4−3

 そうして歩き続けてどれほど時間が経っただろうか。さすがに歩き疲れ、少し休もうかと松宮が木陰を探したその時、前方に何やら大きな森が見えてきた。こんもりとした木々が立ち並び、向こう側が全く見えない。


 松宮は足を止めてその森を見つめた。村の外に森があるなんて話は聞いたことがない。子どもが入って迷ったら大変だから、あえて教えなかったのだろうか。松宮は少し迷ったが、その森を探検することにした。


 一歩足を踏み入れただけで、その森が外とは全く雰囲気が違うことがわかった。頭上から差し込む木漏れ日は優しく、聞こえるのは鳥のさえずりや風が吹き抜ける音ばかりで、木々がさわさわと揺れる音が耳に心地よい。1人で見知らぬ場所を歩いているのに恐怖はまるで感じず、むしろ誰かが手を取って導いてくれているかのような優しさを感じさせる。松宮はその静穏な空気に触れるうちに、心の渇きが次第に癒されていくのを感じた。


 そうしてしばらく歩き続けたところで、松宮は開けた場所に出た。地面に白い石畳が広がり、両脇に白い石柱が並んでいる。石柱の根元には無数の小さな花が咲き、鮮やかな羽を持った蝶がその周りを飛び交っている。突如として現れた幻想的な空間を前に、松宮は思わずため息を漏らした。


「うわぁ……すげぇ。こんな場所今まで見たことねぇや」


 まるで楽園のような光景。村の子どもの誰も、村の外にこんな場所があるとは知らないだろう。そう考えると、松宮はここに辿り着いた自分が選ばれた人間のように思え、誇らしさが膨れ上がっていくのを感じた。


「……でも、本当に綺麗だな、ここ。あいつが大きくなったら連れてきてやろうかな……」


 松宮は無意識のうちに呟いたが、すぐにはっとして慌てて首を振った。バカだな、俺。こんなところで妹のことなんて思い出さなくたっていいだろう。あいつには俺以外にも、いくらでも構ってくれる奴がいるんだから。


「……よし、決めた! ここは俺の秘密基地にする! 誰にも教えてやらねぇ。俺1人だけの場所なんだ!」


 松宮は勢い込んで言うと、足元にある尖った石を拾い上げた。ここが自分の物であることを示すため、どこかに名前を彫っておこうと思ったのだ。


「どこがいいかな……。木だといっぱいありすぎて彫った場所わかんなくなりそうだし、柱に書くのは無理そうだしな……」


 松宮は呟きながら石畳の周りを歩き始めた。その時、石畳の奥に木でできた小屋のようなものがあることに気づいた。底辺が4本の柱で支えられて地面から高さがある。大きさは犬小屋ほどしかないが、ご立派に屋根と扉が付けられている。松宮はそれを見てぴんときた。


「そうだ! あの小屋にしよう! あれなら後で来た時にも気づくし、知らない奴が見てもわかるしな!」


 松宮は表情を綻ばせて言うと、その小屋の正面へ向かって駆けて行った。近くで見ると古ぼけた汚い小屋にしか見えなかったが、何となく、簡単に手を触れてはいけないような雰囲気があった。


「……これ、彫って大丈夫かな? なんかバチ当たりそうな気がするんだけど……」


 松宮は怪訝そうにその小屋を見回した。もう少し年端が行っていれば、その小屋が『祠』であることがわかったのだろうが、10歳の少年に過ぎない松宮はまだその言葉を知らなかった。


「……まぁ、いいか。こんな古い小屋だし、ちょっとくらい傷つけたって誰も気づかねぇだろ」


 松宮は自分を納得させるように言うと、改めて祠を検分した。屋根や壁に触れ、名前を彫りやすそうな場所を探す。


 その時だった。不意に突風が吹き、松宮は咄嗟に目を瞑って腕で顔を覆った。祠の扉がかたかたと揺れ、次いで何かがばさばさと擦れる音がする。


 松宮がうっすらと目を開けると、少しだけ開いた祠の扉に、1枚の紙が引っかかっているのが見えた。松宮は祠の方に手を伸ばしてその紙を掴んだ。途端に風がぴたりと止み、祠の扉が何事もなかったかのように閉まる。松宮はぽかんとして祠を見つめた後、手にした用紙に視線を落とした。


