2−4

「……だがある時、私も手をこまねいてはいられない事態が発生した」功奄が急に険しい表情になった。「ある男があの人に接近を始めたのだ。それも非常にたちの悪い男がな」


「そうなんですか。下男か誰かですか?」


「違う。滝葉、お前も知っている男だ。豺牙さいがのことは覚えているだろう?」


 その名前を聞いた瞬間、滝葉ははっと息を呑み込んで顔を引きつらせた。たちまち戦慄が全身を貫き、思い出したように背中に痛みが走る。


 豺牙さいが。かつてこの王宮で死闘を繰り広げた男。盗賊団の首領ドンとして非道の限りを尽くし、多くの人々を悲しみの淵に追いやった諸悪の根源。今では盗賊団は壊滅し、豺牙も地上からその姿を消していたが、彼らの狼藉ろうぜきは今も人々の心に深い爪痕を残している。その豺牙が、功奄の実の弟だという驚愕の事実を知ったのはつい数ヶ月前のことだ。


「奴も昔は兵役部隊に所属していてな。当時の奴は12歳で、入隊した初年だった。もっとも、私は奴の入隊には反対していた。奴は目先の快楽をむさぼり、他人を利用することしか頭にない男だ。そんな男を部隊に入れれば風紀が乱れることは一目瞭然。だから私は、奴の採用を見送るよう上官に進言したのだ。

 だが、当時の私はしがない二等兵。意見が聞き入れられるはずもなく、奴はまんまと部隊に採用されてしまった。持ち前の口八丁くちはっちょうで、面接官を上手く丸め込んだのだろうな」功奄が忌々しそうにかぶりを振った。


「確かに、あいつの言動には目に余るもんがあったな」玄治が表情を曇らせた。

「訓練の最中も、しょっちゅう他の兵士の邪魔をしては、そいつが上官に叱られとるのをにやにやしながら見とるんや。そのくせ自分の近くに上官が来ると、真面目くさった顔で訓練に精を出して。おかけでわしらがあいつの妨害を訴えてもまるで信用されへん。本間にはた迷惑な奴やったわ」


 功奄と玄治の会話を、滝葉は興味深そうに聞いていた。自分の愉しみのために他人を玩具として利用する。滝葉が数ヶ月前に会った豺牙も確かにそういう性格をしていた。兵役部隊に一時身を置いていたとはいえ、忠誠心や義侠心ぎきょうしんは当時から欠片も持ち合わせていなかったらしい。


「それで……その豺牙が例の女性に近づいたのですか?」滝葉が話を戻した。


「あぁ。ある時、私は豺牙とあの人が話している場面を目撃した。話していると言うよりも、豺牙が彼女に一方的に言い寄っているだけだったがな。豺牙はあの人を執拗に誘い、彼女が誘いに乗らないことがわかると、強引に連れ出そうとした……。

 私はあの人への艶書えんしょを手にその光景を見ていたのだが、居ても立ってもいられなくなり……無意識のうちに2人の方へ足を踏み出していた。それまでの私は、あの人への好意が周囲に知られるのを恐れ、人前では決して関わらないようにしていたのだが……その時は違った。あの人が奴の毒牙にかかろうとしているのを、手を拱いて見ているわけにはいかなかったのだ。

 私は2人の前に立ちはだかり、豺牙に向かって彼女を離せと言った。豺牙は一瞬驚いた顔をしたが、私の顔を見て彼女への恋情を読み取ったのだろう。すぐに小ずるそうに口元を歪め、こんな言葉を言い放った」


『何だよ。あんたもこのカワイ子ちゃんに目ぇつけてたのか? しょうがねぇなぁ……。俺と兄貴の仲だし、半分分けてやろうか?』

 

「その言葉を聞いた瞬間……私の中で何かが弾けた。頭の中で血が沸騰し……私は怒りに我を忘れた。気がつくと私は剣を抜き、奴に斬りかかっていた。奴もさすがに驚いた様子だったが、すぐに彼女を離すと、自分も剣を抜いて応戦した。私は一切手加減しなかった。この場で奴を殺しても構わないとさえ思ったが……あいにく私と奴の実力は互角で、傷一つ負わせることが出来なかった……。奴が嘲笑うように攻撃をかわすたび、どれほどの怒りに捕らわれたことか……」


 功奄が額に手を当てて苦悶を浮かべた。憎き相手が目の前にいるのに、一矢いっし報いることすら出来ない無力感。それは滝葉にも覚えのある感情だった。


「そうして鍔迫つばぜり合いを続け……私も豺牙も少しずつ体力を消耗し始めていた。その時だ。奴が私の足元にある艶書に気づいたのだ。戦闘に夢中になっている間に落としたのだろう。私は急いで拾い上げようとしたが、奴の方が一足早かった。宛名にあの人の名が書かれているのを見ると、奴は私に嘲笑を向け、こう言ったのだ……」


『へええ、こりゃ傑作だ! あのくそ真面目な兄貴が恋文とはなぁ! 隊の奴らに見せてやってもいいが、その前にまずは、そこにいる罪深き乙女に内容を聞かせてやらねぇとなぁ……。』


「豺牙の手を逃れたあの人は、廊下の壁に身を寄せながら我々の戦闘を見守っていた。豺牙は彼女の方に一瞥をくれると、艶書を開封して大声でそれを読み上げ始めた……。私は恥辱のあまり剣を取り落とし、咄嗟に豺牙に飛びかかろうとした……。

 そこへちょうど征宮様が駆けつけて来られた。騒ぎを聞きつけた誰かが知らせに言ったようだ。征宮様は私達に事態の釈明を求め、私は豺牙があの人を拉致しようとしたことを話した。豺牙も言い訳めいたことを述べていたが、征宮様は取り合わなかった。

 すでに豺牙の悪評がお耳に入っていたのだろう。征宮様はその場で豺牙を免職し、竜の都からの追放を命じた。豺牙は特に抵抗する素振りもなく命に従った。元々、兵士の仕事に誇りも未練も持ち合わせていなかったのだろうな」功奄が軽蔑したように鼻を鳴らした。


「では……豺牙とはそれっきり?」


「あぁ、奴はその日のうちに荷物をまとめて都を去った。それ以来全く音沙汰はなく、とっくに死んだものと思っていたが……まさか盗賊団の首領しゅりょうになっていたとはな」


 功奄は大きくため息をついた。豺牙が王都を追放され、盗賊団を結成したことに一抹の責任を感じているのかもしれない。 

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