side 杏里 真実
昼下がりになると、もう扇風機だけじゃ耐えられない暑さになってきた。そうだというのに、この温暖化のご時世、あたしの家にはエアコンがない。いくら幽霊だからって配慮に欠けるだろう。一体今の気温が何度だと、蟬だってどんだけ鳴いてると思ってるんだ。もう八月も十七日だってのに!
とはいえ、文句を言ってもどうにかなるわけでもなく。あたしは仕方ないから、昨日の――あのショッピングモールでの出来事を思い出す他ない。
よいしょ、と声を出してベッドから立ち上がる。昼寝から起きたばかりだ。
机の上に広げられたままのペンダントと、神様がくれたってことでミコトと名付けた、兎のぬいぐるみ――。
ミコトを撫でて、少し、笑ってしまった。
「あたしは」
声に出してみる。
「あたしを知りたい――」
去年の三学期からしか記憶がない。その向こうで、あたしに何があったのか。蓮水くんがあたしを疑う理由になりうる、何かが、あるのなら。
あたしはそれを、知らなきゃいけないような気がする。
アリスと、鏡――。
「行こう」
決心を、言葉にしていた。
手鏡を握り、少しだけ髪を整えて、その中に入る。
遠ざかっていく光を見て、鏡の中ってトンネルみたいだななんて関係のないことが思い浮かんだ。
今回は失敗――つまり転落したりせずにマンションから出られたと思う。落ち着いて部屋の扉の方に倒れたら大丈夫だった。手鏡もあたしと同じようにものをすり抜けるから、そのままあたしのポケットに入っている。あたしは部屋の扉をすり抜けて階段を降り、海に繋がる道を歩いていく。他にこれといって行きたいところがあるわけでもなかった。この世界について調べなきゃ、とは思うんだけど、どうやって調べたら良いのかわかんないし。声をかけても気付かれないか、異様に怖がられるかのどちらかだろうし。
すれ違う人はいないけれど、足元には幾つもの車の影が流れていった。どうせ車だってすり抜けてしまうんだから、あたしは足を止めることなく砂浜に下りる。
海に着いたとはいえ、あんまり人には近づきたくない。あたしは少し奥の方にある森の方へと歩いて行った。危険視されている森だから、人は少ない。何となく片足だけ靴を脱いで、海の中にひたしてみた。
――濡れない。
実体がないからかな。波は、あたしの足をすり抜けて泡になる。
「……杏里ちゃん?」
ふっと、呼ばれた。
あたしが見えてる、ってことは、つまり――。
振り返ると、あんまり意識してなかった人たちが、そこに立っていた。
「……相沢さんと、河井さん」
二人が戸惑ったように曖昧な笑みを浮かべる。
「っど、どうかした?」
言ってから、猛烈に反省した。
だって、どうしたもこうしたもない。死んだはずの人間がいるんだから、異常に決まってる。
「えっと、あたし」
自分を指差す。
「あの……」
「杏里ちゃん、でしょ」
河井さんが言った。
「……怖くないの?」
「だってさ、杏里ちゃんにも事情があるんでしょ」
相沢さんだ。――……あれ、この二人って、あたしのこと杏里ちゃんなんて呼んでくれてたっけ?ほとんど接点もないのに。
だけど、とあたしは思い直す。今はとにかく情報が必要だ。おかしく思われても聞き出さないと。
「あのね……ちょっと、幾つか訊きたいことがあるんだけど、良いかな」
「うん」
話しながら靴を履く。いやに静かな中に、波の音だけが煩く響いている。
「相沢さんと河井さん、この前会ったとき……」
「優子でいいよ」
「私も、岬で」
「……優子と岬、この前会ったときに美来のことについてなにか言ってたでしょ。あれ、もう少し詳しく教えてくれませんか?――あたしのことも、杏里、でいいから」
強めに風が吹いた。あたしは静かに深呼吸する。「……詳しく……って言われてもねえ、岬」
「そうだね。私達が知らされたのも、車の事故に巻き込まれました、ってことだけだったから。……確か、花野さんのときもそうだったよね?」
「ああ、そうだった」
「え――」あたしは思わずぴくりとする。
「……一応、それについても教えてくれない?」
「ああ……いいよ」
優子が話を切り出す。
「花野さんのときは、何か電車の事故だったって。電車の誤作動だったとか、誰かに突き飛ばされたとか、不慮の事故だとか――とにかくたっくさん噂が流れて、皆しっちゃかめっちゃかになったのよ。だから、本当のことが何だったのかは誰も知らない。当事者以外は。――それがどうかした?」
耳を疑った。昨日の夢が蘇る。
あたし――なんで、そのことを知ってたの?
「あ、そろそろ時間だ」
岬の声で引き戻される。
「あー―ごめんね、ふたりとも。時間とったでしょ」
「ううん、大丈夫」
それじゃあ、と言って二人は去って行こうとする。あまりに呆気なくて、何となく拍子抜けした気分になる。……幽霊に会ってるのに、こんなに落ち着いた対応って……いや、これが普通なの?
そのとき、あたしははハッと大切なことを思い出した。
「あ――あのさ!」
岬が先に振り返る。少し歩いてから、優子とも目が合った。
「あの、今日って、何年か分かる?」
少し変な質問だったかもしれない。優子が訝しげにあたしを見てから、西暦を言ってくれた。
「――え?」
「だから、――年の、八月十七日だって」
愕然とする。これまで見ていた世界が、まるごとひっくり返ったように見えた。――嘘だ。
「あ、あり、がと。それじゃあね」
ああ、前と同じだ。前もあたし、こうやって言い逃げしてた気がする。とにかく、頭の中のこれまでの情報が一度にとっちらかっている。
気付かないうちに、あたしは砂浜の外まで走り出していた。
――だって、と、あたしは心のなかで言葉を無意識にぽこんと浮かべている。泣き出しそうになるくらい。
――だって、だって。
元の世界とここは、同じ日付だったんだから。
それはつまり。
鏡の世界が――未来じゃないってことだ。
ズボンのポケットから手鏡を取り出す。
あたしが映らない鏡面を見ながら、あたしは瞬間的に思い浮かんだ言葉を口にする。
「鏡の中と、元の世界は――
パラレルワールド。
並行世界。
同じようで、少しずつ違う世界。
日付は同じなのに、その状況が少しずつ違うこの世界。
あたしはずっと、この世界のことを未来だと思っていた。
だから、美来を助けられると思ってた。
それ、なのに――
「防げる訳ないじゃん……っ」
自分の無力さに泣きたくなる。どうしたって、こっちの美来が死んでしまっていることに変わりはないんだ。
とにかく、頭の中がまとまらないまま、鏡面に手を付けた。
アリス。あなたは、きっと何かを知ってる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます