8月26日

 朝方までうつらうつらとしていたけど、聞き覚えのあるヒステリックな声ではっきり目が覚めた。ナツも何が起こったか察したようで布団の中でバッチリ目が合った。

「お義母さんが甘やかすから三文安になったのよ!」

 母が来た。私たちは飛び起きてすぐに服に着替えて荷物を持った。窓を開けて裸足のまま外に出る。

「ハル、靴は」

 ナツが言いかけたので唇に人差し指を立ててしゃべらないように指示した。窓の外は裏庭で、裏門から外に出れるようになっている。私は裏門を開け放して、窓を開けたままにした。窓から死角になる場所で隠れていると、父母が部屋に入ってきたのが判った。

「あいつ逃げた!」

 たぶん窓から顔を出して裏門が開いているのを確認したのだろう。また声が遠くなる。静かに窓から覗くと誰も居ない。たぶん裏戸に向かったはずだ。ぐるっと家の周りを歩いて表玄関にいき、靴を確保した。

 家の前に父の車が止まっていて、後部座席で幹人が我関せずとスマホでゲームをしている。気付いていないから無視しようとしたら、ナツが後部座席の窓を鞄で思いっきり叩いた。さすがに車のガラスは丈夫だがすごい音がして、幹人が飛び上がって驚いた。ナツはその間抜けな顔に中指を立てて、走り出した。


 たぶんお婆ちゃんが昨晩のうちに両親に電話したんだろう。口止めしておくのを忘れていた。しかしあの状態の母と、どう和解に持っていこうと思っていたんだろう。甚だ疑問だ。

 ショックよりも自分の甘さに腹が立った。すでに手詰まりだ。もう駅や判りやすい宿泊施設には行けない。きっと両親が探しに行くし、手を打つだろう。ナツのこともお婆ちゃんから聞き出しているだろうからナツの実家にも行けない。

 私はどこに家出をしたら良いんだろう。

 私たちは今、駅とは反対側にある河川の橋の下にいる。こういう所は不良が溜まったり、ホームレスが住居にしているイメージだけどこの辺は田舎なせいか誰もいないし目立って汚れていない。二車線と歩道分の幅があるからさっきから降り始めた雨がかかる心配もない。河川敷で遊ぶ子どもも今は居ない。

 橋台にもたれ、座り込んでぼんやりしていた。ナツも静かだ。

「ナツは帰った方が良いんじゃないかな」

 思い切って言ってみた。ナツは逃げる必要はなかった。しれっと自分の家に戻ることだって出来る。ナツは黙って返事をしない。考え込んでいるのかと思ったら、地面のコンクリートに指で何か書いている。

 ザリ、ザリ、ザリ

 と三角形を書くように指を動かす。

「いーち、にーい、さーん」

 数え歌が聞こえてきた。ナツの口から漏れているようだけど、ナツの声ではない。もっと小さい子どもの声だ。

 ザリ、ザリ、ザリ、

「いーち、にーい、さーん、いーちにーいさーん」

 指の動きがどんどん速くなっていく。

「ナツ、何してるの?」

 読んでも顔を上げない。

 ザリ、ザリ、ブチ

 コンクリートに赤い三角形が浮かび上がる。ナツの指先の皮がめくれて血が出た。それでも血で三角形を書き続けようとしている。

 私はナツの顔を無理矢理掴んで思いっきり頬を叩いた。いい音がして「ギャン」と子犬のような声をナツがあげた。

「ハル・・・・・・痛い・・・・・・」

「・・・・・・どこが痛い?」

「ハルが叩いたところと・・・・・・指?」

 ナツは自分の指先の皮がべろんとめくれているのを見て驚いていた。さっきまでのことを説明しても覚えていないのだと言う。

 指先をペットボトルの水で洗い、絆創膏をベタベタと付けて止血した。

「家帰って、ちゃんと処置してもらった方が良いよ」

 ナツは涙目で首を横に振る。

「帰らない」

「せめて従兄の家に行ったら?」

「ハルも来る?」

 私が行ったところで、そこはずっと居て良い場所じゃない。答えあぐねているとナツは察したのか口を固く結んで黙り込んでしまった。

 せめて鳥雄の連絡先ぐらい聞いておけば良かったと私は後悔した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る