side3-10 いつか出逢えると信じて……
なんだか妙な胸騒ぎがして、寝付けないまま朝を迎える。
寝て起きたらいないかも。
なんて可能性をだいぶ前から危惧していたけど、今日ほどその予感を強く感じた日はない。そして嫌な予感は、的中して欲しくない時に限って的中する。
「んぁあ~、おひゃよ晃次さん。……ん、なんでこんなに布団敷いてるの?」
だから抗った。
それだけのこと。杞憂なら杞憂で構わない。
「……つばめと紗英がいるからだよ」
「つばめ? えっと、鳥なんていないけど……。それに紗英って……懐かしいなぁ。お姉ちゃんと一緒にいたずらしてくる綺麗な女の子がいてさ――」
僕の寝不足だけで済めばいいのに。
これだから神様は嫌いだ。
結月はつばめと紗英のことを忘れていた。
忘却はさることながら、ふたりの姿も見えていないようで、結月は僕の知らない紗英との想い出を懐かしむように語り出した。
結月の中にある紗英の情報が置換されたのだろう。
結月の中に存在していた、僕の知る紗英との記憶が消滅していた。
「結月」
「ん、どしたの?」
「悪いけど、今日の勉強会はなしでいいかな」
「うん、全然構わないよ。それに今日は言霊祭だから、元からするつもりもなかったし。……それにしても晃次さん、顔色悪いよ? 目の下まっくろだし……体調悪かったりする?」
言い訳には好都合だ。僕は力なく頷いた。
「昨日のカレーがあたったのかな、体調が優れなくて」
「隠し味なんて言って、バニラエッセンスをどばどば入れるんだもん。
晃丞さん頑張って食べてたから、そりゃお腹壊すよ」
主張の強すぎる隠し味カレーの記憶はあるのに、愚行を侵した張本人の記憶だけは抜け落ちているようで。
けれど、そんな整合性の取れていない出来事に結月は少しも疑問を覚えていなかった。主語が抜けていることに、本人は気づいていない。
「少し寝れば治るよ。朝ごはん用意できないけどいいかな」
「病人を酷使するほどわたしは性悪じゃないよ。
よし、身の回りのことはわたしに任せて!」
「それよりも腹痛が移る方が怖いから、今日だけ家に帰ってくれないかな」
「うん、わかった。体調が優れなかったら無理して言霊祭きちゃダメだからね?」
「ありがとう。頑張って治すよ」
優しくて素直な子だ。
僕の言葉に少しも反論することなく、結月は家を飛び出していった。
「……まだ5時か」
夜が明けて間もない時刻。
ちゅんちゅんスズメの鳴く声が聞こえてくる。
少しの時間も無駄にしたくないけど、だからって無理矢理に起こすのも気が引ける。明日には見られないであろうふたりの寝顔を堪能したところで、読書することにする。睡眠不足が祟り、文はゲシュタルト崩壊していた。
それから1時間ほどして、紗英が目を覚ました。
「んん~~いい空気っ! おっはよ城崎さん!」
「おはよう。目の腫れがひどいけど、蚊にでも刺された?」
「もう、知ってる癖に底意地の悪い。そういう城崎さんこそ目が血走ってるよ?」
「年甲斐もなく徹夜したんだ。一徹ぐらい余裕だと思ってたけど、三十路が近いと衰えるもんだね」
「はは、なにしてんの~」
けらけらと紗英は笑う。
君のためだよって言い返したかったけど、思うだけに留めて置いた。
昨夜と同じ轍を踏むわけにはいかない。
「それでお嬢様、今日はなにをご所望で?」
「そだね。……当たるまでアイス爆買い!」
「うわ、つらいなぁ」
紗英の望みを叶えに叶えて、エスカレートしたにもかかわらずこの程度だ。
本当に腹痛になりそうだけど、彼女が笑顔なら構わない。
今日の僕は、紗英のためなら言霊祭をすっぽかす覚悟だってできている。
「ははは、今日はとことんふたりに付き合ってもらうんだからっ」
ふたり。
昨日までは三人だったのに、紗英はいなくなったもうひとりに触れようとしない。
「うん。できる限りのことならなんだってするよ」
それなら僕は、彼女の意向に合わせるまでだ。
今日はふたりが最優先。多少、人倫にもとる行為もやってのけよう。
「できる限りのことは、か。なら浜辺で花火はダメかな?」
「片付けをしっかりすれば問題ないよ」
もっとも、紗英の悪いことの程度はものすごく小さいのだけど。
× × ×
今日が最後であってもある程度の満足感を与えられそうな紗英と違い、つばめは未練がなんなのかすらわかっていない。あまつさえ、正体も不明瞭なのだ。
「つばめはなにかしたいことないの?」
「前にも言ったじゃないですか。お父さんの側にいられるだけで幸せですよ」
お父さん。
その呼び方が板についたつばめと初めて出会ったのは、2週間前のことだった。
