高校一年 一月

 文化祭を終え、夏休みを迎え、私と美代は変わらず互いの家を行き来して遊んだ。やがて二学期が始まり、その二学期も大した変化を齎すことなく終わった。私は変わらず美代の傍に在り、変わらず輝きを失った彼女の笑顔を見続けた。

 冬休みが明け、三学期に入り、遂に変化の兆しが訪れた。瑠夏が男と付き合い始めた、という噂が耳に入ったのだ。

 情報の出処は瑠夏と同じ予備校に通う、同じ中学出身の子だった。偶々体育で喋る機会を得た彼女が、あまり親しくない私との会話の気まずい空白を埋めるように拾ってきたネタが、瑠夏が男と付き合い始めた、という話だった。厳しい冷え込みの残る朝の体育館で、私は立ち尽くした。すぐに美代の顔が浮かんだ。彼女が追い求めて来た瑠夏との可能性が、ほぼ零になった。

 私は強いショックを受けた。美代の輝きを失った笑顔を見て、彼女の抱える思いを聞いて、その真摯さを受け止めて来た私は、彼女の願いが叶う瞬間を、同じように夢想するようになっていた。たとえその希望があまり現実的でないと勘付いていても、美代と一緒に可能性を信じ追い求めるようになっていた。それが今、絶えた。

 愕然とする私に、仲良かったから知ってると思ってた、と言い同じ中学の子は、少し不思議そうな視線を向け、この愕然が、色恋沙汰での友人の抜け駆けによると判断して、まあ、ただ只管勉強するしかない環境だったら、あともう恋愛するしか青春を味わう方法もないしね、と付け加えた。

 彼女も彼氏を作った、というお茶請け話を聞き流しながら、私はこの情報を美代の耳に入れるべきか考えた。現実を取るか、淡い夢想の可能性を潰さずにおくか。どっちが正しいか測り兼ねた。

 瑠夏は、私たちとは付き合わないのに男とは付き合うのか、とも思った。瑠夏は男を選んだ。裏切りのように思った。私より、美代に対する裏切りだと感じた。しかし、瑠夏には瑠夏が背負っている事情や生活がある。徹底非難すれば良いというものでもない。物事を俯瞰すればするほど、一方の理屈で他を断罪することは難しくなる。

 瑠夏は私立の高校に進学した。初めから後年の立身出世を志していたのだ。それが本人の意思なのか親の意向なのかは分からないが。そのために私や美代と遊ぶことをしなくなった。若しくはできなくなった。しかしその環境から来る鬱屈のため、男女交際に息抜きを求めるようになった。そう考えればごく自然な成り行きだ。第一、私には瑠夏の交友交際関係を取り仕切る権利など無いのだ。だから瑠夏を非難することなんてできないのだ。

 瑠夏が男と付き合い始めた。それは厳然たる事実で、誰も非難することはできない。ならもう、その通り話すしかないのではないか。次第に、私の頭の中では美代にどう言い聞かすかの想定問答が練られ始めた。言うのだ、真実を。嘘は良くない。それで納得するかまだ諦めないかは、美代が決めることだ。

 そう決心しながら、私は伝える日を先へまた先へと引き延ばしてしまった。切り出せなかった。切り出すには強い心理的抵抗があった。ずるずる行くうちに、このまま伝えないでおくのもいいのでは?という当初の問いが頭をもたげて来た。その度、しかし、と思い直した。美代に真実を伝えなければならない。それを伝えるのは私でなければならない。流れ弾のようにして美代が他の子から真実の弾丸を撃ち込まれるのは避けたかった。それが幼馴染のプライドにして務めのように思った。

 私は帰り道、美代を運動公園に誘った。二人で川の護岸に座った。美代はいつもの帰り道の脱線だと思い、にこにこと楽しそうにしていた。私の顔はたぶん、緊張で引き締まっていた。

「美代は、予備校に通うこととか、考えてないの?」と私は尋ねた。

「予備校?」意外な角度から質問が来たとでも言うように、美代は目を丸くした。「なんで?」

 彼女の短い回答は、考えたこともない、と言っているようなものだった。話が一瞬で終わってしまって、私は少なからず狼狽した。予備校の話の先に瑠夏の交際を持ってこようと思っていたからだ。ここで途切れさせるわけにはいかない、私は無理やりに話題を捻り出して語を継いだ。

「私は、ごく普通の公立高校に進学して、今は全く予備校行くことも考えてなくて。でも、これから自分の人生を真面目に設計しようと思ったら、やっぱ行かなきゃいけないのかなって、最近思うようになって」

「真面目だねー」と美代は言った。

「真面目っていうか」私は瑠夏の名を出そうかと思ったが、まだ早いと思い、暗闇の中を探るようにねろねろと話の根を伸ばした。「こないだ同じ中学の子と話したら、予備校行ってるって言ってて、同年代だと割と普通のことなのかなって」

「高一から予備校通ってる子って珍しくない? 余程真面目な子じゃないと行かないよ」美代は鼻で笑った。

「でも、あんまり能天気に構えすぎるのも危機感がないっていうか、精神的向上心がないっていうか」

「何、親に何か言われたの? 行けって?」

「……パンタレイなんだよ」私は自分で自分が何を言い出すか分からなかった。「万物は流転するんだよ」

 それを以前ここで口にしたことを美代は憶えていて、「ふーん?」と言って先を促すように私を見た。川は長く続いた冬晴れの影響で干上がって、護岸の間を細く弱々しく流れていた。それでも流れていることには流れていた。

「物事は流れて、移り変わって行く。ずっと留まっているものなんてないんだよ。気づいたら終わってることのほうが多いんだよ」

「何の話? さっきから抽象的すぎて分かんない。具体を言って」美代は焦点が掴めない、と言うように眉を寄せた。

「予備校に行ってる子から聞いたの。ある噂」核心に切り込もうとしていると気づいて、慄いて私の口調は少し鈍った。

「噂? 何?」美代はこの後事実に斬り付けられることになるとは露知らず鼻で笑いながら訊いた。

「……瑠夏が」言うな、と思ったが、誰かに言われるぐらいなら私が言わねば、と思った。「瑠夏が男の子と付き合い始めたんだって」

 この話の導入がこれで良かったのか甚だ疑問だったが言ってしまった。美代は驚いて、情報を処理し切れていないのか風邪をひいて熱がある時のようにぼーっとしているように見えた。

「予備校に通ってる同じ中学の子が言ってた。十中八九、本当だよ。瑠夏は、私たちじゃなくて、美代じゃなくて、男の子を選んだんだよ」私の声は震えていた。緊張なのか、怯えなのか、憤慨なのか分からなかった。だから恋はお終い。それを言葉にはしなかったが言わずと知れたことだった。

 美代はしばらく呆然として、やがて手近に落ちていた小石を掴むと、川に向けて投げた。小石は河原に落ちたのか水面に落ちたのか、どちらなのか見届けられなかったが、とにかく川は素知らぬ顔で波紋も立てずに流れ続けた。

 私は何も言わずに美代を見つめた。胸が苦しかった。

 美代は後ろにゆっくりと上体を倒し、芝の上に仰向けになった。空を見つめて、何も言わなかった。何分かが過ぎた。それからようやく口を開いた。

「会いたい」

 私は何も言わずに美代を見ていた。美代は青空を澄んだ瞳に映して、言った。

「一目でいいから、瑠夏に会いたい」

 そうして初めて自分が追い求めて来た可能性が終わる。そう美代は言っていた。

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