 その紙は随分と古いもので、ところどころ黄ばんだり擦り切れたりしていたが、そこに書かれた文字は判別できそうだった。松宮は何の気なしにその文字を読み始めたが、途端に驚きに目を見張った。長い文章の末尾に書かれた名前が、自分の知ったものだったからだ。


『突然このようなお手紙を差し上げる御無礼をどうぞお許しください。

 私がこの場所を発見したのはほんの偶然でした。行商の帰り、村に戻るはずが迷ってしまい、気がつくとこの森に辿り着いていました。何とも神秘的な雰囲気に惹かれて足を踏み入れ、そのまま導かれるように歩き続け、辿り着いたのがこの場所でした。

 初めてここを見た時に頭に浮かんだのは、“聖域”という言葉です。この場所からは、現実のものではない不思議な力を感じる。私はその力を森の神のものだと思い、そのお力を借りたいと願ってこのような手紙を差し上げたのです。

 前置きが長くなりましたが、お願いしたいのは妻のことです。妻は子どもを身籠もっており、後2ヶ月もすれば出産する予定になっております。それ自体はおめでたいことなのですが、同時に妻の身体が心配でもあります。妻は身体が丈夫でなく、過去に二度流産した経験があります。だから今度こそは、と私達も期待を懸けているのですが、もしまた同じことになれば、妻が肉体的にも精神的にも多大なショックを受けるのではないかと不安が耐えません。

 森の神よ、どうか、私達に子を授けてください。私も妻も、私の父も、この子が産まれるのを本当に楽しみにしているのです。

 名前ももう決めています。女の子であれば芽衣、男の子であれば松宮と名付けます。芽衣は、衣のような人の優しさに包まれながら、新芽のようにすくすくと育ってほしいという願いを、松宮は、宮を守る兵士のように誇り高く、厳寒にも屈しない松のように屈強な人間に育ってほしいという願いを込めています。

 森の神よ、どうか、私達をまだ見ぬこの子達に引き合わせてください。

                 紫芭しば


 松宮は食い入るようにその手紙を読んだ。最後まで読み終えるとまた頭から読み返し、3回繰り返したところでようやく顔を上げた。近くの石柱に背中を持たせ、ふうっと息をつく。


 用紙の状態からすれば、これが何年も前に書かれたものであることは明らかだ。芽衣が産まれるよりもずっと前。そう、これは10年前、自分が産まれる前に父が書いた手紙なのだ。


(親父……)


 えもいわれぬ感情が喉元までせり上がってくる。自分は誰にも望まれていないとばかり思っていたのに、実際には父も母も、棟巌さえも、自分が産まれてくることを切望していた。芽衣の時と同じように、産まれる何ヶ月も前から自分の話をし、産まれた後には自分の言葉や表情を残らず話題にしたのだろうか。


(お袋……)


 手にした紙を握り締める。『流産』という言葉の意味はわからないが、とても辛い経験だったのだろうということは想像がつく。そんな経験の後で無事に産まれた自分を見た時、母はどんな気持ちだったのだろう。芽衣の時と同じように汗と疲労にまみれていても、それを超えるほどの愛おしさを感じてくれたのだろうか。


(爺さん……)


 棟巌は言った。自分が望もうが望むまいが、芽衣はすでに家族の一員なのだと。松宮の時は、最初から家族全員が自分を望んでくれていた。なのに俺はー、いつまでも1人で意地を張って、あいつを受け入れてやれなかった。あいつだって、親父やお袋、爺さんや俺に会いたくて産まれてきたはずなのに――。


 松宮は顔を上げると、手にしていた石を投げ捨てて祠に背を向けて歩き始めた。名前を刻む気はもうなかった。今の松宮には、それよりももっと大事なことがあった。

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