1章 彼女は祈る。贖罪を求めて。
幕間①-1 ひとりぼっちの慰安旅行
『本船はまもなく
長らくのご乗船お疲れ様でした』
「むぅ?」
27歳にして初めて乗船したフェリーは心地良く、いつの間にか居眠りしてしまっていたらしい。
首を傾けて窓の外を見ると、一面エメラルドグリーンの海が広がっていた。
水面に反射する太陽の光が、起き抜けの瞳をちりちりと焼きつける。
眩しさから逃れるように視線を下に下げると、居眠り前まで暇つぶしに読んでいたパンフレットが目に入った。
伝えきれなかった想いありませんか?
8月15日
コンパクトな小見出しに、島民が輪を作り、夜空に立ち上る白煙を見上げる写真がレイアウトされた表紙。
今日は8月2日だから、開催まで残り二週間ほどだ。
言霊祭は、加麻鳥島で催される、全国にも名の知れた祭りだ。
故人に生前伝えきれなかった想いを手紙に綴り、燃やしてできた煙を黄泉の国に届けることで、返事が戻って来ると言い伝えられている。
その物珍しい伝承は多くのひとの興味をそそり、毎年夏場には多くの旅客が加麻鳥島に押しかける。旅客の大半は、直近で不幸に見舞われたひとだそうだ。
不思議なことに、この伝承を眉唾物と疑う者は少なく、実際、奇跡的な体験をしたと語るひとは後を絶たない。
ネットで調べたところ、否定的な意見はほとんど散見されなかった。
「……はぁ」
くだらない。
一説では、遺族の思い込みによる幻覚のようなものだと言われているが、僕もその説を肯定している。
普通に生きている限り、死者の声を聞くことはできない。
僕みたいな特例はともかく、同じ境地に至ったひとがそれほど多くいるとは思えない。
汽笛を鳴らし、フェリーが止まる。
『本船は加麻鳥港にただいま着岸いたしました。
係員の指示に従い、足下にお気をつけて下船ください』
周囲の乗客が忙しく下船準備を始める。
僕はズボンのポケットから上司に渡された手紙を取り出し、パンフレットをショルダーバッグにしまって席を立った。
すると、あたふたと狼狽する年配女性の姿が目に入った。
なにか探してるのだろうか。人波から外れて女性に声をかける。
「どうかされましたか?」
肩をぴくっと震わせて、女性が振り返る。
「あぁ、えっと、孫から貰ったキーホルダーを落としちゃったみたいで……。
乗船するときは鞄についてたんだけどなぁ」
困ったように笑っている。
人間誰しも、困っているときほど困っていると伝えられないのだ。
「どんな形状のキーホルダーですか?」
「えっと、こう、二匹のイルカがハートを作ってるキーホルダーだけど……
お兄さん、探してくれるのかい?」
「ええ、ふたりで探した方が効率的でしょう?」
「ありがとうございます。後でどんな恩返しをすれば……」
「恩返しだなんてそんな。
それに気が早いですよ。まずはキーホルダーを見つけましょう」
行動を起こし、言葉を紡ぐまでに、迷いなんて一瞬たりとも生じなかった。
理由なんて、考える間でもない。
『困ってる人を助けるのは当然のことでしょ?』
ひととしてあたりまえのことだから。
特別なことなんて、なにもしていない。
もっとも、はじめからあたりまえであったわけではないのだけど。
その後、一分と経たずしてキーホルダーは見つかった。
どうやら他の乗客が落とし物として届けていたようで、係員の人に下船が遅れる旨を説明すると同時に目的は達成された。
二匹のイルカがハート形を作ったキーホルダー。
恐らく、お孫さんが校外学習やら家族旅行やらに際して買ったものなのだろう。
そんな根も葉もない憶測を立てながらキーホルダーを手渡すと、女性は安堵の息を漏らし喜色を湛えた。
「ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」
「いえいえ、僕はなにもしてませんよ」
掛け値なしになにもしていない。
女性は柔和に微笑みながら、何度も頭を下げてくる。
