高校一年 七月
高校に入学してから三月が経ち、団扇や下敷きで絶えず自らを扇ぐ熱暑の七月に入った。気の早いアブラゼミが校内の木で鳴き喚き、プールからは授業の歓声が聞こえて来た。体育の授業終わりに校内の自販機で購入した缶飲料を美味しそうに飲む生徒が増えた。七月は活気に溢れていた。
その象徴のような行事として間もなく、文化祭が控えていた。お昼の校内放送ではテーマ曲が繰り返し流され、各クラスでオリジナルTシャツが制作され、時には生徒有志らが遅くまで残り大道具の工作に励んでいた。
私のクラスは飲食店をやることになっていた。飲食店というと仰々しいが、実際はただお店で買ってきたジュースを紙コップに移し替えるだけの、なんちゃって飲食店だった。食のほうは幾つかお菓子があったが勿論それも既製品を購入して調達、それを供するだけだった。
これには食品衛生法をクリアしなければならない、という規制の要求があったのだが、実のところは手間をかけて何かを作ろうという情熱がうちのクラスに欠けているのだった。
美代のクラスは屋台でお好み焼きを売り出す予定だった。食品衛生法は?とつい最近聞き知った言葉で尋ねると、美代は思いの外たくさんの情報で返答した。七十五度で何分加熱すれば大丈夫、とか、調理後何時間以内に食べなければならない、とか、その他細々、食品衛生法を満たすための方法を教えてくれた。
「やる気、あるんだ?」と訊くと、
「食べてもらいたい人がいるから」と美代は言った。
それが誰を指すか薄々理解していながらも確認の意味を込めて「誰に?」と問うと美代は、
「瑠夏」と、躊躇いなく答えた。
瑠夏か、と私は思った。率直に言えば、黒雲が陽を遮る思いがした。
あれから。ゴールデンウィーク前の最後通告以降、私たちは瑠夏に会えていなかった。声すら聞けていなかった。一目見ることも叶わなかった。瑠夏がどう過ごしているのか、まるで情報がなかった。
美代はどんな思いでこれまでを過ごしてきたのだろう。美代はどんな思いで煩雑な食品衛生法の要請を暗記したのだろう。美代は瑠夏にお好み焼きを食べてもらって、それから何を言いたいのだろう。私はいろいろ想像した。本人に訊けばいいのだが、訊けなかった。
文化祭まで日のない週末の、帰り道、私は美代に誘われて自転車で市の運動公園に向かった。駐輪場に自転車を止め、近くを流れる川の岸に美代と共に腰を下ろした。
美代は護岸の上に足をぶらぶらさせながら言った。「校内、凄いよね。カップル誕生率」
文化祭を前に、校内ではそこここでカップルが誕生していた。お祭り気分が人の心を多少やんちゃにさせるのと、文化祭を恋人と回りたいという思い出作りの欲求と、友達に恋人がいると自慢したいという虚栄心、概ね、その三種の理由からだった。美代はこの話題から何を引き出したいのだろう。私は戸惑った。「そうだね」と答えた。
美代はぶらぶらさせていた足を止め、手近にある小石を探したが小石は落ちていなかった。美代は探すのを諦め、大きなため息を吐いて、川面を見つめた。「万物は流転する、だっけ? 昔のギリシャの哲学者が言った」
ヘラクレイトスがどうかしたのだろうか。私は再び返答に悩み、「それが?」とシンプルに返した。
美代は黙って川面を見つめていた。川は、俗に言う水無川で、しかし数日前の雨のおかげで流量は豊かだった。波打つ水面がきらきらと陽光を反射していた。
「私、恋を舐めてたわ」と美代は言った。
「どういう意味?」
「なんていうかさ」美代は数回、手で髪をしごいた。ストレスを感じた時にする仕草だった。「恋って、会えなくなったら終わるんだと思ってた。でも、実際は、会えないほど終わらないものなんだなって」
瑠夏の話だった。美代は変心しなかった。
「区切りがつかないから」と美代は言った。「ピリオドが打たれないから。最後が分かったら解決してすっきりするけど、そこが永遠に訪れなくて、可能性だけ残した状態だと、人はなかなか諦められないというか、可能性を追い駆けちゃうものなんだよね」
美代は、どう?と言うように私を見た。私は答えた。
「そうかもね。そういうものかもね」
美代は私の語尾に「かも」が付いている点を考察不足と考えたのか、私に熟考を求めるような沈黙を差し出した。私は考えた。ピリオドが打たれないと終われない。可能性があるならそれを追い求めるのが人の性。
「そうだと思う」私は答えた。知らぬ間に下唇を口内に含んで舌なめずりしていた。それは、苦い事実を突き付けられた時の私の癖だった。「答えが出たら、次に行ける。でも、答えが出ていないなら、そこに留まっちゃうと思う。それが重大な話であればあるほど」
私は私と美代の関係を想定して言った。私は美代を好いている。恋愛の意味で好いている。しかし美代は瑠夏を好いている。だから私の恋心は決着しなければならない。
しかし、私が美代に直接思いを告げて、振られたわけでもない。ゆえに受け入れてもらえる可能性は一応残っている。一縷の望みであれ無ではない。そうなると、美代との関係が、告白により完全な決着を告げるまでは、諦めきれない。片思いで構わないと思いつつも私は未練なり恋着なりを抱いていた。可能性がある限り人はそれを追い求めてしまうものなのだ。最大のライバル、瑠夏が欠けたことも、その未練を支える力となっていた。
「だよね」美代の声には質量があった。万感が詰まっていた。真実そう思ったのだ。
「うん」と私は答えた。私は美代との関係が決着するまでは思いを諦められない。それは同時に、美代の瑠夏への思いが決着しない限りは美代が他の誰かに振り向くことはないということだった。私が苦い反応を反射的に示してしまった原因もそこにあった。
川は豊かな水量を湛え護岸の間を流れていた。美代はその川に、親指と人差し指で摘まんだ砂を流し込んだ。川面にはほんの微かな波紋が生じ、次の瞬間にはどこかへ流され目に映るのは変わらない水の運動だった。
未来を知っている私は知っている。美代の恋心は流転しなかった。川のように絶えず新しい感情を迎え入れながら、恋心はそこに在った。
結局、文化祭に瑠夏は現れなかった。
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