side3-9 想い出の中で生きていく

 鬼ごっこをしたい。


 そんな未練を残してこの世を去ったひとが本当にいるのだろうか。


「体が思い通りに動かせなかったんだ」


 僕らは生きている。


 躓きながらも五体満足で毎日を過ごしている。


 しかし、そんな多くのひとにとってのあたりまえを享受できないひとも少なからず存在する。


「……事故にでもあったの?」


「ううん、生まれつき。正式名称は脊髄性筋萎縮せきずいせいきんいしゅく症、だったかな? ともかく、そんな感じの病気に罹っててね。

 程度は日常に害を来さないものからまともに生活に送れないものまで幅広く分散してるらしいんだけど、わたしは命を授かった瞬間から極めつけ悪いやつに侵されてて……。生まれた瞬間から下半身不随だったんだよ」


 盲目のひとがいる。難聴のひとがいる。


 あたりまえが欠如したひとがいる。


 誰しも最優先に愛するのは自分自身だ。


 どれだけ利他的であろうが、博愛的であろうが、極限状態に陥れば、ひとは誰だって保身を第一に考える。そうやって自分本位に物事を捉えるから、ひとは自身の見識外にある事象を掴めない。それを杓子定規だとこき下ろすひともいるけど、その性質は人間に先天的に備わったものだからどうしようもない。