出会った当初、僕のことをパパと呼んでいた幼い彼女は、結月の問題の解決と同時に急成長し、中学生に該当する容姿となった。
そしてその顔は、どこか日葵と似ていて……。
と、それからなんの進展もないままに、最後の瞬間が迫っていた。
なんにせよ、つばめが幸せの絶頂で成仏できるに越したことはない。
紗英と同様に、つばめのためならなんでもするくらいの気魄でいたのだけど、出会った当初から彼女の願いが変化することはなかった。
……劣悪な環境下で育ったのだろうか。
彼女が僕をお父さんと呼ぶのには、なにかしらの意味があるように思う。
言うまでもなく、額面通りに受け取るのは論外だけど。
3人で朝食を取って外に出ると、船着場から喧騒が運ばれてきた。
遠目にいくつか露店が見える。
今日は言霊祭当日。島全体がお祭り色に染まっている。
「本当にアイスなんかでいいの?」
「うん。わたしにとってはなんかじゃない、特別なものだから」
「なるほど。つばめも異論なしって感じ?」
「はい。わたしにとっても特別なものなので」
僕と彼女たちとでは、物事の価値観がまるで違うようだ。
船着場と真逆の方角にある駄菓子屋に向かうのは、僕にとって都合がいい。
これで結月と鉢合わせる可能性はかなり低くなったはずだ。
なんだか隠れて悪行を働いている気分。
10分ほど歩き、駄菓子屋に到着する。
開けっぴろげの店内にはずらっとお菓子が並び、遠目でその外観を一瞥するや否、紗英は豆鉄砲のように駆けていった。
一方のつばめは暑い暑いと頻りに呟き、辟易した様子。
言動が逆じゃないだろうか。年齢的に。
「あら城崎さん。珍しいねぇこんな時間に」
「はは、少し糖分を摂りたくなりましてね」
この店は老夫妻によって経営されている。
聞けばふたりとも80歳近いというのだけど、全然そうは見えない。
杖なしで歩く白髪の80代なんて、都会ではまずお目にかかれない。
「旦那さんはお祭りの方に?」
「えぇ。お客さんも来ないだろうし、ぼとぼち私も出発しようと思ってたけど、お客さんが来たんじゃそうはいかないねぇ」
「すいません。ご迷惑かけてしまって」
「いいのいいの。さ、なんでも買って頂戴。
今日ならアイス買い占めても構わないよ」
「じゃあバニラバーとチョコバーとメロンバーを3本ずつお願いします」
「はは、若いねぇ~」
成人男性が10本近くのアイスを買っても、若いの一言で済んでしまうのだから驚きだ。
ついでに紗英が籠に入れていたお菓子も追加購入して店の外に出る。
皆、祭りの虜になっているからか、道中に人影はなく、蝉の鳴き声と店先の風鈴の奏でる夏の音色だけが、快晴の空の下に響いている。
「よぉ~し! 当てちゃうぞぉ~!」
「どうか3本で終わりますように。どうか3本で終わりますように」
余談だけど、アイスが当たる確率は2パーセントほどらしい。
つまり、確率上は50本買えば1本当たる。
まぁ確率なんてあまり当てにならないんだけど。
ベンチに腰掛けて、3人でアイスを頬張る。
わかってたけどキツい。正直、1本でかなり堪える。
そんな僕に暁光が訪れた。
「あ、当たった」
検証終了。
当たるまでアイス爆買いチャレンジは、わずか9本の購入で幕を閉じた。
「えぇっ⁉ てか、反応薄っ! 城崎さん、感情息してる?」
「そんな煽りは初めて受けたよ」
「ナイスですお父さん」
「つばめもアイス苦手なの?」
「はい。過度に熱いものと過度に冷たいものは好まないです」
すごいわかる。
「へぇ~、なら次は激辛ラーメンかな」
「鬼か君は」
結月がいなくなったことで、ターゲットがつばめに変更されたらしい。
「いいですよ」
ただ純情な結月と違い、つばめは時折ブラフをかけるから、言うことすべてが真実とは限らない。しかし、つばめの不意打ちに「たっは~、こりゃ一本取られた~」とけらけら笑う紗英は本当に楽しそうで。
優しい世界に顔が綻ぶ。
そして足を運んだラーメン屋。
「……城崎さん、わたしやっぱり豚骨ラーメンがいいな」
「わたしも味噌が……残したら怒りますか?」
「僕に3杯食べろと?」
その後、トイレに男性客が10分近く閉じ籠もったのだとか……。
しょうもなくて、楽しくて、心地よい3人の時間。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに。
そんな僕の期待を裏切るように、ふたりの姿はどんどん薄れていく……。
× × ×
それから色々なことをした。
