1−3

 兵士達はすでに食事を終えたのか、食堂にいる人は疎らだった。美珠は味のしない食事を手早く済ませた後、憂鬱な気持ちを引き摺ったまま準華の部屋へと戻ろうとしたが、途中で思い直して手洗い所に立ち寄ることにした。こんな陰鬱な顔で準華に会うわけにはいかない。


 用を足し、顔を洗ったことで少しだけすっきりとした気持ちになった。美珠は手洗い所を出て、今度こそ準華の部屋に戻ろうとしたが、そこで不意に足を止めた。廊下の方から下女達の声が聞こえてきたからだ。


「ねぇ、聞いた? 若い兵士の子が功奄こうえん様に呼び出されたんですって」


「あら、本当?どうして?」


「訓練をサボってたのを見つかったらしいわよ。おかげで1時間くらいお説教されたんですって」


「あらあら、厳しいわねぇ。若い子なんだから、ちょっとくらい多目に見てあげればいいのに」


「功奄様ってスパルタらしいものねぇ。でも、あの方と1時間も2人っきりでいられるなんて、ちょっと羨ましいわね」


「あぁわかるわ。近くであの方のお顔を拝見できるんだったら、3時間くらいお説教されても構わないわ」


 そんな呑気な会話をしながら下女達が歩いてくる。1日の仕事を終え、ここぞとばかりに噂話に花を探せているのだろう。美珠は何となく出て行きづらくなり、手洗い所の入口の前で立ち止まっていた。


「でも、あの松宮って子は可愛げがないわね。言葉遣いも乱暴だし、何より品がないわ」


「わかるわ。こないだなんか、あたしが廊下でちょっとお喋りしてたら鬼みたいな顔で歩いてきて、『美珠に何か言ったら承知しねぇからな!』なんて言うの。別にあの人の話なんかしてないのにねぇ」


 美珠は胃がきゅっとすぼまる思いがした。自分が下男達から嫌われていると滝葉達に打ち明けた時、松宮は下男達の部屋に殴り込みに行ったらしい。滝葉が取り押さえてくれたおかげで大事には至らず、それ以降は下男達との間で揉め事を起こすこともなかったのだが、今になってまた癇癪玉を破裂させたらしい。


「……でも、あの人はいいわよねぇ。ほら、あの松宮って子以外に、もう1人仲のいい兵士の子がいるでしょう?」


「あぁ、征宮ゆきみや様のご子息でしょう? あの子はいいわよね。征宮様に似て顔立ちが聡明だし、性格も真面目そうだもの」


 征宮、兵役部隊の長である士官の名だ。滝葉の実の父親でもあるのだが、滝葉はあまり父親の話をしたがらない。親子とはいえ、下級兵士と士官という関係上、美珠にはわからないわだかまりがあるのかもしれない。


「そうそう。あの2人って確か幼なじみなんでしょう? 征宮様のご子息ってことは、いずれは後を次いで士官になるんでしょうし、そうなったらあの人は士官の奥方ってわけ。あたし達の出る幕はないわ」


「残念よねぇ。征宮様の奥様だって元々は下働きだったんだから、あたし達にだってお鉢が回ってきたっていいのに……」


 そこでゴーンゴーンという鐘の音が7回響き、音が止んだ時には下女達の声は聞こえなくなった。どこかの部屋に入ったのかもしれない。


 美珠は手洗い所から顔を出して辺りの様子を窺った。薄暗い廊下に人の気配はない。窓の外から月明かりがうっすらと差し込んでいるだけだ。

 美珠はそろそろと廊下に歩み出た。幸い、下女達の姿はどこにもない。美珠は安堵の息をつくと同時に、洗い流したはずの憂鬱な気持ちが再び湧き上がってくるのを感じた。


 下女達の『あの人』という言葉が自分を指すことはわかっている。自分が滝葉の幼馴染みだから、将来は当然のように結婚するのだと彼女達は考えているのだ。

 だが美珠は、そんな未来はまず訪れないだろうと思っていた。滝葉が自分に恋情を抱いていないことは明らかだし、関係が変化する兆しもない。だから美珠は、滝葉への恋慕を胸の奥底にしまい込み、あくまで幼馴染みとして彼と付き合おうとした。


 それでも時折胸が疼くことはある。準華との何気ない会話や、滝葉が自分に会いに来た本当の理由、下女達の口さがないお喋りなどを思い出すと、抑えつけていたはずの感情が溢れ出し、どうにも心が乱れるのを押さえられなかった。


