side2-5 「ありがとう」をあなたに
あたたかい。このまま目を閉じれば、ふたりに会えるのだろうか。
妻と娘。
中絶してしまった娘の成長した姿も、あの世でなら見られるのかも知れない。
そう考えると、最期の瞬間が待ち遠しくなってしまうのだから不思議だ。
人間は思っている以上にしぶとい生き物らしく、なかなか事切れない。
脳裏を様々な記憶が駆け巡る。
麗らかな陽気の中、日葵と緑溢れる公園を歩いた春。
ひまわり畑の中にある日葵の実家に趣き、両親に深々と頭を下げた夏。
紅葉の咲き乱れる並木道で、お互い恥ずかしがりながら唇を重ねた秋。
新しい命を授かり、泣き笑いした冬。
……どれだけ愛妻家なんだ僕は。
全然、未練を断ち切れていないじゃないか。
けど、もういいんだ。
だって僕は、もうすぐ彼女と会えるんだから。
『駄目だよ。晃丞くんはこれからもたくさんの命を救うの』
幻聴だろうか。懐かしい声がする。
『大丈夫、きっとすぐに会えるから。
〝あの子〟がきっと、わたしと君を繋いでくれる』
ここは死後の世界だろうか。それにしては暗いような。
苦しくない。痛くない。手足の感覚がある。
五体満足であるということは、死んだと解釈して間違いないだろう。
死後の世界。
そもそもそんな場所が存在するのだろうか。
ゆっくりと目を開く。
ところどころに晴れ間が覗く空が映った。
「――晃丞さん!」
目を真っ赤に腫らした結月が胸に飛び込んでくる。
「……え?」
夢現のままに状況を確認する。
息ができる。手足の感覚がある。痛覚はない。
けれども、服は何カ所も切り裂かれたままで……。
「無事みたいですね」
と、聞いたことのない声に首を巡らすと結月がいた。
「いやそんなはずは……」
おかしい。
前後に結月がいる。結月がふたりいる。
背後の結月がくすくすと忍び笑いをもらした。
「わたしは白浜深月。結月の姉です」
深月。
いつか豊永さんが口にしていた、結月の姉の名だ。確か双子。
「事故にあって他界したって聞いたんだけど」
「はい。私は去年亡くなりました」
「冷静に答えられてもなぁ」
死者と対話している。
常識的に考えればあり得ない事態だけど、僕は何度もこの科学的には証明できない事態に直面している。
だからだろう、心は落ち着きを保っていた。
一方の結月は、脇目も振らずに僕の胸で泣き続けている。
ごめんなさいごめんなさい。
同じ言葉を何度も繰り返している。
結月が落ち着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。
とりあえず、深月に今に至るまでの説明を求めるとしよう。
「質問、いいかな」
「はい。なんなりと」
不思議な感じだ。
淑女然とした雰囲気を纏っているのに、容姿は結月と瓜ふたつ。
「なら遠慮なく。僕はどうして生きてるの?」
一度は確実に三途の川を渡ったはずだ。日葵の声を聞いた。
なのに僕は生きている。
臨死体験と言ってしまえばそれまでだけど、実際僕は外傷を負った。
肺が潰れて、背骨が砕けた感覚があった。
なのに生きている。
一切の外傷がないままで。
僕は生きている。
無数の疑問の中でなによりも気に掛かったのは、僕の生存理由だった。
顎に指を当ててしばし黙考すると、深月は目を細めて言った。
「端的に言えば奇跡です」
「奇跡?」
「そう。たしかに城崎さんは一度死にました。
けれど、あなたと関わりをもったひとたちがそれを諒としなかった。
この島は、地上において死後の世界ともっとも繋がりが深い地です。
その島の中でもなかんずく力が及びやすいのがここ、言霊神社を構えるこの山脈。城崎さんは、いくつもの奇跡が重なって生還したんです」
「なるほど。……なるほどなぁ」
なかなか理解が追い付かないけど、深月の言うことは事実なんだろう。
ま、そういうこともある。
僕は深く考えずに、大局的に解釈することにした。
そもそも既存の法則の型に当てはめて考え出したら、故人と話しているというこの状況の説明がつかない。
前提から規格外なのだ。今更理屈を求めたって仕方ない。
「……ということは、死者は誰でもこの島に存在できるってこと?」
「いいえ、そういう訳ではありません」
「ならどうして君は今、この場所にいられるの?」
誰でも存在できるわけではない。けれど、深月は存在できている。
その矛盾の間には、なにかトリガー的なものが存在するのではないだろうか。
「結月が願ったからです。晃丞さんを助けてお姉ちゃん!
