Side0-2 小さな太陽
やがて皿は空になり、締めとしてケーキを食べると、翼咲はこくんこくん首を上下に振りはじめた。そんな翼咲を日葵は背後から抱き締め、それから程なくして、翼咲は安心しきった顔で眠りについていった。
日葵の膝を枕にして寝返りを打つ翼咲は幸せそうで。
「可愛いなぁ。わたしの宝物は」
日葵の顔は、娘を猫可愛がりする母親のそれになっている。
「もし無事に生まれてたら、こんな風に元気に育ってたのかな」
「うん。きっと日葵の願い通り、僕らの知らない世界を駆け巡ってたと思うよ」
「はは、なにを根拠に言ってるんだよー」
からかうような笑みを向けてくる。
彼女はいつもこうだった。病状が悪化したとき、つらい現実に直面して僕が同情したとき、なんでもないように腑抜けた笑顔を浮かべる。
「……しかしまぁ、人生もまだまだわからないことだらけだなぁ」
そのことを理解しているから、僕は必要以上に話題を広げず、真新しい話題を切り出す。
人生はわからないことだらけだけど、日葵のことなら誰よりも理解している。
「ん、なになに難しい話?」
「いいや、素朴な疑問だよ。
こうしてまたふたりと会えるなんて、思っても見なかったから」
「想いが黄泉の国に届き奇跡を起こす……ふ、くだらない。
……って、斜に構えたもんね」
「島に来た当初はね。って、なんでそのこと知ってるの?」
「この島ってすごくてさー、なんか限定的に地上を見下ろすことができるんだよね。だから晃丞くんをずっと見てたの。だから知ってる」
「……へぇ」
「道端でわたしのことを思い出して急に泣き出したことも、もちろん知ってるよ」
「蒸し返さないでよ、恥ずかしい……」
「はは、いつもはお堅い難攻不落の城崎名医も、わたしにかかれば瞬殺なのさ!」
「当然だよ。日葵しか本当の僕を知らないんだから」
「……ほんっと、昔から無意識に不意打ちかましてくるんだからタチが悪いよ」
唐突に口をつぐみ、日葵は翼咲の頭を撫で回すことに専念し出した。垣間見える横顔は、気のせいかやに下がっているように見えた。なんでだろう。
「……この時間がいつまでも続けばいいのになぁ」
そんな叶わぬ願望が僕の口を衝いて出る。
ふたりと出会ったときからずっと思っていたことが、気を抜いた拍子に言葉となって溢れてしまった。
日葵は僕を見据えると、ぱちぱちと目を瞬かせ、寂し気に目を細めた。
「そうだね。終わってほしくないね」
「この状況ってどういう原理で成り立ってるんだろ。
僕が死ねばこの状況が永続するのかな」
「それは駄目」
笑顔を渋面に転じ、日葵は僕の妄言を唾棄する。
冗談めかして言ったのに、やはり長年過ごした相手を騙すことはできないようだ。
実のところ、この時間に際限なく浸れるのなら、僕は本気で命を捨てても構わないと思っていた。
……いや、違う。今もそう思っている。
「どうして? 日葵は3人で過ごす時間が楽しくないの?」
「そんなわけないよ。
楽しくて温かくて、いつでもこの夢みたいな時間の中で揺蕩えたらなって思うよ」
「なら……」
「けど、いらない」
「え?」
意味が分からない。話の前後で脈絡が破綻している。
「晃丞くんを奪って成り立つ世界ならいらないっ」
「あ……」
涙を溜めながら眦を決する日葵を見て、僕は自分が自分でなくなっていたことに気づいた。
幻想に中てられて、もうひとりの弱い自分が顔を出してしまっていた。
覚悟と共に切り離したはずの弱い僕は、今もまだ心の奥底に存在していたのだ。
それはいい。悲しみは簡単に切り離せないものだとわかっている。
けれど、その感情を唯一向けてはいけない相手に向けてしまったことを、僕は今更ながらに理解し、強く後悔していた。
「駄目だよ……晃丞くんはこれからもたくさんの命を救うんだよ」
「うん、わかってる」
生前も似たようなことが何度もあった。
日葵がいない世界に生きる意味はない。
そう言って後追いすることを仄めかす僕を、彼女はいつも叱咤した。
