side1-6 ひと夏の大冒険

「んぅ?」

「おはよう翼咲」


 日葵が消滅してからも、翼咲はすぅすぅ寝息を立てていた。

 彼女が多くの願いの元に成り立った存在だから……かどうかは不明だけど、まだ消えないでくれてよかった。


「ん、わたしはなにして……あぁ、無事済んだみたいですね」

「おかげさまで」


 寝惚け眼を擦りながら周囲を見渡し、日葵がいないことに気づいた翼咲は、やんわりと微笑んだ。

 やはり家族だ。笑った顔が日葵によく似ている。


 むくっと体を起こし、翼咲はぐっと背中を伸ばす。


「宴もたけなわなとこで寝過ごすなんて、ついてないなぁ」

「安心して。翼咲が寝入る直前が最高潮だったよ」

「そうじゃなくて。お父さんとお母さんのいちゃいちゃが見たかったんです」

「……さすがの日葵も子供の前では羽目を外さないんじゃないかな」

「見たかったんです。夢に見た光景がようやく実現できたんですから」


 僕と日葵の子宝となるはずだった翼咲。

 多くの願いがあって生まれた存在とのことだけど、詳しいことはわからない。

 例えば、記憶は実在するものなのか、架空のものなのかとか……。


「……何度も同じ光景を見てきたんじゃないの?」


 ふるふると翼咲はかぶりを振る。


「お父さんの温もりは懐かしくて、お母さんの温もりは新鮮だったって言えば、おおよそ見当がつきますか?」


 懐かしいと新鮮。その違いは経験の有無。


「……そっか。仮に翼咲を産んでいたとしても、日葵は命を落としていたんだね」

「はい。出産が難航して、お母さんは帝王切開を受け入れたそうです」

「……そっか」


 帝王切開とは、経膣分娩、つまり医学的介入のない自然な出産が難しいと判断された際に、手術で赤ちゃんを出産する方法だ。特段珍しいことではない。昨今の統計だと、5人にひとりが帝王切開を経験していると言われている。


