side2-4 贖罪の果てに彼女は……

 突発的に行動を起こすひとは時に勇敢と讃えられて、時に無謀と非難される。


 だから、これまでの人生で大きな賭けに出ることは極力控えてきたのだけど、まさか三十路手前でこんな無茶をすることになるなんて。


 おそらく今が、もっともピークの時間帯。


 返す返す風音と雨音が耳朶を打ち、視界はほとんどない。

 かすかに目視できるアスファルトだけを頼りに心当たりを訪れていく。


「どこにいるんだよ、結月……」


 桔梗が好きだと教えてくれた花畑に結月の姿はなく。

 一件、また一件と、彼女との想い出を築いた場所が候補から外れていく。


 2日前に紗英が言っていた。


 時間は無限ではない。有限である、と。


 この惨状は、僕の施した処置が大した効力をもたらしていないというなによりの証拠だ。


 なにが医学界の新星だ。

 女の子のひとりも救えない奴が、名医なんて大層な肩書きを冠していいはずがないだろ。


 いつだって、僕は失ってから気づく。


 日葵のときだって、中絶したから大丈夫だと高をくくっていたから、最期の瞬間に寄り添うことができなかった。


 運という言葉は便利だ。


 幸運。不幸。


 それは時に嫉妬を避けるための謙遜に。

 時に自身を正当化する無理やりなこじつけに。


 運。


 それはその言葉を免罪符に、現実から目を背けることができる魔法の言葉だ。


 幸運も悪運も偶発的に生まれたものではなく、積み重ねの結果だと言うのに。


 人間は弱い。

 いつだって自分に都合のいいように物事を解釈する。


 ご多分に漏れず、僕もそのひとりだ。


 けれど、失敗から得られるものは後悔だけじゃない。

 失敗と同時に学べることだってある。


 日葵を失ってから、僕は少しの違和感も見逃さないよう鵜の目鷹の目で患者を見守ってきた。

 悲劇を繰り返さないために。誰にも僕と同じ思いをさせないために……。


 そんな決意を秘めながらこのザマだ。


 もし結月が命を落としてしまったら、僕はきっと今度こそ身を持ち崩してしまうだろう。自殺という選択を取ることだって大いにあり得る。


 目星をつけた場所が無人である度に、負の循環が加速していく。


 最悪の可能性が現実味を帯びていく。

 焦燥に駆られた胸が、調子外れな鼓動を打ち始める。


 当てずっぽうに走り続けて一時間ほど経っただろうか。


 ぬかるみに足を取られて、僕は盛大にすっころんだ。


「はぁはぁ……くそっ!」


 水と大差ない地面を殴りつける。

 万策尽きたと言っても過言ではない状況だった。


 雨脚は収まらない。

 篠を突く雨が地面を打擲し、跳ね返った飛沫が視界を白く染め上げる。


 息が整ったところで立ち上がろうと試みるも、再び足を滑らせて転けてしまう。


 事態は一刻を争うと言うのに、足が言うことを聞いてくれない。


「……老いには勝てないなんて、そんなダサい言い訳できるかよ……っ!」


 それでも体を酷使しようと上半身を起こしたところで、偶然、山が目に入った。


 山。


 言霊神社。


 そして、その深奥にたたずんでいるのは……。


「摂社……」


 そこは結月に連れられて訪れた場所。


 彼女と秘密を共有した日に訪れた場所。

 

