side 杏里 幽霊

 美来へ。

 なにか悩みがあれば、話してください。

 あたしはそんな文章を打って、やっぱり全部削除してしまった。2日ほどずっと悩んでいるけれど、未だに送れないでいる。

 美来に宛てた、メールを。

 そもそもまだあんまり仲良くないんだ。逆に怪しまれたらもっと嫌だし……。

 結局、迷いに迷ってメールは送れなかった。

 画面を消してズボンのポケットにスマホを入れておく。では、身につけているものしか持ったり触ったりできないみたいなんだ。

 ――今から、鏡の向こう側へ行くんだ。それ相応の準備くらいはしておかないと。

 簡単に三つくらい、向こうで調べたいこともまとめておいた。

 まずは……美来が死ぬ理由。それから、向こうが一体どれくらい先の未来なのか。

 そして、なんであたしが鏡を通れるのか――この三つ。

 よし――計画は以上。

 行かないと。

 もう一方のポケットから手鏡を取り出す。

 手のひらを鏡の中に押し込めば、ふっと膜を破るような感覚がして、あたしは暗闇の中を落ちていった。

 不思議と、前よりも平然とした気分だった。もしかすると、童話のあの子も同じだったのかもしれないな。


「――っうわ!」

 あたしはつんのめって、壁に激突しかける。

 ……いや、違うや。壁に、手をつこうとしたんだけど……

「――あああああ!」

 そうだった……あたし、物をすり抜けるんだった。壁をすり抜けたんだ!

 つまり、あたしはマンションの二階から落ちるということで……!

「うわあああっ」

 転落防止柵すらすり抜けて、あたしは真っ逆さまに落ちる――⁉

 ふっと、時間が緩んだ気がした。


 ――あたしは落ちて――


 警笛が――甲高く鳴り響く――?


 時が加速した。

 ぶつかる――目を閉じた瞬間、あたしの下にふわりと、小さな風が通り抜けた。

「……あれ……」

 痛く、ない?

 墜落したところで、音もなんにもしなかった。周りを見回す。見慣れた日常が、あたしを残して動き回っていた。

 それに……墜落して、路上に座り込んだままのあたしを、誰も見てない。

 えっと……普通、周りの人ってこんなに冷たいものだっけ?マンションに二階から落ちてきたんだよ?……まあ、傷一つないあたしもおかしいんだろうけど。

 そこではたと思い至った。

 もしかして、幽霊のあたしが、見えていないの?

「それはない……よね」

 だってこの前、相沢さんたちに話しかけられたから。……まさか、霊感のある人しかあたしを認識できないとか?相沢さんに霊感があるなんて話は聞かないけど。

 暫くそのままでいたけれど、あたしは立ち上がった。

 ポケットに手を入れる。スマホも鏡も入ったままだった。ただ、スマホの画面に指を滑らせても反応がない。どうやら操作はできないみたいだ。……まったく、触れるものの線引がわかんないな。

 仕方ない、とにかく調査に向かおう。

 あたしは歩き出す。自然と、足は学校へ向かった。


 バスでもあたしは相手にされなかった。

 定期券を持つこともできなくて、その上お金に触れることも叶わないから、乗りもできずに突っ立っていたんだ。そうしたら、あたしに目もくれず発車して。慌ててバスのドアをすり抜けて乗り込んだのに、誰も彼も反応なしときたもんだ。乗ったのにバスの壁をすり抜けたりしなかったのは良かったけど……あたしは多分、足がくっついていればバスにも乗り込んだことになるらしい。乗った!と思い込めば良いのかもしれない。

