第2話 大場
最後の数値を入力し終え、分厚いファイルを手に取る。パソコン上の最終的な集計が、ファイルに記載された数字と同じであることを確認し、私は深く息をついた。
面倒な会計作業がひと段落したのだ。雑多な領収書の端をひらひらさせながら、ファイルを閉じる。
大学の事務室はすでに静まり返っている。学生たちもさすがに帰っている時間だ。研究に没頭する大学院生たちの中にはまだ残っている者もいるだろうが、彼らは研究室に閉じこもったまま出てこない。
この仕事を始めて四年になる。この大学では、事務職を学部の卒業生から採用することが多い――それは公に発表する就職率を底上げするための方便であることを、それとなく耳にした。本来なら高卒の私が採用されるような枠ではないのだが、古井教授が口をきいてくれたおかげか、すんなりと入り込むことができた。高校時代、ビジネス関連の資格取得に明け暮れたことが功を奏したのかもしれない。今ではこうして事務を務めつつ、この大学の夜間コースへ通っている。もちろん、所属は古井教授のゼミだ。
――最近、悪夢はどうなったかな。
先日、久々に顔を合わせた古井教授からそう尋ねられた。これまでの臨床経験から、古井教授は青少年が見る悪夢に何らかの法則性を感じ取っているようだ。しかし、それがどのような仕組みで、何が起こっているのかをつかむまでには至っていない。
――もう何年も見ていませんよ。
その時、私はそう答えた。嘘はついていない。まったく予期しないタイミングで鐘の音を聞き、夜中に怪しげな洞窟に引きずり込まれるような状況にはいないのだ。自分の意志で悪夢の中へ踏み込むことはあるとしても。
とはいえ、私はもう一年以上、あの洞窟へ行っていない。それは後進が育ったことに他ならない。もう私と桜庭さんが足を運ばなくとも、誰も犠牲にせず生き残ることができるのだ――もちろん、時折例外はあるにしても。
錯乱した青年、ドッキリだと信じて疑わなかった少女、決まりを守らなかった女性。そのすべてを救うことは不可能だ。私たちにできることは、生存率を限界まで高めること。桜庭さんが中心となって作成したノートのおかげか、ここしばらくは高い生存率がキープされているようだ。よほどのことがない限り、私まで相談は上がってこない。
ブン、と耳障りな音を立てて、私のスマートフォンが震える。それが羽音のように聞こえて、私はしばし身を固くした。
表示を見ると、「松井」という名前が目に入る。
噂をすれば影が差す。私と桜庭さんの後進にして、現在の『ミズカラ』対応を一手に担っているのが彼だ。『ミズカラ』のことも洞窟の構造もすでに知り尽くしているはずで、私に連絡を寄越すなど珍しい。
『突然、しかも夜分にすみません。至急ではないですが、ちょっとご相談したいことがあります。御都合のいい日はありますか』
至急ではない、ということは、洞窟で不測の事態が起きたわけではなさそうだ。ひとまず胸をなでおろす。洞窟に関する連絡を見ると、自然と動悸が起こる。これは桜庭さんも同じだと言っていた。
『明日は午前中なら空いてるよ。私の職場近くでもよければ、そこで』
『お願いします。できれば桜庭さんも同席してくださるとありがたいのですが、連絡しても返事が無くて』
松井の返事は早い。私は大学の近くにあるファミレスを待ち合わせ場所に指定し、会話を打ち切った。
桜庭さん。
私たちの先輩にして、私と同じ、『ミズカラ』に入り込まれながらもその抑え込みに成功した人。
彼のことを考える。
桜庭さんは本格的に『ミズカラ』の調査を始めようとしていた。『ミズカラ』と対決した人の心的外傷について。あるいは乗っ取られた人のその後について。この場所以外にも『ミズカラ』のいる場所があるのかどうか。少しでも信ぴょう性のある情報が寄せられた途端、全国のどこへでも身軽に出かけていく。
私にも、何か分かり次第連絡をくれると約束した。
しかし、現在桜庭さんは音信不通の状態だ。彼の身に何が起こっているのか、私には知る由もない。最後の連絡は、私が送った『今は何をされているんですか』というメッセージへの返信だ。
――『とある島の調査中だよ』
これ以降、彼からの連絡は途絶えた。
「どこにいるんですか、桜庭さん」
私は暗い窓の外を見つめる。
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