『にっちもさっちもいかなくなったら結月ちゃんとの会話を思い出して。

 きっと城崎さんなら、彼女の居場所がわかるはずだから』


「……そういうことか」


 紗英のアドバイスはきっとこの瞬間を見越してのもの。


 つまりは、摂社で結月と交わした会話を思い出せということ。


「毎日祈るのが理想なんだっけ」


 大雨に見舞われようが、豪雪に見舞われようが、きっと彼女は日課を崩さない。


 贖罪が終わるその日まで。


「まったく、ケースバイケースという言葉を知らないのかあの子は」


 一分にも満たない休養だったけど、足は少しだけ回復してくれた。


 神様、どうかあの子を守ってください。


 都合のいい時だけ神様に頼って、なんて節操のない人間なんだろう僕は。


 情けない奴だと貶されてもいい。

 今後、僕の願いがことごとく潰れても構わない。


 だから、どうかこの願いだけは……。


 1ヶ月ぶりに、僕は心の底から神頼みした。


               × × ×


 草木の散乱する道を歩き続け、山の入り口に差しかかる。


「これはまた……」


 予期していたものの、いざ実際にその惨状を目にすると言葉を失ってしまう。


 小径の中央を小川のように泥水が流れ、左右に広がる森林には幾度か土石流が生じた形跡がある。

 幹の細い木々は折れて横たわり、幹の太い木々だけが逞しく屹立している。


 山頂に向かう途中で土石流が起きてもおかしくない。

 そうなれば無傷とはいかないだろう。まぁ、現段階で既に無傷ではないのだけど。


「持ってくれよ僕の足」


 ぱちんと太ももを叩き、ヘドロを強く踏みしめる。


 慎重に行かなくてはという安定志向と、早く行かないと結月が危ないという焦燥感が入り乱れるが、迷うことなく後者を優先することにする。


 多少の危険は顧みず、ずかずかと歩く。

 幸い、靴底に纏わりつく泥のおかげで滑る可能性が緩和されていた。


 摩天楼にも負けず劣らずの大樹の葉が雨を遮ってくれるおかげで、幸運にも視界は開けている。

 変わり果てた森林の姿を横目に摂社を目指す。


 5分ほど歩き、言霊神社に到着する。


「……こっちだったかな」


 難関なのはこれからだ。

 なにしろ摂社までの道のりが複雑なのに対し、僕はたった一度しか足を踏み入れていないのだから。


 確か茂みを通過した先にあったはずだけど、怖いなぁ、足が宙を切って真っ逆さま、なんて事態も起こりえるのが自然の恐ろしさ。


 人為的な改良で安心安全が保証された道路と違い、山道は気象に伴って変化する。

 風化や浸食、自然は様々な原因で姿を変える。


 おっかなびっくりしながら一歩、また一歩と茂みに足を埋めていると、目の前を白い燐光が横切った。


「……なんだ今の?」


 蛍でも蝶でもない。

 というより、輪郭がなかったような……見間違えかも知れないけど。


 と、発光するなにかが再び僕の前を横切った。

 やはり輪郭はぼやけていて確認できなかった。


 発光体は僕の進行していた方角からやや左に逸れた方角へ飛んでいくと、まるで僕が追いつくのを待つかのように梢の上で静止した。


「……まぁ猫の手も借りたい状況だし」


 不可思議な発光体のナビゲート? に従うことにする。


 見覚えがあるようなないような、そんな景色が連続して続き、いつかのように神隠しに遭っているかのような感覚を覚える。

 実際、神域と言っても差し支えない場所だから常軌を逸したオーラが充満しているのかも知れない。


 とすれば、あの発光体は神様の差し金的な何か? 