「それでも、あなたがいなければ孫からのプレゼントは見つけられなかったと思います。改めて、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
堂々巡りしても困るので、謝辞を受け入れることにする。
大したこともしていないのに頭を下げられるのは不本意なんだけど。
「それでお礼なんですが」
勘弁してほしい。
気づけば無意識に舌が回っていた。
「とんでもない。貴婦人の笑顔だけで十分対価に見合ってますよ」
「あら、お上手」
恐るべきコンパアビリティ。
あの肩身の狭い飲み会が、まさかこんな形で生きようとは。
「では、人を待たせているので僕はこれで。
今後は落とさないよう、お気を付けて」
足早に下船して船着場に向かうと、僕と女性を除いた乗客の姿は既になくて。
佇むのはただひとり。タンクトップ姿の屈強な男性のみ。
おそらく彼が僕の案内人だ。
「こんにちは、城崎晃丞です。あなたが
上司からの手紙に書かれた情報はひとつだけ。
『加麻鳥島に着いたら、豊永という角刈りでがたいのいい男の指示に従え』
後は完治するまで帰って来るな、と。
温かいと捉えるべきか、冷たいと捉えるべきか、判断に迷う言葉が書き添えられていた。異常なんてないんだけどなぁ。
手紙に書かれた通りの容姿の男性は、僕の問いかけに大きく首を縦に振った。
たくましい体つきをしているからか、所作のひとつひとつが大きく感じる。
「おうとも。俺が
加野さんとは、僕をこの島に送り出した張本人で、僕の上司のことである。
僕と大差ない年齢なのではないだろうか。
そ う思ってしまうほどに若々しい容姿をしているが、加野さんの親友ということは、実年齢は40を越しているのだろう。全然そうは見えないけど。
「みんな大袈裟なんですよ。別に僕は、慰安旅行なんか所望してないのに」
加野さんは慰安旅行ではなく、慰安療法だなんて得意気に言ってたけど。
そもそも、慰安旅行に行けるほど職場にゆとりはないし。
「自分の心の不調には、誰だって気づけないもんだ。
城崎さん、あんた自分の顔を鏡で確認したことあるかい?」
捌けたひとだ。
初対面にもかかわらず、ぐいぐい距離を詰めてくる。
「毎朝洗顔するときに見てますけど」
「なのに違和感を覚えないってこたぁ、その状態に慣れちまったってことさ。相変わらず、加野は目聡いな。危うく、手遅れになるところだったんじゃないか?」
ひとりで言って、ひとりで納得したように頷いている。
「あの、言ってることがさっぱりなんですが」
「まぁ、積もる話もなんとやらってやつだ。
とりあえずバンに乗りな。話は宿に向かいながらでもできる」
「はぁ」
一方通行の会話に若干の苦手意識を覚えながらも、そんなことはおくびにも出さずに、指示通りバンに乗り込む。
僕が後部座席に座ったことをバックミラーで確認すると、豊永さんはエンジンをかけてUターンしはじめた。
宿泊宿はどんな外装をしているのだろうか。事前情報は一切ない。
加麻鳥島には電車もタクシーもない。旅客は今の僕のように、島民の車に乗って宿に届けられる。そもそもこの島には、車すらも限られた数しかないのだ。
窓の外の風光明媚な外観は圧巻だ。
海に森に草葺きの家。
同じ日本のはずなのに、まるでここは別世界のようだ。
摩天楼は大木に、騒音は風音に、車はカブに。
都会での常識が、この島では非常識だ。
何しろコンビニすらなく、生活は基本、自給自足で成り立っているのだから。
都心から遠く離れた孤島。
飛行機とフェリーを乗り継いでやっとたどりついた、本土から離れた場所にある孤島――加麻鳥島。
上司命令で突如決行された、滞在日数未定の慰安旅行ないしは慰安療法。
今日から僕は、石器時代に遡行したようなこの場所で過ごしていくことになるらしい。
……1年前に予定が組まれていれば、心の底から楽しめたのかな。
目が潤んだのは、きっと潮風が目に染みたせいだ。
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