「たくさんのひとに感謝されて、わたしは自分の手柄みたいにえらそばるんだよ」
「うん、手柄は半分こって約束したもんね」
それは、自分の成した大業をなんとも思わない僕に対して日葵が出した折衷案。
「たくさんたくさん、救って救って、笑顔にするんだよ」
震える彼女に僕は少しずつにじり寄る。
やってしまったことは仕方ない。
こうなった以上、僕にできるのは日葵を慰めることくらいだ。
「だから……死にたいなんて言わないでぇ」
「日葵……」
激昂してもいい場面だ。
僕は生きたくても生きられなかった彼女の前で死を望んだ。いかな理由があろうと、それは絶対に許されないことだ。そう、激昂すべき場面なのだ。
なのに日葵は……。彼女はいつも……。
僕のために泣く。僕のせいで泣く。
自分の不幸はまるで嘆かないのに、僕の戯れ言に本気の涙を流す。
「……ごめん」
僕を誰より大切に思ってくれる女の子を強く抱き締める。
華奢な身体。
お世辞にも立派とは言えないその軟弱な体で、彼女は何度も僕を救ってくれた。
夢を与え、不安を払拭してくれた僕の太陽。
その根源は、僕の胸にすっぽり収まるほど小さい。
「翼咲と紗英ちゃんに頼まれたんだ。晃次くんを変えられるのはわたししかいないからって。舞台は用意したからって。
なのに……駄目だなぁ。全然、要望に応えられてないや」
「そんなことないよ。日葵のおかげで僕は立ち直れた」
「嘘だよ。
いつもそう言ってわたしを満足させて、実際はまるで変わってないんだもん」
「今回に限ってはほんと。だから泣かないで」
「……なら今後の目標を宣言して。そしたら泣き止む」
「わかった。約束だよ」
夢を語ることで君が満足するのなら、僕はいくらでも夢を語ろう。
日葵を抱き締める腕に力を込めて、僕は決意の言葉を紡ぐ。
「どんな患者も必ず完治させる。そして、日葵が鼻高々と振る舞えるようにする」
「それは楽しみだなぁ。晃次くんならきっと、今よりすごい医者になれるよ」
「定期的に旅行する。
絶景スポットをたくさん巡るけど、嫉妬で生き霊にならないでよ」
「ならないならない。お土産話だけで十分」
「花を育てる。今のところの候補はシオンかな」
「またマニアックな……けど、うん。時期的には悪くないかも。……ありがと」
日葵は植物全般に精通していた。
だからきっと、今のはシオンの花言葉を理解しての「ありがとう」。
直接的な言葉がなくとも、僕らは想いを通わせることができる。
「墓前参りは月1回にする。その代わり、いいものを備えるよ」
「これまでは何回来てたのさ……って、その目標はちょっとずるくない?」
「あとはかくかくしかじかで……」
「ちょっとちょっと、なにさらっと短縮してんの?
時間の押したバラエティ番組じゃあるまいし……」
「僕の誇れる僕になる。自分を好きになれるように」
一際、力を込めていった。
おそらくは彼女の一番求めていた言葉を。
「……うん。不正があったけど、特別に許してあげる」
日葵は僕の欠点をほとんど受け入れてくれたけど、ひとつだけ、よしとしない点があった。
それは自分を大切にしないこと。
僕の腕から抜けた日葵は、部屋の照明に透けていた。
「日葵、体が……」
胸の内に熱いものが込み上げる。
何度も見た光景。だから、次にどうなるのかも理解できてしまった。
「ん? ……あぁ、よかった。これで面目が立つよ」
半透明の手のひらを見ても、日葵は達観した態度を崩さない。
やり残したことはないと言わんばかりの澄んだ顔をしている。
「あ~あ、もっとお話したかったなぁ……なんて、贅沢言いすぎかな。
こうしてまた晃丞くんと会えただけで奇跡だって言うのに」
日葵が明るく振る舞ってるんだ、泣いてはいけない。
僕は無理矢理に笑顔を作る。
「当然だよ。日葵は生前、善良な行いをいくつも積んだんだ。
一度くらい奇跡が起きたって、僕は驚かないよ」
「あはは、わたしのこと空き巣と勘違いしてた君がそれ言う?」
「いや、普通死人がいるとは思わないでしょ」
『いいや、君はこんな人間なんかじゃないよ。
