夜明け

@Pz5

1あなずり

¬

 水の落ちる音——

 清らかで、澄んだ物からは程遠い、鈍く、粘った水音——


 血が汚物に落ちる音——


 それは私から出たもの。

 口か鼻か、或は耳の後ろに開けられた傷から滴ったのか、最早区別はない。


 一切の暗闇。

 昼夜の別も無い。

 ただ、逆さ吊りにされた私の顔を液体が撫で、腐臭の中に落ち行くのみ。


 吊るされた脚の先、蓋の向こうでは、目明かし衆や役人が、私の転びの合図を待っている。

 かつてて、洗礼を受けたこうべは逆さとなり、洗礼を授けた手は感覚すら失せている。


 無間の虚無の穴の内。


 嘗てここには全てが在った。


 教会が在った。

 オルガンの響きが在った。

 ミサと告悔コンヒサンとで希望が紡がれた。


 大名さえもがこうべを垂れた。


 世界に開かれていた。

 神学校セミナリオ神学院コレジョが在った。

 南蛮の言葉を訳し、或は出版をした。

 ラテン語と聖書とを学び、宣教師パードレにもなった。

 幾多の艱難を超え、法王にも謁見をした。


 今、ここでは全てが奪われた。


 教会は壊された。

 オルガンは音を止められた。

 ミサも告悔コンヒサンも隠れ絶望が広まった。


 大名は転んだ。


 国は鉄鎖に閉じられた。

 神学校も神学院も閉鎖された。

 南蛮の言葉も書物も禁書となった。

 ラテン語と聖書、宣教師パードレは追放となった。

 幾多の艱難が法王との繋がりも断った。


 嘗てネロの代が今一度顕われた。

 あまた切支丹キリシタンが惨たらしく殺された。

 その惨さにてもあれ、何らの天変地妖も示されなかった。

 四騎士や獣、竜は現れても、それらを踏みつけるべき聖母マリヤはお隠れのまま。


 なべて世は事もなく流れている。


 しこうして、長い沈黙が続いている。

 この穴が如くに。


 この汚物に充たされた穴が、洗礼を受け、学び、宣教に身を捧げた報いなのか。

 嘗て洗礼した者や赦しの秘跡を与えた者は皆去った。

 或は殺され、或は転んだ。

 中には騙されたと怒りを表す者もいた。

 いずれ皆去った。


 これは如何に?

 力を与えると、栄光を齎すと、その約束のはず。

 この逆さ吊りが力なのか。

 この暗闇が栄光なのか。


 我は求め、尋ね、叩いた。

 奪われ、沈黙し、閉じられた。

 それが報いなのか——


 また一筋、私の顔を液が這う。

 それは泪だと、此度こたびは判った。


 それもまた汚物の中へと呑込まれていった。

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