るのを避けたい。

「ルール違反かもしれませんが、どんなことが分かってきたのか、ちょっとだけ教えていただくわけにはいきませんかね?」

 院長は踏み込んできた。僕の動機にはもとより興味がなかったようだ。本題はあくまで、僕のつかんでいる情報にある。

 僕は少し安心した。この分なら、いくらでもかわすことができるからだ。

「いえ、まだはっきりとは。事件当時のことを思い出せない、あるいはうまく伝えられない方も多いものですから」

「それはまあ、そうでしょうね」

「ですが、何といいますか、悪夢が関係しているような印象を受けています」

 そう口走ったのは、酔いのせいだろうか、それともうんうんと話を聞いてくれるギャラリーのせいだろうか。なんにせよ、僕が「悪夢」と口に出した瞬間に、院長らは目くばせし合った。そして僕は瞬時に自分がしゃべりすぎたことを悟った。

「先生」

 低い、どすのきいた声が聞こえた。

 見ると、権蔵が笑みを浮かべてこちらに身を乗り出している。

「先生は賢そうだ。さっきからのらりくらりと逃げてるようにしか見えなかったんだが、今ようやく分かった。あんた、何か知ってるだろう」

「何かとは?」

 努めて冷静な様子で返す。正面の席で、困ったような顔の栗原さくらが僕と権蔵を交互に見つめていた。

「まあ、とぼけるつもりならそれでもいい。ここからは一人のおっさんの妄言だ」

 僕は黙ったまま、視線で続きを促す。座敷は、先ほどと打って変わってしんとしていた。誰しも、目を伏しながらちらちらと僕の方を見つめる。おそらく、この話をするために僕はこの席へ呼ばれたのだ。

「この島では、時々若いやつらがおかしな洞窟へ『呼ばれ』るんだ」

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