 ただ、帝王切開はかなりの激痛を伴うと言われている。

 多くは事前に医師と相談の上で決行されるものだけど、翼咲の話しぶりからするに、日葵は土壇場で帝王切開を希望したのだろう。

 となれば出産の代償に緩和されていない痛みを味わうことになり、元々衰弱していた日葵の死亡リスクは跳ね上がる。そして、確率通りの結果が訪れたのだろう。


「翼咲はどうしてそのことを知ってるの?」

「お父さんが教えてくれました」


 出産を決断したもうひとりの僕は強い。

 彼の頑張りは、成長した翼咲を見ればよくわかる。


 もし親が自暴自棄に陥っていたのなら、翼咲はこんな優しい子に育たない。


「わたしはなんとしても、お母さんとお父さんの談笑する姿が見たかったんです。

 現実的に無理なのはわかってたけど、それでも諦められなくて。

 そんなある日、テレビで言霊祭の特集を見ました。黄泉の国に願いが届く、もしこの説話が本当なら……って思ったときには家を飛び出してました。

 そしたら16年前に戻ってて……人生ってなにが起こるかわかりませんね」


 16年前。

 日葵の亡くなったこの地点が16年前ということは、翼咲の実年齢は16歳と見ていいだろう。3月になれば17歳。つまり翼咲は今、高校二年生。


「……ってことは、翼咲は16年前に、しかも自分が生まれていない世界に来たっていうの?」

「そうなりますね」


 翼咲は微苦笑を浮かべる。


 そりゃ困惑するだろう。あまりに非現実的すぎる。


「最初、幼体だったのもなにか意味があってのこと?」

「時間制限的なものでしょうか。まぁ、記憶は最初からあったのですが……その、思いっきり甘えるチャンスだったので。

 向こうのお父さん、ここ数年冷たいんですよ?」

「そりゃ年頃の娘に甘えられたらなぁ……」


 親としては将来が不安になってしまう。このまま嫁がなかったらどうしようって。


 苦笑していると、翼咲は上機嫌に微笑んでくるっとターンした。


「しかしなかなかに楽しい一夏の大冒険でしたよ。

 話で聞いた以上に素敵なお母さんでした」

「翼咲は日葵に自分はなんだって言ったの?」


 どの世界でも日葵と翼咲が巡り会うことはない。

 しかし、日葵はいやに馴れ馴れしく翼咲に接していたように思う。


 翼咲はからかうような笑みを浮かべた。


「なんて言ったと思います?」

「……ありのままに。16年後から来たあなたの娘ですって言ったんじゃない?」

「すごい……一言一句外してませんよ」


 驚愕に目を見開く翼咲。伊達にDNAの半分を分けていない。


「それで日葵は一切疑うことなく、聞き入れたってわけか。

 ……はは、日葵らしいや」

「……自然に笑えるようになりましたね」

「え?」

「最初の頃は、いつも沈んだ顔をしていました。悲嘆に暮れて、自分を責めて、まるでひとりだけ時間に取り残されたみたいで。……けど、もう大丈夫みたいですね」

「……」


 確かに、いつからか笑えている気がする。


 愛想笑いじゃない、自然な笑顔で。


「……ありがとう翼咲」

「わたしだけじゃないです。みんなのおかげですよ」


 実際、その通りなのだろう。


 島のおかげで、数々の出会いのおかげで、僕は立ち直ることができた。

 今の僕は、島に来る以前よりも前向きだと自信をもって言える。


「翼咲も、もうすぐいなくなっちゃうの?」


 残念ながらと、翼咲は眉根を寄せる。


「零時までなので……あと5分くらいかな。本来ならお母さんと入れ替わりの予定だったんですけど、紗英さんがわたしに勝ったみたいです」

「紗英さん……」


 誰だろう、とはならなかった。一度耳にした名前だ。

 たしか豊永さんの娘さんがそんなような名前だった気がする。


 しかし、たったそれだけでここまで印象に残るものなのだろうか。


「お父さんは結月さんの悩みを払い、お母さんの後悔を晴らし、わたしに温もりを思い出させてくれました。あとは紗英さんを見つけるだけです。がんばってください」

「はぁ……」


 鼓舞されても小首をかしげることしかできない。


 見つけるだけと言われても、知らないものは見つけようがないし……けど、努力はしてみよう。翼咲たっての願いとあらば、父親として断れない。


 それから翼咲の交友関係とか、進路とか、想い出話とか。

 家族水入らずの会話をして……。


 しかるのち、その時はやってきた。


「1分切りました。……最後にお父さん、本当にありがとうございました」


 深々と頭を下げてくる。


「こちらこそ、毎日楽しかったよ」

「へへ、うれしいなぁ」


 感謝を素直に受け入れる性格、日葵にそっくりだ。

 僕の謙遜しすぎな性格が遺伝しなくてよかった。


「こっちのお父さんは今もお医者さんとしてがんばってます。

 だからお父さんも、お医者さんを続けてたくさんのひとを笑顔にしてください」

「うん。そっちの僕に負けないよう頑張るよ」

「うん、その意気です」


 喜色満面の笑みで頷くと、翼咲の体が急速に透け始めた。

 徐々に消えていく深月や日葵の例とは違う反応。

 翼咲は本当に未来からきたのだろう。これまでの話が嘘じゃなくてよかった。


「それではお父さん、お元気でっ!」

「うん。元気一杯、笑顔で過ごすんだよ」


 ぷつん、と。


 呆気ないくらいすんなりと、翼咲は姿を消した。


 日葵がいなくなり、翼咲もいなくなった家には閑散とした空気が漂っている。


 この2週間、常に誰かがいた。

 翼咲、結月、日葵……と、もうひとりいたような……。


 ともかく、ひとりで過ごす夜は初めてだ。


 孤独が怖かった。


 日葵が亡くなってからというもの、ぐっすり寝ついた記憶がない。


 けれど。


「ふあぁぁ~」


 今は違う。


 もう、怖くない。ひとりでも歩いて行ける。


 ちゃぶ台を壁に立て掛けて、布団を敷き、電気を落とす。

 部屋がこんなに広いなんて知らなかった。基本、すし詰め状態だったから。


 隣から頭を撫でて欲しいと懇願してきた娘。


 自分の存在価値を求めていた女の子。

 

 自分の存在意義を探していた女の子。


 誰よりも僕を大切にしてくれた妻。


「……ありがとう、みんな」


 おやすみの代わりに、僕は感謝の言葉を紡ぐ。


 意識が徐々に遠のく。


 明日は何色に染まっているのだろうか。


 日葵の口癖は今も僕の口癖となって生きている。

 彼女の生きた証は、今も僕の中で生きている。


 彼女からもらった言葉を胸に、僕はこれからも生きていく。


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