 そう。

 どうしようもないのだけど……。


「……ごめん」


 それでも自責の念に駆られてしまう。


 自罰しないと気が済まない。

 悲愴な告白を耳にして平然を保てるほど、僕は強い人間ではなかった。


 言霊祭前日の夜。

 紗英が自身の消失を予言した日の前日。


 つばめと結月の寝息を背中で聞きながら、僕は紗英と談笑していた。


「なんで謝るの?」


 くだらない話をしていた。


 今日までの五日間を振り返って、あの時が楽しかったとか、あれもしたかったとか……。しんみりした空気にならないように暗い話題は避けていた。


「つらい思いをさせたから」

「はは、いいよいいよ。過去は過去、今は今。全然気にしてないよ?」

「それでもあっけらかんとはできないよ。

 僕のくだらない好奇心が、君を傷つけたんだから」


 最後の最後まで紗英は自身の境遇を隠し通していたのに、無理矢理その話題を引き出したのは僕だ。

 僕がしつこく迫ったから、紗英は話したくないのに話してくれたのだ。


 彼女はきっと気づいていない。


 自分が今にも泣き出しそうな顔をしていることに。


「そうやって同情される方が傷つくんだけど?」


 悲壮感など微塵も感じさせない、からかい半分の言葉。


 いつもならおざなりに扱うのだけど、今に限っては言葉と表情がまるで一致していなくて、声を出すことさえも憚られてしまう。


 5秒ほど沈黙が満ちた後、紗英はこんな提案をしてきた。


「なら罰を与えます」

「罰?」

「うん。城崎さんは鬱陶しいくらいに自罰的だから、こうでもしないと居直りできないでしょ?」

「返す言葉もないよ。具体的にはどんな罰なの?」

「ふふふ、それはもうおっも~い罰だよ。それじゃ……えいっ」


 勢いよく抱きついてきた。ギロチンでも狙っているのかと身構えるけど、紗英に限って直接的な暴力を行使するわけがない。すぐに緊張を緩める。


 それからしばらくするも、紗英は僕を抱き締めたまま、なにもしてこない。


「……えっと、物理的に重い罰ってこと?」

「こらこら、女の子の体重にいちゃもんをつけるのはタブーだよ。

 ……拍動を感じてるの」


 紗英は僕を抱き締めたまま、一向に離れようとしない。


 沈黙の中で絶えず動くのは、重なったふたつの鼓動だけ。


 どくんどくん、どくんどくん、と。


 絶えず脈打つ音だけが骨を伝って全身を震わす。


「心臓、動いてる」

「生きてるからね」

「わたし、時々思うんだ。生きた証はどう残るんだろうって」

「ひとによって定義が割れそうな疑問だね。紗英はどう定義してるの?」

「わたしは記憶が生きた足跡だと思う。死後も記憶の中で生き続ける。

 誰からも忘れられたときが、本当の意味での死だと思うんだ」


 すぐには返答できなかった。


 何故なら、僕は日葵との想い出を忘却しようとしていたから。


 彼女のことを忘れて……殺して。自由になろうとしていたから。


「……そうだね。想い出って形で人は死後も生き続ける」 


 どの口が言うのだろう。

 同情で紗英を安心させる嘘つきな自分を嫌悪してしまう。


「……城崎さんはさ、わたしのこと忘れないでいてくれる?」

「もちろん。たくさんの笑顔をくれた恩人を忘れるはずがないよ。

 僕は義理堅いんだ」


 僕なんかに笑顔を向けてくれた女の子を忘れるはずがない。


「はは、ちょ~っと粘着気質なのが玉に瑕だけど、城崎さんはやっぱりいいひとだね。……ごめんね城崎さん。ちょっとだけ、魔法を解くね」


 肩に乗っていた紗英の頭が胸に埋まる。


 そして間もなく、小さな嗚咽が聞こえてきた。


「うぅぅ……やだよぉ。こわいよぉ……」


 いつもは剽軽な紗英が、怯えるように全身を震わせている。


 時折、仄暗い一面が垣間見えることはあった。

 けれど、ここまで露骨に悲しみを表出させたことは一度だってない。


 結月と違い、紗英は既に過去を乗り越えていると思っていたから、溢れ出す激情を前に、僕は面食らってしまった。


 ……けれど、どこか違和感がある。


 自発的に消失することを嫌だと拒絶するのはわかる。

 しかし、こわいとは一体、なにを指しているのだろう。


 消えることがこわい。


 そう解釈してしまえば楽だけど、なにか別の理由があるような……。


「消えたくないよぉ城崎さん」

「ならずっと僕の側にいればいい。

 紗英が悪霊になったって、僕は見捨てたりしないよ」

「その優しさに縋れたらなぁ……。縋れたらいいのになぁ……。

 けど、それはできない。わたしの存在した証が消えちゃうから」

「……どういうこと?」

「わたしは豊永紗英だけど、豊永紗英じゃない。

 連続性から乖離して生まれた存在なんだ」

「……」

「だからダメ。明日わたしが消えないと、豊永紗英が存在した証がなくなっちゃう」


 つまり僕の前にいる紗英は、紗英であって紗英ではない、と。


 どういう理屈かはわからない。

 けれど、僕の知る紗英は存在してはいけない存在なのだろう。


 信じられない話だけど、思い当たる節がある。


 いつだったか、豊永さんに娘さんなんていたっけ? と口にする島民がいた。

 それもひとりではなく、5人ほど。


 それだけではない。

 町役場にある直近で亡くなったひとのリストに、紗英の名前はなかった。


 今日までに覚えた違和感が、紗英の言葉の信憑性を強める。


 疑う余地なんてない。

 豊永紗英という少女が生きた証は、徐々に消え始めている。


「……なんとなくわかったよ。

 今の紗英の存在した証が消えることで、本来の紗英の存在した証が蘇るんだね」


 こくりと紗英は首を縦に振った。


「……大丈夫、僕は忘れないよ」

「そんなの、できっこないよ。わたしがいたって記憶そのものがなくなるんだよ?」

「だとしても、紗英が僕を救ったって事実はなくならない。

 だから大丈夫。泣かないで」

「城崎さん……」


 なにか決定的なものが吹っ切れたように、紗英は大声を上げて泣き始めた。

 なのに、結月とつばめが起きる気配はまるでない。


 そのことに違和感を覚えて間もなく気づいた。


 紗英の体が薄らと月影に透けていることに。


「大丈夫。仮に紗英がいなくなったって、僕は必ず見つけ出すよ」


 笑顔で成仏させるって決めたんだ。


「海の向こう側に行く必要なんてない。僕が絶対に君を見つけるから」


 最後の瞬間まで、僕は絶対君を忘れない。


 もし君が成仏できなくてひとり彷徨ってしまったとしても、僕が必ず君を見つけ出す。


 絶対にひとりにはさせない。


 程なくして、僕は僕の知る紗英の存在が揺らぎかけているのだと痛感する。

 記憶の中の紗英に薄い靄がかかり始めたからだ。


 これまでの日々を振り返ると、どうしても紗英の顔だけが曖昧になる。

 それでも忘れて堪るものかと抗いながら、僕は紗英を抱き締め続けた。


 それから20分ほど経った後、泣き疲れた紗英は眠りについた。

 安心しきった寝顔に胸を撫で下ろし、そっと布団に横たえる。その際に背中の裏側の白地がはっきりと見えて、僕はひどくやるせない気持ちになった。


 彼女の悲しみを受け入れること。


 それが僕に課せられた罰だったのだろう。 


 紗英と結月の安らかな寝顔を確認し、つばめに視線を巡らし……。


「……やっぱりそうなるのか」


 予想の範疇ではあった。

 いつだったか、紗英がつばめも似たようなものだと言っていたから。


 紗英と同様に、つばめの体も仄かに透け始めていた。

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