……って何度も祈られたから、私は一時的に人の身を取り戻したんです」
なるほど、祈願がこの世とあの世を繋ぐ鍵のようだ。
ならば。
「今僕が願えば、日葵と会うことも可能なのかな?」
駄目元で問いかける。
そんな奇跡が起きたらと一筋の希望を抱いたけど、そうは問屋が卸さないらしい。
深月はゆるゆるとかぶりを振った。
「できません。現世と来世を繋ぐ〝架け橋〟が必要ですから」
そう言って深月は、後ろ髪を結っていたヘアゴムを解く。
「結月が片時も肌身離さずこのヘアゴムをもっていたから、私はこうしてあなたの前にいられるのです。生前の日用品とは限らないのでしょうが、故人と縁の深いなにかがなければ、まず奇跡は起こりえないでしょう。
偶発的な事象が重複することも条件なのかも知れません」
本人も明確なことはわからないらしい。
ただ確かなのは、日葵と繋がるものが想い出という抽象的なものしかない以上、僕が彼女と出会える確率は無に等しいということ。
まぁ、何事もそううまくはいかないだろう。落胆はそれほどなかった。
「すいません。力になれなくて」
眉根を寄せて深月は俯く。
「城崎さんの頼みごとを叶えたいのはやまやまなのですが、わたしは所詮、霊体なので」
「そう暗い顔しないでよ。それよりも今すべきは、妹を慰めることじゃないかな」
深月が見えていないのか、あるいは僕が気を失っている間にコミュニケーションを図ったのかはわからないが、結月はずっと僕の胸で泣き続けている。
深月は困ったように微苦笑を浮かべた。
「まったく、城崎さんを危険に晒したのは自分だって言うのに」
ふうとため息をついて、結月の首根っこに手を伸ばす。
深月の手が触れても、結月はなんの反応も見せなかった。
「そっちの可能性か」
薄々勘づいてはいた。
いくら視界が狭まっているとはいえ、僕が深月と会話しているのに、視線が一度も向かないなんておかしいから。
見えていないから、結月はなんの反応も示さないのだ。
姉には妹が見えているのに。
「ほんと、おバカさんなんだから。
私なんか忘れて、自分の生きたいように生きればいいのに」
深月はそっと、結月の背中を抱き締める。
結月に反応はない。変わらず泣き続けている。
「あなたはあなたのまま生きればいい。
ありのままのあなたを島の誰もが愛してるのよ。
自由闊達で、破天荒で。いつもそそっかしいあなたがみんな大好きなのよ」
滔々と姉は言葉を紡ぐ。目尻に涙を浮かべながら。
「車道に飛び出した猫を助けるためにあなたが身を投げ出したとき、
私はこんな素敵な子の姉でよかったって、そう本気で思えたんだよ?」
それは誰も知らない物語。
ふたりしか知り得ない、いつかの事故の裏話。
「小さな命も大きな命も平等に扱うあなたが誇らしくて。
私、結月のために命を投げ出したことを少しも後悔してないんだよ?」
自己完結と事実の間に生じたズレ。
姉はその修正を図ろうと試みるけど……。
「私、全然怒ってないんだよ? 謝る必要なんてどこにもないんだよ?」
涙声と涙声が重なる。
皮肉なことに、ふたつの声が向かう先はまったく異なる場所だ。
「だから、結月は結月の生きたいように生きて。そうしないと、お姉ちゃん本当に怒っちゃうぞ? ……なんて、聞こえてないのかな……」
深月の姿が段々と薄れていく。タイムリミットなのだろう。
姉の言葉は一向に妹に届かない。
「……そんなのってないだろ」
深月はいる。他ならぬ結月の願いで。
なのに、このまま想いがすれ違ったまま事が収束してしまうなんて……。
僕は結月の肩を強く掴んだ。
「ふぇっ!?」
「耳を澄ませて結月!」
「な、なにに対して!?」
「いいから! 絶対、耳を澄ませば聞こえるはずだから!」
そんなの希望的観測にすぎない。
根拠も理屈もお構いなしの感情論。
それでも、この状況をみすみす見逃すくらいなら一縷の可能性に賭けたい。
結月は毎日、深月のために参拝にきたんだ。
雨にも負けず、風にも負けず、命だって投げ出す覚悟で。
だから、瞬きほどの奇跡くらい起きたっていいじゃないか。
第三者の僕に見えて、親族が見えないなんて間違ってる。
深月と対話すべきなのは、僕ではなく結月だ。
僕の切迫した形相を見て異常事態だと察したのか、結月は一も二もなく耳をそばだてる。
結月を背中から抱き締める深月は、柔らかく微笑みながら結月の耳元でそっと囁いた。
「ありがとう結月。大好きだよ」
「……え」
その言葉を最後に、深月は姿を消した。
まるで始めから存在しなかったかのように。
「……今、お姉ちゃんの声がしたような」
しかし、姿はなくとも想いは消えていない。
去り際に姉が残した言葉は、常識の壁を打ち破って、妹に届けられた。
たった二言。
費やした歳月の割に合わない、あまりにも小さな対価だけど。
「……わたしも大好きだよお姉ちゃん」
背後に落ちたヘアゴムを胸に押し当てて、結月は染み入るように呟く。
「わたしはわたしの生きたいように生きるから。
もうお姉ちゃんがいなくても大丈夫だよ」
真っ赤に腫らした瞳から、結月は再び涙を流す。
次は僕ではなく、今はいない姉に向けて。
たった二言。
費やした歳月の割りに合わないあまりに小さな報酬だけど、姉妹の心を通わすにはそれだけで充分のようだ。
空から陽の光が降り注ぐ。
雨上がりの茜色の空を見上げ、結月は「ありがとう」と呟いた。
ごめんなさい。
そう何度も呟いて贖罪を乞う彼女はもういない。
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