幕間⑤ 夏の夜の奇蹟

 数十分前までの賑わいは鳴りを潜め、境内は静謐に包まれていた。


 瞳を閉じて祈った後に、手紙を丸太で四角く囲われた場所に投げ入れる。

 ひとり、またひとりと同じ儀式を繰り返し、想いの綴られた手紙は山のような形を成していく。


 パンフレットで見たときはどこかキャンプファイアーのように感じていたけど、いざ目の前にすると、形式こそは似ているものの両者はまるで別物だ。


 なにより決定的なのは、参加するひとの表情。大抵のひとはしんみりした顔つきで留まるけど、中には泣き出してしまうひともいる。 


 僕だけじゃないんだ。


 なにも神様は僕だけに悲愴な現実を突きつけているわけではない。


 命に平等に価値があるように、死、という終わりの瞬間もまた、誰しもに平等に訪れる。


 それは予定調和の後に。あるいは突発的に。


 まるで命の許容量に限りがあるように。


 命が生まれれば別の誰かの命が尽きていく。


「それでは御三方、お願いします」


 神主さんに声を掛けられて、僕たちは椅子から立ち上がった。


 特別なしきたりだけど形式ばった風習ではないようで、僕も豊永さんも結月も、特別な衣装を纏ってはいない。

 といっても法被と浴衣姿のふたりに対し、僕はいつもと変わらない薄いジャケットとジーンズ姿なので、場を弁えるんだったと少しだけ後悔していた。


 結月が深月に向けた手紙を投げ入れて、豊永さんは紗英という、去年難病で亡くなったという娘さんに向けた手紙を投げ入れる。残すは僕だけとなった。


「……日葵」


 想いの丈を余すことなく綴った手紙。


 どうか、日葵に届きますように。


 手紙を額から離し、木と木の隙間からそっと手紙を落とす。


「それでは皆さん。黙祷をお願いします」


 神主さんの合図を皮切りに、参加者は手を繋いで大きな円を作り、そっと静かに目を伏せる。


 島全体が静まり返る。波のさざめく音だけが微かに聞こえる。


「では御三方、点火の方をよろしくお願いします」


 順にたいまつが渡される。

 このたいまつは、祭りの最中も本殿の前で燃えていたものだ。


 僕と豊永さんと結月とで三角形を作り、うずたかく積まれた手紙の山にたいまつを当てる。 


 めらめらと、次第に手紙は燃えていく。

 あまたの想いが、白い煙となって空の彼方に運ばれていく。


「さぁさ、皆さま。大切なひとを脳裏に浮かべて強く祈りましょう。さすれば、言の葉が言霊となり、一夜限りの奇跡を導くことでしょう。五感に頼ってはいけません。瞳を閉じ、意識を遮断し、心の瞳と耳で感じるのです」