 あああ、本当に、これが未来ならどうしたらいいんだろう?バスにすらいちいち意識して乗り込まなきゃいけないなんて面倒にもほどがある。防ぎ方も調べておきたいくらいだ。

 ……だけど、あたしは実際、んだろうな。


 校門の鍵は掛かっていなかったけれど、扉は閉まっていた。すり抜けてしまえるのはこういうときにちょっと楽かもしれない。どうせ誰も見てないんだし――

「あ、君」

 ふっと、声を掛けられた。

「え――」

「門、ぶつかりますよ」

 ぴたり、と足を止めてしまった。

「あ……どうも」

 一つ礼をしたのは、守衛さんだった。仲が良い……てわけじゃないけど、顔は知っている。毎朝挨拶する、優しそうなおじさんだ。

 わざわざ門を開けてくれたので、あたしは戸惑いながらも学校に入った。

 守衛さんには――あたしが見えてるんだ。

 校門から校舎までの道が揺らめく。陽炎かな。こっちも季節は夏らしい。

 そういえば、あたしは私服だった。そんなに派手じゃないから守衛さんも見逃してくれたんだろう。思い返せば、あの人はそんな人だった。

 靴箱に着くと、同じクラスの男子とすれ違った。彼はあたしを見た瞬間びくっと固まったから、多分あたしが見えているんだろう。……にしても、なんであたしを見ただけで固まるんだ。あたし何かしたっけ?この前から皆あたしにびっくりし過ぎだと思う。今じゃなくて、未来で何かしでかしたのかもな……今では少し行いを改めたほうがいいかな。

