side 美来 海その2

 海から吹いてきた風に、思わず身を震わせた。蓮水は私から目をそらさない。海風に髪を揺らし、蓮水はそっと口を開いた。

「ごめんね、急にこんなこと言って。驚いたでしょ」

 思ったより、蓮水は罪悪感めいた感情の滲む眼をしていた。私は私が解らない。そんなに恐ろしいものなのだろうか。

 と言うよりも、何故、蓮水はそれを知っているのか?

 いけない。また、自分の中で考え込んでしまっている。気を取り直して当たり障りのないような質問をしてみた。

「……あの、私について知っていること、全部、言ってくれませんか?」

 蓮水がふっと気の抜けたみたいな笑みを漏らす。

「……少しくらい知らないことがあったほうが、世界は上手く回ると思うよ」

「……?」

 真意が掴めなくて、私は小さく瞬きした。

 蓮水はどこか優しく笑う。

「全ては、まだ、言えない。神木さんが記憶を取り戻すまではね。……傷つくかもしれないことなんて、どこにでも転がってるんだから」

「……私は……」

「それでも、大丈夫?」

 猫のように目を細めた。ああこの人ってやっぱり美形なんだなとか、関係のないことばかりが頭の中を埋め尽くして、すぐには答えられなかった。

 ……大丈夫。私は、神様。

「……いいです、教えて」

 蓮水が頷いた。

「まずは、神木さんが神様、ってこと」

「……そうです」

「高校生になる前の記憶がない」

「はい」

「触れた生き物は殺してしまう」

「……はい」

「託宣を聞ける」

「――その通りです」

 どうして。

 どうして、普通の人間のはずの蓮水が、こんなに詳しく――?

「最後に、一つ」

「はい」

 蓮水は、一つ大きく息を吸った。

「――この前助けてくれたとき、本当は、僕は死ぬはずだった」

 そして、躊躇わず、そう言ったのだ。

「……、は、い……」

 迂闊にも、そう答えてしまった。

 息を吐く。ほぼやけっぱちだ。怒るなら怒ればいい。私の本心まで知っているのなら。

「……だと思った」

 柔らかい声に顔を上げる。一つ強い風が吹いた。

 声が詰まって、何も言えない。渦巻く気持ちに名前を付けられない。

 そんな私すら見抜いたのか、蓮水はふっと笑った。

「――嬉しかった」

 思わずぽかんと口を開けてしまった。慌てて手で口を覆う。

「へ……?」

 馬鹿みたいな声が出て少し恥ずかしくなった。

「……怒らないんですか?」

小さく呟いてみる。蓮水は机の上の麦茶を一口飲むと、諦めにも似た笑みを浮かべた。

「怒ると、思える?」

 何を考えているのか、分からない。

 なんとなく、この人は風みたいだと思った。存在は誰にでも分かるのに実態がないような。核心に触れることも覚束ない。

「それでも、助けてくれたでしょ」

「でも……」

「僕には多分、無理だった」

 蓮水はそれでも微笑んでいる。

「ありがとう、神木さん」

「なに、言ってるんですか……」

 半分くらい怒りが滲んでしまった。感謝に対する感謝の言葉なんかではない。

「私なんて」

 役目も失った私に、感謝などしてほしくはなかった。それに、あんなの――

 人間じゃないことを二重に知らされたみたいなものだ。ただ、苦しいだけ。これ以上どうもしたくない。

「神木さん」

 ふっと蓮水が私を呼んだ。

「それについては、もう大丈夫。他に訊きたいことは?」

 いとも簡単に話題が変わってしまう。どちらにしても私は、会話が下手だとつくづく思う。

「……蓮水はどうして、私のことについて知ってるんですか」

 一息に言って、私は蓮水を祈るように見つめた。

「――ごめん。僕はまだ、それを言えない。君の記憶が戻らない限り」

 ふっと息を吐く。想像通りだった。

「なら、蓮水」

 蓮水が顔を上げ、目が合った。最初から訊こうと思っていた一言を口に出す。

「私の憶えていないことまで知っているならば、私が何者なのかも知っていますか」

 もう私はきっと、神様ではないだろうから。

「傷つかないなら」

 小さく頷く。こめかみに汗がつぅと流れた。

「世界が上手くいくようにするための、システム。その一部――とだけ言っておこうかな」

 もう一度深く息を吐いた。蝉の鳴く声が遠くに聞こえた。

「もしも君が記憶を取り戻したいのなら、」

 蓮水の眼を見ていた。私よりもずっとを知っているのに、私には到底真似することのできない真っ直ぐな瞳。殆ど感情なんてなかったと思う。頭の奥がじんじんと疼いている。

「僕が、手伝ってあげたいんだ」

 ピントが、蓮水に合った。

 真面目な顔でも笑った顔でもなく、曖昧な、無表情だった。

 ――触れたら壊れる、陶器みたい。

「……どういうこと」

 深く考えずに声を発した。思い返して気付く――多分、確かめたかったんだ。

「君にその気があるなら、一緒に記憶を辿らせてほしい」

 そう言い、蓮水は穏やかに笑った。

 胸を――衝かれた気がする。

 媚びるような、わざとらしい優しさの影が、蓮水には見えなかったからだ。

 そうか。納得が勢いよく落ちてくる。

 こういう人も、いてくれるのだ。

 ……だけど、私の記憶を深く追求することに、意味はあるのだろうか。

「私は――」

 それでも、私にしては珍しく、興味があったのだ。杏里に思ったのと同じような気持ち。

 

 この人の生き方を、知ってみたい。


 杏里の場合は、自殺する理由だけれど。蓮水はもうどうなろうと、生きているのだ。

 私が、生かしたのだから。

「――本当のことを、知りたい」

 蓮水がそっと笑う。私は言ったあとで恥ずかしくなってきて、すぐに目を伏せた。任せて、と蓮水が言うので、私も今できる全力で微笑んでみせる。

「蓮水、もう一つ訊いていいですか」

「なに」

「どうして、私に……そこまで」

 これだけは素直に分からなかった。

 瞬きをして託宣に耳を澄ませる。やはり、蓮水についての事柄は教えてくれない。

 だから、どうしても、行動がわからないのだ。

「どうしてって、それは」

 蓮水が面白そうに笑う。一体何が面白いんだか。

「神木さんのことが、好きだからに決まってるでしょ?」

 瞬間、私の頬はかあっと熱くなった。

「……何を言い出すかと思えばっ」

 蓮水が声を上げて笑う。どこかで飛行機の音がした。

 言葉が、耳の奥に残って、じんじんと甘く響いている。

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