side 美来 鏡
ベッドに寝転がり、スマホの電源を入れる。アドレス帳を開いて、今日登録されたばかりの、唯一のメールアドレスを呼び出す。
――杏里のものだ。
無性に嬉しくて、それを何度か繰り返してしまう。……まずいな、私、変な奴だ。
人と話すときにふと流れる、微妙な戸惑いの空気が嫌だった。ふっと話すべき話題が消え失せて、あれ私は何をひたすら繋いでいるのだろう、と妙な戸惑いの沈黙が流れているとき。気の利いた一言なんて思い浮かぶはずがなくて、ただ無理に言いつのってしまうのと同じくらい空虚な気分になる一瞬。
「どうしてあたしに正体を言ったの?」――と言われたとき、私の頭は一瞬真っ白になった。
フェアじゃない、という理由もあるにはある。私だけが皆の未来を盗み見ていることは、少し申し訳なく思っている。誰だって、知られたくない未来くらいあるだろう。だけど。
どうして?どうしてって、それは当然、貴方の自殺を止めるために――そう、もしも今の時点で自殺を決意しているのなら、私が未来を知っているとわかれば、何らかの反応が返ってくると思ったのだ。どこまで知ってるの、とか、私はどうなるの、とか。ついでに脅しにもなると思った。私は貴方が自殺したがっているのを知っている、と。
だけど、普通の反応しか返ってこなかった。ただ驚いて、素直に信じてくれたみたいだった。
……ならば、まだ自殺を決めているわけではないのかな。
自殺を決める瞬間を見逃したくはない。人が怖い私にとっては大それた願いだけれど、それでも大きな一歩だと思う。
もう寝ようと目を瞑ったとき、不意にがたりと物音がした。はっとして起き上がり、振り向く。
「……っ」
目を疑った。
濃い藍の滲んだ深い黒の瞳と、目が合う。
少女がいた。
空色のワンピースの上に白いエプロンを纏う、艷やかな黒髪の少女――そうだ、まるで、アリスのような格好をした。
あの童話の、少女のように。
彼女は大きな姿見を背に、私をはっきりと見据えていた。その口元に笑みが浮かぶ。
「お初にお目にかかります、神様。――美来ちゃん」
不思議と、あまり動揺はしなかった。
ただ、どこかで冷たく、この人も知っているんだなと感じただけで。
「あら。美来ちゃん、驚かないんだね」
「……あなた……」
「私は、アリスと呼ばれているけれど?」
彼女が首を傾げた。
アリス。
格好からも、大体想像はつくが。
「そうではなくて」
私はそっと近づいてみる。アリスは、微動だにしない。
「貴方――私と、会ったことはない?」
うっすらと顔に見覚えがある気がしたのだ。
「あら。会ったこと、あるっけ?」
「多分あの時じゃない?私、一度美来ちゃんのところに行ったでしょ。美来ちゃん、気づいてたんじゃないの」
「それもそうね。とにかく、貴方は出しゃばらないの」
すうっと、姿見の中に映るアリスが揺れて動いた。軽く背筋が冷える。まさか――鏡の中の像と、この少女は話しているとでも言うのか?
「美来ちゃん」
アリスが私の名前を呼ぶ。
「美来で」
思わず口をついて出た言葉に、私は喉の奥がカッと熱くなるのが分かった。
「じゃあ、美来」
……喉の熱が呆気なく引いてゆく。彼女たちにとっては、きっと当たり前なんだろう。
「私が渡したあれ、まだ持ってるよね」
「……あれ?」
思い当たる節はない。代わりに、今になって平然としている自分に向かって不思議な気分が降ってきた。
「あら、渡してなかった?ペンダントだよ。貴方、机の奥に仕舞ったんじゃないかな」
どきりとして、私は机の引き出しを開く。
そうだった――杏里に声を掛けた日、私の部屋に青色の宝石がついた綺麗なペンダントが落ちていたのだ。身に覚えもなくて不気味だったから机の中に押し込んだのだ。
「これ……」
鎖を鳴らしながら私はそれを彼女に差し出す。
「ああ、それ」とアリスはこともなげに言った。
「それ、他の人に渡しちゃ駄目だよ。もうひとりのアリスのものだから。万が一にもないと思うけど、その人が判ったなら返してもいいけど」
「もうひとりの――アリス?」
「そう。異世界に行けるアリス。貴方は、未来を知るアリスでしょう?」
……アリス?私が?