「おや、美珠じゃないかい!」


 美珠が物思いに沈んでいると、後ろから威勢のいい声が聞こえた。美珠が振り返ると、母の椎羅しいらの姿がそこにあった。ふくよかな身体が廊下に巨大な影を作っている。


「母さん? どうしたのこんなところで」


「どうしたもこうしたもないよ。あんたがなかなか戻ってこないもんだから、どこで油を売ってるのかと思って探しに来たんだよ」


 椎羅に言われ、美珠はようやく自分が遅刻をしたことに気づいた。さっきの鐘の音は7時を知らせるもの。本当なら準華の入浴の支度を始めなければいけない時間だ。


「やだ、どうしよう……。部屋でお待ちしてなきゃいけなかったのに。母さん、準華様怒ってなかった?」美珠が恐る恐る尋ねた。


「怒るどころか心配なさってたよ。侍女が主人をお待たせするなんて、本当なら怒鳴り散らされてもおかしくないのに、まったくあの子らしいねぇ」


 椎羅が半ば呆れたように言った、美珠と1つしか歳の違わない準華は椎羅にとっては娘同然で、その口調も自然と娘を評するようなものになる。


「でも不思議だね。あんたが仕事に遅刻したことなんか今までなかったじゃないか。本当に何かあったのかい?」


 椎羅が心配そうに尋ねてきた。美珠は母に悩みを打ち明けるか迷ったが、こんな中途半端な気持ちで準華のところへ戻りたくはなかったので、話すことにした。


「……実はね、さっき下女の人達が来て、あたしのことを噂していったの」


「噂? どんなことだい?」


「大したことじゃないの。あたしと滝葉さんが将来結婚するだろうって……。でもあたし、それ聞いてると虚しくなっちゃって。準華様みたいな素敵な人が近くにいるのに、滝葉さんがあたしなんかを見てくれるはずないのにね」


 言いながら、美珠はちくりと胸が痛むのを感じた。準華の影として生きることを決めたのは自分なのに、今やその準華に嫉妬を感じてしまっている。そんな自分が情けなかった。


 椎羅は真面目な顔で美珠の話を聞いていたが、美珠が話し終えるとふっと息を漏らした。


「……何だい。あんた、そんなくだらないことで今まで悩んでたのかい?」


「え?」


 美珠はきょとんとして母の顔を見返した。自分は真剣に悩んでいるのに、それをくだらないとはどういうことだ。美珠はそう文句をつけようとしたが、それより早く椎羅が言った。


「滝葉は若いからね。今はまだ、準華様のお美しさに夢中になるのも無理はないさ。でもね、これから気持ちが変わる可能性だってあるだろう?」


「でも……準華様はあんなに綺麗で……」


「いいかい、美珠。人が人を好きになるのはね、何も見た目の美しさだけが理由じゃない。何か、その人にしかない魅力を感じて好きになることだってあるんだよ」


「あたしに魅力なんて……」


 美珠は自分の服装を見下ろした。飾り気のない白のブラウスに地味な茶色のスカート。灰色の髪は無造作に一つ結びにし、顔立ちだって平凡そのものだ。こんな自分のどこに魅力があると言うのだろう。


「人の魅力は外見だけじゃないんだよ」椎羅が美珠の考えを読み取ったように言った。

「あんたは滝葉の一番近くにいて、滝葉の支えになってやっている。それは他の誰にも真似できない、あんただけの魅力なんだよ」


「そうかなぁ……」


 美珠は首を捻った。自分が滝葉の存在を支えとしていることは事実だが、その逆などあり得るのだろうか。


「なぁに、心配ないさ。あんたはあたしの娘なんだ。あたしに振り向かない男なんて1人もいなかったんだからね」椎羅が頬の肉を震わせながら笑った。


「母さんが? 嘘だぁ」


 美珠が苦笑を漏らした。母が若い頃にモテたという話は何度も聞かされていたが、今の丸々とした体型からは到底想像がつかない。


「さ、お喋りはこのくらいにして、さっさと準華様のところへお戻り。準華様もさぞ心配していらっしゃるだろうからね」


 母の言葉で、美珠はようやく自分の仕事を思い出した。鐘が鳴ってからすでに15分は経過している。準華は今も部屋で自分を待ってくれているはずだ。


「母さん、ありがとね。あたし、なんか吹っ切れた気がする」


 美珠は表情を綻ばせて言うと、椎羅に背を向けて廊下を駆けて行った。薄闇に包まれていたはずの廊下が、少しだけ明るさを増して見える。

 やっぱり母は偉大だ。侍女としても女性としても、超えるのは当分先になりそうだ。

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