四つ葉のクローバーを探したり、カブトムシを捕まえたり、拾った貝殻の大きさで競い合ったり……。やはり、どれもが容易に叶えられる願いだった。
そして空に藍色と茜色が混在する今、僕らは最後の時間を過ごしていた。
「やった! またわたしの勝ちっ!」
「細工してませんか? いくらなんでも三連勝はおかしいです」
人気のない浜辺に灯っていた三つの光がひとつになる。
浜辺で花火がしたい。
それが紗英の最後の願いだった。
「はは、運も味方の内だよ。……ね、城崎さん」
「え? ……ああ、うん。そうだね」
正直、居たたまれなくて逃げ出したい。
日葵の最期の瞬間に立ち会えなくて後悔していたけど、だからって、最期の瞬間を目の当たりにしてすんなり受け入れられるはずもなく。
手元の線香花火がろくに見られない。
消えゆくふたりの姿と重なってしまうから。
「あ、やったやった! お父さん、ようやくわたしの勝ちですよ!」
弾んだ声。張り裂けそうなほど胸が痛くなる。
「……3勝1敗か。まだ本数もあるし、逆転もあり得るかな」
「やってやります!」
「いや城崎さん、自分も参加者ってこと忘れないでよ?」
呆れたようにそう言うのは紗英なんだろう。
ふたりの姿は、もうほとんど見えない。
残光でかろうじて見えているけど、間もなく見えなくなるだろう。
だから、花火なんて気にしていられない。
線香花火持続時間の戦績なんかよりも、ふたりとの想い出の方が何倍も大切だから。忘れないようにふたりの姿を目に焼き付ける方が、何倍も何倍も大切だから。
なのに……。
「……ぅぐ」
涙が邪魔をしてくる。
これではますます姿が見えないのに。わかってるのに。
涙は止まることなく溢れ続ける。
「城崎さん……」
「お父さん……」
「……泣かないって決めてたんだけどなぁ。ほんっと、弱いなぁ僕って奴は」
ふたりの顔が見えない。
僕が知覚できるのは、彼女たちの声だけだった。
やがて、ふたりと過ごした時間が記憶から薄れていく。
彼女たちの笑顔が、困った顔が、怒った顔が、泣き顔が――僕たちの想い出が。
消えていく。
「駄目だ駄目だ駄目だっ!
絶対に忘れないって、約束したんだ! 忘れて堪るか!」
『……城 はわた こと忘れないでいて る?』
泣き叫ぼうが残酷に、運命は僕から彼女たちを奪っていく。
『寝る の で を日課 ください』
彼女たちの存在した証を無慈悲に奪っていく。
「ありがとう」
耳元で囁かれたその声がどちらのものか、僕にはもうわからなかった。
姿は完全に見えないし、名前も思い出せない。ただ、忘れてはいけない女の子たちがいる、という強い思いだけが僕と彼女たちを繋いでいた。
「ひとりぼっちのまま終わるはずだった。自分の存在理由もわからないまま、世界に取り残されてその瞬間を待つだけだと思ってた」
「……紗」
彼女はなんて名前だっただろうか。
明るくてからかい上手で。その癖、本当は弱い女の子が近くにいた。
道端で泣き出した僕を救ってくれた、優しい女の子が確かにいた。
「でも、そうはならなかった。恵まれなかった17年間を忘れてしまうくらいに楽しくて、騒がしい一週間が最後に待ってた。
だからね、わたしはこれまでのことを少しも後悔してないんだ」
嘘みたいに晴れやかな声だった。
記憶がなくとも心は彼女のことを覚えているようで、胸に熱いものが込み上げてくる。
「ほん~~っとうに、楽しい毎日だったっ! ありがと城崎さんっ! おかげでわたし、今は少しもこわくないよ! ……ちょっとだけ。ほん……とうにちょっとだけ寂しいけど……さ、またきっと会えるよね? ばいばいっ」
宙空でなにかが煌めいた気がしたけど、起きた事と言えばそれくらいで。
都合良く奇跡が起きるなんてことはなく、声の主が誰なのかわからないまま、二度とその声が鼓膜を揺らすことはなかった。
忘れてはいけない誰かがいた。
その記憶だけが鮮明に残っている。
「なん……で……」
と、声がしたのは波打ち際から。
目を疑うことに、直前まで誰もいなかった砂浜に女の子がいた。
「……つばめ、なのか?」
つばめ。
確か、忘れてはいけない女の子のひとりがそんな名前をしていたはず。
「はい。……一体、なにがどうなって……」
つばめ。
再度認識した途端に、彼女との記憶が蘇った。
……のだけど、おかしい。
「……」
童顔が美貌に。
主張の少なかった胸がやや豊満に。
膝下のスカートが膝上になっていて……。
つまるところ、つばめはさらに成長していた。
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