何故なら今この瞬間をもって、わたしのなかで特別な誰かに昇格したからです!』
初めて出会ったときも、僕らは互いを〝君〟と呼び合っていた。
クラスが違い、面識のない僕らは、どちらからともなく落ち合う口約束を重ねて、彼女の難病を知り、趣味を知り、人柄を知り、恋を知り。
放課後の屋上から始まった物語は今、幕を閉じようとしている。
こんな奇跡はもう二度と訪れないだろう。
日葵の笑顔を見られるのもこれで最後。
だから僕は、彼女の笑顔を記憶に焼きつけたいから、絶対に涙は流さない。
「……奇跡っていうのは少し違うかな」
日葵は窓の外を一瞥する。
白い煙が山の腹部から立ち上り、夜の闇に溶けていく。
時刻は11時目前。今年の言霊祭も、じき終演するだろう。
「正確には言霊が起こした奇跡、ってとこかな」
「それは奇跡とどう違うの?」
実を言えば、奇跡でも予定調和でもなんでもよかった。
なにも堅実なサスペンスじゃないんだ、伏線が残ったままでも構わない。
日葵と翼咲に出会えた。その事実だけで僕は満足だ。
「奇跡は偶然生じたもの。前兆なんてお構いなしにやってくる。
けど、こうしてわたしが晃丞くんと会えたのは、たくさんの願いがあってのことなの。晃丞くんに救われた人たちの願いが〝あの子〟を生み出して、わたしと晃丞くんの〝架け橋〟を作った。この奇跡はね、晃丞くんの人柄が導いたものなんだよ」
深月は結月の願いによって一時的に地上に降りられた。
けれど、実際は願うだけではなく、結月が深月の遺物を常に備えていたという要因があって起きた奇跡であって、僕は日葵と縁が深いものを持たないが故に、日葵とは会えないとのことだった。
そんな僕のキーとなったのがあの子――翼咲なのだろう。
ならその彼女はどこから生まれたのかという疑問が生じるけど、それは今、日葵が明かした通り、第三者の手助けがあってのことのようだ。
いつか予期した通り、やはり常識的な思考に頼っていては解けない難題だったようだ。島外の親族でもないひとたちが関わっているなんて、一体誰が予測するだろう。
「たくさんのひとが晃丞くんに感謝してた。ありがとうって、何度も言ってた。
だからね晃丞くん、もっと自分に自信を持っていいんだよ?」
「日葵……」
つまるところ、奇跡の裏側の種明かしなんてどうでもよくて、今の言葉が日葵が本当に伝えたいことなのだろう。
何故なら、彼女がすごく寂しそうに笑っているから。
僕を憂えるときの顔をしているから。
「……言ったでしょ。僕は僕の誇れる僕になるって。だから心配しないで」
「わたしが褒めなくても自分を褒められる?」
「子供じゃあるまいし……うん、できるよ」
強く言い切ると、日葵はようやく愁眉を開いた。
ゆっくりと僕ににじり寄り、こつんと額をぶつけてくる。
「約束、だよ?」
「うん。絶対守るよ」
額が触れ合っているのに熱をまるで感じない。
違和感を覚えて顔を上げると、日葵の体はかろうじて視認できるほどに透けていた。
「……うん、これでもうやり残したことはない。一片の悔いなしだよ」
「日葵……」
「さっきからそればっか。名前だけ呼ばれても気持ちは伝わらないよ?」
この期に及んでも彼女はからかうように微笑む。
悲愴さなんて少しも感じない笑顔。
「……ありがとう、僕を選んでくれて」
だから、ずっと伝えたかった一言を挿げ替えた。
最後の瞬間に寄り添えなくてごめん。
そう謝罪しても日葵が喜ぶはずがないと思ったから、僕は二番目に伝えたかった言葉を告げた。彼女との別れは、謝罪ではなく感謝で締め括りたい。
「感謝するのはわたしの方だよ。ありがとう。わたしに幸せな毎日をくれて」
日葵の姿が消えていく。姿がどんどん見えなくなっていく。
「君と出会えたことが、わたしのなによりの宝物だよ。
ほんとうにありがとう、晃丞くんっ」
向日葵のような笑顔を最後に。
城崎日葵は、この世界から姿を消した。
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