8月4日
私を名前で呼ぶのは、この家で父だけだ。それも滅多にない。母は「あなた」と呼ぶし弟に至っては「ブス」と呼んでくる。
「おい、ブス。どけろよ」
私が階段を降りていると、下から来た弟に突き飛ばされた。壁にぶつかって痛がっている私を横目で笑いながら自室に入ろうとする。私はとっさに手を伸ばして足を掴んだ。受け身を取れなかったのか、幹人は顔面から廊下に倒れた。
「あああああ」
吠えるように泣き出した幹人の鼻から二筋赤い物が流れ出す。
「ご、ごめん」
酷い顔面に思わず謝ってしまった。聞こえているのか居ないのか、幹人は両手両足をバタバタさせて泣きわめく。
「どうしたの?!」
母が階下から私を押しのけるようにして上がってきた。廊下で暴れる幹人を抱きしめるように押さえつける。
「こいつが! こいつが!」
「何したの?! 幹人に何したの!?」
母が般若のような顔になった。かすかにあった罪悪感がスッと覚めていく。
「猿がぶつかってきたからやり返しただけだよ」
母は「喧嘩両成敗」なんて言葉を持ち合わせていない。いつだって幹人の味方だ。だからコッチに戻ってきてから幹人と喧嘩になって母が出しゃばってきても、無駄に逆らわずに形だけでも謝って終わらせようと思っていた。
だけどやっぱり私には無理だ。
今回も両頬を何度も母に平手打ちされ、私は自室に放り込まれた。部屋の外に何を置いたのか開かない。
やっちゃったよ、と私は腫れる頬を撫でながらベッドに倒れ込んだ。口の中が切れたみたいで変な味がした。
お腹が空いてきた頃にドアがノックされた。返事をする前にそろそろと入ってきたのは父だった。
「おかえり」
上手く動かない口で言うと、なんとも言えない顔をして一旦父は出て行った。しばらくするとタオルを巻いた保冷剤とペットボトルのお茶を持ってきた。
「あんまり幹人と喧嘩するな」
お茶をちびちび飲んでると父がため息交じりに言った。
「あいつじゃないよ。母さんだよ」
幹人にこんな直接的に攻撃してくる度胸があるわけない。
「幹人のこととなると母さんはちょっと神経質になるの判ってるだろ? なにしろ・・・・・・・」
「ずっと欲しかった男の子で、産む時も高齢出産で大変だったんでしょ?」
私が被せるように言ったら父は少し困った顔をした。何百回と言われている言葉だ。今更それを説得に使わないで欲しい。
「・・・・・・痛み止めいるか?」
「・・・・・・いらない」
「何か食べれそうか?」
「ゼリーとかなら」
買ってくると言って父は出て行った。階下から母のキンキンと高い声が聞こえてくる。何を話しているんだろう。
暇つぶしにスマホを見たら夏都からメッセージが来ていた。
『塩盛ったら何も聞こえなくてよく眠れた! でも今見たらこんななってた。毎日変えなきゃダメみたい』
添付された写真には真っ黒の小さな円錐型の何かが映っていた。これは盛り塩なんだろうか?
『それ塩? 舐めてみて』
と返事をしたら間髪入れずに返信があった。
『ちゃんと辛かった』
何が「ちゃんと」だよ。私はため息をついてスマホを閉じた。
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