 宗教団体の洗脳を彷彿させる怪しげな言葉だけど、ここまできた以上は最後まで儀式をやり遂げたい。僕は目を閉じて、日葵のことを強く思い浮かべた。


 ……日葵。どうか一度だけ。


 一度だけでいいから、僕の前に……。


 その後も強く念じ続けるけど……なにも特別なことは起きない。

 辛抱強く1分間願い続けてもなにも起きなくて。


 やっぱり眉唾物だったのか、と、少々落胆しながら目を開くと。


「え」


 そこには信じられない光景が広がっていた。


「……そんなまさか」


 もくもくと立ち上る煙の先にある星の瞬く夜空。


 その夜空から、無数の人影が降りてきていた。


 星影に透けた半透明の人影。彼らが幽体であることは一目瞭然だけど、しかし常とは違ってその姿は僕以外の人たちにも見えているようで。


 某所から啜り泣く声が聞こえてくる。

 その泣き声のほとんどは、誰かとコミュニケーションをとっているようだった。


「本物、だったんだ」


 眉唾物と疑っていた言霊祭。


 けれどその実体は、紛いのない本物だったようだ。


「結月、もうひとりで大丈夫よね?」

「前にも言ったはずだよ。天国まで吉報を響かせるんだから」


 結月は、深月に向けて自信満々に夢を語っている。


「紗英……ごめんな。五体満足で産んでやれなくて」

「大丈夫、少しも後悔してないよ。だからお父さん、泣かないで」


 豊永さんは、お子さんと思わしき女の子と泣きながら抱擁を交わしている。


 みんなが手紙を宛てた人物と再会している。

 泣き笑いしながら一時の奇跡に浸っている。


 なのに。それなのに……。


「……やっぱり僕のこと、許してないのかな」


 神様に、あるいは手紙を宛てた相手に嫌われた僕は、白煙を見ながら黄昏れる。


 神の存在を否定したツケか。

 最期まで寄り添うと言いながら約束を破ったツケか。


 ……なんだっていい。


 僕にだけ奇跡が訪れなかった。それが現実。


 端から過剰な期待はしていなかったのだから、力を落とすことなんてないはずなんだけど、それでも自分ひとりだけ例外というのは寂しくて。


「ん、厠なら逆方向ですよ」

「すいません。気分が優れないので帰ります」

「そんな、主役のお一方が後夜祭にいないとなっては宴も盛り上がりませんよ」

「すいません。今、歩くのもやっとなんです。

 親切にしてくれた方々に移したくないので」

「……そうですか。肩、お貸しましょうか?」

「いえ、そこまでではないので。皆さんによろしくお願いします」


 誰もが奇跡に酔い痴れる中、ただひとり平静を保っていた神主さんの監視を抜けて、僕はおぼつかない足取りで山を下る。


 咄嗟についた嘘などではなく、本当に気分が悪かった。


 頭痛がひどく、目眩がするし、足は鉛のように重い。


 けれど、熱はないはずだ。だってこれは、心の悲鳴だから。


 否定的な態度を取りながらも、僕は強く期待していたのだろう。

 だけどぬか喜びに終わり、僕の心は悲しんだ。それが表出しただけのこと。


 幸い、気が滅入った際の対処には慣れている。すべてを忘れて眠ることだ。

 そうやって僕は、孤独に負けそうな日々を乗り越えてきた。


 しかし、どうだろう。


 果たして今の僕は、孤独の重圧を堪え凌げるのだろうか。


 加麻鳥島に来てから、僕の隣には必ず誰かがいた。

 つばめに結月に……あともうひとり、誰かいたような気がする。

 

 けれど、今の家には誰もいないかも知れない。

 つばめがいれば心配されないように無理矢理気丈に振る舞うだろうけど、もし彼女がいなかったら。気張る必要がなくなったら……。


 僕は、僕のままでいられるのだろうか。


「はぁはぁ……」


 家に近づくに連れて動悸が荒くなる。


 安堵と落胆。中間はない。

 相反するふたつの可能性のどちらかが、間もなく僕に訪れる。


 こわい。


 ……一晩くらい、浜辺で夜を明かしてもいいのではないだろうか。


 そうだ。きっと寄せては返す黒い海が、僕の懊悩を連れていってくれる。


 地平線の先の。誰も知らない遥か彼方まで。


『行ってみたいんだ、あの海の向こう側まで』


「え?」


 頭の中で知らない声が響いた。いや、思い出せないだけで、知らない声ではないのかも知れない。初めて聞く感じのしない、心の落ち着く声だった。


「大丈夫、怖くないよ。歩こう? もう少しだけ」


 誰かに耳元で囁かれたような気がした。

 おもむろに振り返るも、誰の姿もない。


 僕は霊視できる。だから、今のは生まれて初めて体験する怪現象で、通説通りなら全身を粟立てて悲鳴を上げる場面なのだろうけど。


「……うん。ありがとう」


 不思議とその声は心地良くて。

 僕の怯懦を振り払ってくれたように感じた。


 坂道を一歩、一歩と上っていく。

 疲労で感覚が麻痺したのか、要因は定かでないけど、もう足は重たくなかった。


 家の前に辿り着くと、何故か家の灯りが点いていた。


「……空き巣?」


 島のひとがそんな悪行を働くはずがない。

 が、今日は島外のひとが多く足を運ぶ特別な日。


 何者かが悪事を働いてもおかしくない。なんせ、どの家も施錠されていないのだ。


 とことんついてない。数多くの民家が存在する中で、偶然僕の家が被害に遭う確率なんて相当低いはずなのに……。


 けれど、僕でよかった。

 島のひとたちが悲しい思いをしなくてよかった。


 僕の宿泊民家は、窓ガラスに薄いスモークが貼られていて中が見えないようになっている。扉越しに気配は感じないが、油断は禁物。息を整えて勢いよく扉を開く。


「~っ⁉ ……あれ?」


 叫声が聞こえたら最後、ひ弱な僕は為す術なく蹂躙されてしまうだろう。

 そう覚悟して扉を開いたけど、一向に声は聞こえず。


 既に荒らされた後なのかと目を開くと、確かに内装は見慣れないものになっていたものの……。


「お誕生日おめでと~!」

「おめでとうお父さん!」


 ふたつの人影が左右の物影から現れた後、クラッカーの音がぱんぱんと続けて鳴る。


 驚く余裕なんてなかった。

 もっと大きな衝撃が、僕を支配していたから。


「……は、ははは……そういえば、今日は僕の誕生日だっけ?」


 学生時代は自分に興味がなく、社会人になってからも仕事に忙殺されて忘れていた誕生日。 


 その日を、当人よりも大切に思ってくれる女の子がいた。


 彼女は毎年、僕が気づくよりも早く僕を祝ってくれて。

 めでたい日だと笑顔を振り撒いて。


「また忘れてたの? もっと自分を大切にしようよ」

「……うん。ごめん……」


 今年もまた、僕は彼女に8月15日が自分の誕生日であることを知らされる。


 ずっと運命を恨んできた。


 何故、彼女が十字架を背負わなくてはならなかったのか。


 祈っても祈っても、一向に彼女の容態は快復しなくて。


 僕は神様が大嫌いだった。


 けれど、今だけは……。

 今日だけは、感謝しなければならない。


 ありがとうございます。


 束の間の奇跡をくださって。


 膝から崩れ落ちて涙を流す僕を一瞥し、日葵と翼咲は困ったように微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る