 まあいいや、とあたしはそのまま廊下を進む。どうせ靴も履き替えられないので無視だ。

 扉にぶつかりかけて、立ち止まらなくてよかったのに、と思い返す。扉の上についたプレートを確認した。二年一組――

 あたしのクラスだ。

 日々の癖でここに来てしまったみたいだ。窓から覗いた教室には誰もいなかった。

 深呼吸。ここで調べたいことはないけど、ちょっと入ってみようかな。

 扉を潜り抜ける。遠くで運動部の掛け声が響いていた。

 何人かの机に、運動部用の鞄が乱雑に置かれている。静謐な沈黙が、しずかに流れていた。

「……え」

 自分の席に向かう足が、止まる。あたしの心を見透かして、欺いてくるような透明な壁――。

「あたしの席……?」

 お気に入りだった、窓際端っこの席が、ない。

 見えない穴に呑み込まれたみたい――に、見えた。そもそもがないんだ。余った机も椅子もない。

 ふいに物音がした。はっとして振り返ると、同じクラスの女子が立っている。

「え――」

 多分、あたしも同じような顔をしているんだろうな。

 彼女の頬がさっと蒼くなる。……怖がってるんだ、目がそう言ってる。

 目を合わせたまま、彼女は小さな悲鳴を上げた。

「あの……」

 声を出してみると、彼女はびくっと震える。あまりの反応に、もう何だか笑いたくなってしまった。

 彼女はあたしを見つめたままじりじりと後ずさる。目を離せば呪われるみたいにあたしを睨みつけると、そのまま、教室を走って出ていってしまった。

「あ、先輩!予備のラケットありましたー?……って、大丈夫ですか⁉」

 聞いたことのない声が言った。……さっきの女子の後輩かな。あの女子は、あたしが見えるんだろう。それであんなにびっくりされちゃ困るけど。

 思ったよりも頭が冷えていた。あれあたし前にもこんな事あったっけと、立ち竦んだまま頭の何処かが思う。

 さっと、見知らぬ女の子が入ってきた。

「……人なんて、いる?」

 彼女はそう首を傾げる。カッと胸の奥で火花が散った。

 そんなの、あんまりだ。

「ねえ」

 あたしは声を、出してみせる。

「見えてないの?」

「先輩ー?何もいませんでしたよー?」

 言葉が凍りついた。彼女は無邪気に声を上げると、卓球用のラケットを手に走り去っていく。

 冷たい理解が染み込んでくる。ぼんやりと聞こえる、囁き声を取り込んでいくのを止められない。

桐原きりはらちゃん、――知らないの?」

「知りませんよ、先輩。そんな人の噂……」

 大きくなって白兎の家に詰まったアリスの気分だった。こっちはどうにもならないのに、外では白兎も蜥蜴もあたしの噂話をするんだ。

 それでも、あたしはアリスじゃない。ただ虚しくなるだけで、言い返すなんてできやしないんだ。

「幽霊が出た……」

 胸が、抉れたような気分だった。

 抉れた穴を埋めたのは、感情のない理解だけだから。

 あたしは――

「あたしを知ってる人にしか、見えないんだ……」

 悲鳴が、蘇るみたいだった。


「……三十三、三十四、三十五。……三十五?」

 やっぱり、とあたしは一人頷く。

「席が一個、ない」

 あたしのクラス、三十六人いるはずなんだけど。

 あたし、もとからいないことになってるんだ。

 怯える自分を吐き出して、美来の机の方を向く。相変わらず、白い花束がことんと置かれていた。

 ……やっぱり、死んじゃったっていう美来は、……というか美来の席は、こうして無くされたわけじゃないんだ。花束を置かれて、残されている。

 それでも、あたしは……。

 黒板に貼られた名簿に目をやる。元の世界では、あたしは十六番なんだけど。

 あたしはここにも、いない。

 美来も含めて他の人では皆同じなのに、あたしだけ存在しないことになってるんだ。出席番号はあたしの分一つ繰り上げられ、机はそもそも置かれておらず。

 ああ、本当に、ここはいつなんだろう?

 幽霊として存在するのが嫌なくせに、こうして存在が無くなるのも嫌。あたしはあたしがしたいことが分からない。

 生きたい。生きられる訳がないけれど。だから解らないんだ。

 幽霊だとからって、ずっと怯えている意味もない。それでまたこうして調べているけれど、氷みたいな現実の輪郭をただはっきりさせただけだった。

 鏡の向こう――未来に、島田杏里という存在はいない。それだけ。

 救いなんて、見つからない。

 どうしたらいいのか、わからない――

 教室からふらふらと出ようとして、ふっと、気がついた。

 美来の席とはまた違った席に――

 花束がある。

 ぞっとした。あそこの席って……

「花野さん?」

 不登校の、花野香菜さんの席だ。

 あたしのクラスって、こんなに死んじゃう人がいるの?

 二つの花束を見詰める。

 花野さんの名前を見て、何故か、胸が疼いた。


 あたしみたいな奴の気持ちも知らないのに、なんでこんなに死ぬ人がいるんだろう。

 あたしはつま先で床をダンダンと叩きながら帰りのバスに乗っている。腹が立ってしょうがないよ。さっき、また試しに学校の四階から飛び降りてみたんだ。

 ……いや、飛び降りた、っていうのは正しくないな。また教室にクラスメイトがやってきてびっくりされて、こっちまで驚いたからその拍子に窓をすり抜けて落っこちただけだ。うん。それだけ。落ちた先でも皆あたしが見えないみたいで無反応だったから。

 結局、どうしたらいいのかわからなかった。この世界がいつなのか、なんて判りようがない。っていうか、美来は神様なんじゃないの?神様って死なないんじゃ?あたしにはそこら辺のことはよく分からないけれど。

 ――とにかく、なんとかしないと。

 こっちについてはあの、アリス、に訊いたほうが良かったかもしれない。半ばやけくそだ。でもあれアリスってどうやったら出てきてくれるのかなというかアリスって何者なの!……とか混乱しているうちに海が見えてきた。

 ああ――いっつもこんなタイミングだ。迸る光の波を眺めて、密かに深呼吸する。海が見えてきたらあたしの降りる停留所が近い合図である。

 例によって、どうせ降車ボタンを押そうがバスは停まってくれないので、頃合いを見て飛び出してみた。

 これって無賃乗車かな。でもあたし、人間って数えられないよね?

 ちょっとした罪悪感。何だかむしゃくしゃしてきた。ああもうやだ。どうせ誰にもあたしの声すら聞こえないんだから、本当に叫んでやりたい。

「あああ、もう、やだぁあっ!」

 空が青い。あまりの高さに目がくらむ。

 神様、人間、誰でもいい。

 あたしが何者か、教えてくれるだけでいいから。


 鏡をくぐり抜けると、ポケットの中のスマホが震えていた。

 慌ててポケットに手を突っ込む。ああ、ちゃんと、モノの感触があって、うっかり涙が出そうになった。

 メールだ。

 震える指で画面をタップする。送り主を見た瞬間、体中に冷たい驚愕が駆け巡った。

「――えっ?」


 神木美来

  杏里へ

 もし相談したいことがあれば、是非頼ってください。

 あと、良ければ、今度一緒にどこか行きませんか?

 

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