4−2
病室を飛び出した松宮は一目散に廊下を走って行った。何人かの患者や医師とぶつかったが、謝罪もせずに走り続けた。今すぐ診療所から抜け出して1人になりたかった。
「松宮! 待たんか!」
そんな松宮を押し留めるように背後から棟巌の怒号が飛んだ。松宮が咄嗟に足を止める。棟巌は大股で松宮に近づくと、すぐに彼を追い越して向き直った。松宮は顔を上げなかったが、それでも祖父が怒っている気配が伝わってくる。
「……まったくお前という奴は、もう少し場を弁えた行動ができんのか? 紫芭も薫さんも大層心配しておったぞ」棟巌が厳しい視線を松宮に向けた。
「……心配なんかしてない。親父もお袋も、俺なんかよりあいつの方が大事なんだ」松宮がぶすっとして言った。
「あの赤子のことか。妹に嫉妬するとは……男のくせに情けない奴じゃな」
「だってそうじゃねぇか! 父さんも母さんも、あいつが産まれるってわかってからずっとその話ばっかして、俺の話なんか全然聞いてくれねぇんだぜ!」
松宮がいきり立って叫んだ。自分が男友達と喧嘩をして擦り傷を作って家に帰るたび、母は呆れ顔をしながらも傷の手当てをし、父は笑いながら松宮の武勇伝を聞いてくれた。それなのに、赤ん坊が産まれるとわかってからは2人ともその準備で忙しくなり、ちっとも自分に構ってくれなくなってしまった。
「お前ももう10歳じゃ。いい加減親離れを覚えねばならん。ましてお前は兄になったのじゃぞ? 親に甘えるばかりではなく、逆に親を助けてやろうとは思わんのか?」
「……別に、俺、あいつのこと嫌いだし」
松宮がそっぽを向いた。棟巌が深々とため息をつく。
「松宮、お前が望もうが望むまいが、あの子はすでに家族の一員になっておる。その事実は変えられんのじゃ。意地を張り続けたところで、紫芭や薫さんを悲しませるだけじゃぞ」
棟巌が諭すように言ったが、松宮は下唇を突き出しただけだった。棟巌はため息をついて首を降ると、それ以上は何も言わず、松宮の脇を通り過ぎて病室へと戻って行った。
女の子は
母からそんな由来を聞かされた時も、松宮は馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。何が新芽だ。芽なんて人間に踏み潰されるか、家畜に食われるだけの弱っちいやつだ。どうせこいつも、人から何かされてすぐに泣き出すような弱っちい女になるに決まってる。
実際、芽衣は大人しい赤ん坊だった。夜泣きをして両親を起こすことも、むずがって大声を上げることもなく、大抵の場合はお行儀よくすやすやと眠っていた。家に来た村人達は、こんなに可愛い赤ん坊は初めて見たと感心したが、それがまた松宮には面白くなかった。いつもなら村人達は、家で松宮を見ると頭を撫で、彼の冒険譚に耳を傾けてくれるのだが、芽衣が産まれてからは松宮には簡単に挨拶するだけで、すぐに芽衣の方に行ってしまうのだ。
両親も同じようなもので、芽衣がどんな表情をして、どんな言葉を発したとかくだらない話ばかりして、松宮のことは全然気にかけてくれない。そのくせ松宮が家の中を走り回ったり、物を壊したりすると思い出したように叱りつけてくる。松宮はそのうち家にいるのが嫌になり、朝早くから出掛けて夕方まで帰宅しないことが多くなった。
出掛ける先は大抵友達の家だった。家まで友達を迎えに行き、そのまま草原へ駆け出すか、天気の悪い日は家で木を削って剣や弓といった武器を作る。それが松宮の日常だった。だが、芽衣が産まれてからは友達の家も以前ほど楽しくなくなった。友達やその親が頻りに芽衣のことを尋ねてくるからだ。
「よう松宮、お前妹ができたんだって? 妹がいるのってどんな感じなんだ?やっぱ可愛いとか思うのか?」
「あら松宮、芽衣ちゃんは元気? すごく大人しい子なんですってね。手がかからなくて羨ましいわ。うちの子の時なんて大変だったんだから……」
人口が少なく、刺激のないこの村では少しでも変わったことがあるとすぐ噂になる。どこに行っても『可愛い妹』のことを聞かれ、松宮はそのうち友達の家に行くのも嫌になってきた。
行くところがなくなった松宮は、しばらく1人で虫を捕まえたり木の実を採ったりして遊んでいたが、すぐにそれにも飽きてしまった。あんまり退屈だったので、腰に刺した木刀を抜いて素振りを始める。この木刀は、自宅で剣術道場を開いている棟巌から譲り受けたもので、少しでも暇があれば練習するようにと口を酸っぱくして言われていた。だが、普段の松宮は遊びを優先させてろくすっぽ練習せず、木刀はほとんどお飾りと化していた。
しばらく素振りを続けて汗をかいたところで、松宮は地面にしゃがみ込んだ。顎から滴る汗を拭い、村の方を振り返る。村に特に変わった様子はない。自分を探しに来る者もいない。剣術は精神の鍛錬にもなると棟巌はいつも言っていたが、何度素振りを続けたところで、乱れた松宮の心が鎮まる気配はなかった。
「……あーあ、つまんねぇの。何だよ、みんなして芽衣、芽衣って。そんなにあいつがいいのかよ」
松宮はふてくされた顔で呟くと、足元にあった石ころを拾って放り投げた。石は綺麗なカーブを描いてぽちゃんと川に落ちる。松宮は面白くもなさそうにその光景を見つめた。
「……俺がこんなとこで1人でぼやぼやしてんのも、誰も知らねぇんだろうな……。みんなあいつのことばっか気にして……」
もっとも、松宮自身、最初からこれほど妹を忌み嫌っていたわけではない。初めて母から弟か妹ができることを伝えられた時は、松宮ももっと素直に喜んでいた。弟なら一緒に遊べると思っていたし、妹でも、隠れんぼや鬼ごっこくらいはできると思っていた。
でも、両親が赤ん坊のことを夢中になって話すたび、松宮は自分の気持ちが次第に変わり始めていることに気づいた。弟か妹に会いたいという気持ちは影を潜め、逆に産まれなければいいと思うようになった。そうすれば両親も、赤ん坊のことばかり話さずにまた自分の相手をしてくれるようになる。だが、そんな松宮の願いもむなしく、芽衣は両親どころか村中の注目を一身に集める存在となっていた。
「……みんな今何してんのかな。どうせまたあいつに構ってんだろうな……」
松宮はため息をついた。さっきから独り言が増えていることには気づいていたが、どうせ誰も聞いていないのだと開き直ることにした。ズボンについた草を払い、木刀を腰に差して立ち上がる。
「……このまま村の外にでも行っちまうか。どうせ誰も追っかけてこねぇしな」
松宮は捨て鉢な気分で呟くと、村を背にして草むらを歩いて行った。
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