 なんて、都合のいいように解釈しすぎかな。


 しかし、そんな希望的観測の信憑性を裏付けるように、発光体は迷わず一直線に飛んでいく。


 本当にナビゲートしているのではないだろうか。


 発光体が通過した道は、すべて僕の、つまりは人間が歩くことのできる道だ。

 横には崖が広がっているのに、発光体は一向にそちらに飛ぼうとしない。


 そんな神秘的で摩訶不思議な現象を前に、狐に抓まれたような心境で歩き続けていると、いつの間にか開けた場所に出ていた。


 直進した先に見えるのは、見覚えのある摂社とひとり分の人影。


「結月っ!」


 摂社の前で両手を合わせていた人影が振り返る。


 結月だ。


 僕の姿を確認すると、結月は驚愕したように大きく目を見開いた。


「……どうして」

「動かないで! いつ足場が崩れてもおかしくない!」


 大雨の影響か、元々狭かった摂社までの道はふたり並んで歩くことができないほど縮小している。


 摂社を囲うように円上に広がる地に繋がる道はこの一点のみ。

 仮に崩れでもしたら、結月は断崖絶壁の地にひとり残されることになってしまう。


 慎重に慎重に。

 足音を殺し、優しく地面を踏みしめる。


 足を踏み外さないか、途中で崩落したりしないか。

 最悪の可能性が頭をもたげ呼吸が荒くなる。


「近づかないで!」

「うぉっ!?」


 もうすぐ折り返し地点というところで、突如結月が金切り声をあげた。


「びっくりしたぁ……。無茶言わないでよ。ここから引き返せって言うの?」


 とてもじゃないが怖くてできない。

 僕には既に、前に進む以外の選択肢がなかった。


「どうして……なの? 晃丞さんは、わたしの意志を尊重してくれるんだよね?」


 微塵の希望も感じさせないくすんだ瞳。


 感情を失ったようなその瞳には見覚えがあった。


「どうして邪魔するの? ねぇ、どうして? 尊重するってことは、妨害しないってことだよね? 約束したよね? ねぇ、どうしてなの?」


 異論は認めないとばかりに、結月は早口でまくし立てる。


 最悪のタイミングだ。

 いつか来るだろうと予期していた結月の自我の崩壊が、たった今始まってしまったらしい。


「落ち着いて結月。愚痴でもなんでも後でいくらでも聞くから今は……」

「違うの」


 先ほどの荒ぶりようとは打って変わった落ち着いた声が、僕の言葉を遮る。


「晃丞さんはなにも悪くない。わたしを助けに来てくれた。

 危険を冒してまで、わたしを選んでくれた。

 わたしがわたしを否定したことを、晃丞さんだけは否定しなかった」


 だから、と結月は力なく微笑む。


「これから起こることは、ただの事故なの」


 その直後――結月は崖から飛び降りた。


「結月~~っ!」


 彼女を追って、僕は崖底に飛び降りる。


 恐怖はあった。

 でもそれは、大切なひとをまた救えないことに対しての恐怖だ。


 すかさず行動を起こしたからだろう。宙を切っていた手が結月の腕を掴む。


 彼女の体を引き寄せて、自分が下敷きになる体勢をとる。

 実際、人間がクッション代わりになるのかはわからないけど、こうすれば少しは結月の生存確率が上がるのだと信じたい。


「なんで……なの」


 風を切る音に紛れて声がした。


「わたしなんかほっとけばいいじゃん。価値のないわたしのために、これからたくさんのひとを救う晃丞さんが命を投げ出すなんて……意味が分からないよ」


 相当に高い地点から落下したからか、あるいは走馬灯的ななにかか、なかなか衝撃は襲って来ない。時間がゆっくり流れているように感じる。


「損なわれていい命なんてない。命の価値は等しく平等だよ」


 結月を抱き締める腕に力を込める。

 僕の想いが少しでも深く伝わるように。


「君の明るさに僕は何度も救われた。

 ありがとう結月。僕にとって君は大切な恩人だよ」


〝ガサガサガサ〟


 枝が服を貫き、皮膚を裂いて、骨を刺激する。


 味わったことのない激痛に気を失いそうになりながらも、腕に込めた力だけは緩めない。結月の頭部と腰に当てた手を強く内側に引き寄せる。


 やがて落下が収まり、直後、なにかが砕けた音となにかが弾けた感覚がした。


「かっ……」


 呼吸ができない。

 肺が潰れたのだろう。


 手足の感覚がない。

 脊髄を損傷したのだろう。


 痛覚を感じない。

 とっくに麻痺しているのだろう。


 ……でも。


 かろうじて、聴覚と視覚だけは生きていた。


 だから、僕は。


「……さん! 晃丞さん!」


 泣きじゃくる結月を見て。

 泣きじゃくる余裕があるほどに元気な結月を見て。


 あぁ犬死にではないんだなって、安心することができた。

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