うまく言葉を発せない。ああこれが混乱かと、私は途方に暮れるような気分になった。
「なんと言っても、今はほぼ異常事態だもんね。アリスが二人現れてもおかしくないでしょ」
「……異常、事態?」
何が何だかさっぱり解らない。
「ああ、まだ憶えてないんだね」
「まあ美来は託宣に従ってくれたらそれでいいよ」
びくりと肩を揺らしてしまった。また、違うようで同じ声がする。
この人は――……私の何を知って、こんな話をしているのか?
<アリス>?
「あ、そうなの?もう時間だね」
アリスの声で私はまた現実に引き戻される。
アリスは屈んで真っ白い毛の兎と向かい合っている。兎は私を見ると、鼻をひくりとさせた。
……か、わいい。
そう、これは、れっきとした現実なのだ。
「うん、ありがと。先に戻っといて」
兎はアリスの方に視線を戻すと、こくんと頷いた。……言葉が、解っているかのように。そして、姿見に向かって走り出した――?
「え――」
ぐわり、と鏡面に波紋が広がる。私は思わず口を押さえた。
鏡に、入っていった?
「……最後に一つだけ言っておくけど、美来」
アリスが私を見ていた。
――私は、何を憶えていないのだろう。
「美来――、蓮水弘希くんが事故死する未来を変えたでしょう?」
「――っ、な、なんで、そんなことっ」
思わず声が荒くなった。そんな私を尻目に、アリスは淡々と私の人間でない証拠を並べ立てはじめる。
――ああ、やっぱり。
助けたところで、良いことなんて一つもなかった。
「美来が託宣を変えて、死ぬはずだった弘希くんが生きてるんだもの。だから、仕方がないわけよ」
「だから……それがどういうこと」
アリスが息を吸った。「あのね」――
「美来は、神様として世界に反したことになるの。だから――だから、美来は一年近くの猶予をもって、お役御免になるかもしれない」
息を吸って、吐く。その動作が、とても重く感じられた。
お役御免。つまり、私はこの世界から消されるのだろう。
……そんな事になりそうだとは、薄々思っていたけれど。――腹をくくるには、まだ少し早い。
「美来は、やっぱり驚かないんだね」
彼女が頓珍漢なことを言う。私は、緩く首を振った。
「違う。――世界は理不尽ですから」
役目のない私を、生かしておくほど。
ふ、とアリスが笑った。その顔は、なぜだかどこか泣きそうに見えた。
「それじゃあ、私はここで失礼するね」
片手を上げ、彼女は私に背を向ける――。
「……待って」
アリスが肩越しに振り返る。引き留める他なかった。
――知るべきなにかを、私はまだ知れていない気がするから。
「教えて。こんなことを決めたのは、誰?」
蓮水の死を。そして、杏里の自殺を。
心臓が信じられないくらいに飛び跳ねていた。
彼女はつと視線を揺らして、私を見詰める。
「……消えるって言っても、存在がなくなるわけじゃないんだよ」
ぽつりと呟かれた言葉に、何故か悲しくなった。
これじゃあまるで、私が自分を可哀想に思っているみたいじゃないか。
消える――というのは、きっともう決まったことなのだから異論もない。託宣に背いたのは私なのだから。元を辿れば、自分のせいだ。
深呼吸をする。私を見るアリスの視線、心に走るのは痛みだけ。
「いいから、教えて。私に託宣を下してくるのは貴方?<アリス>とは、一体何」
震えそうになる声を抑えようとして、力の入りすぎた声になってしまう。無表情なアリスの目に、私はどう映っているのだろう。
「神様は――美来の思うような神様は、いない。私は神様なんかじゃない」
「あなたは」
「美来が人間じゃないなら、私はただの印だよ」
段々と、空気が薄くなっていくような気がした。
「アリスは」
「アリスは」
同じ声が、重なって聞こえる――。
「ただの、象徴なんだよ」
「美来は別に、特別な心配はしなくていいの。託宣はそれでも変わりなく生まれるだろうから、イメージしたければしておけばいいよ」
また、アリスは私に背を向けた。
「あっ――」
尚も引き留めようとする私を、アリスはやんわりと笑顔で制する。
「また来るよ。鏡の前で呼んでくれれば、大体なら来れるから」
そして、釘を刺すように彼女は言った。
「あと、金輪際生き物を殺さないように。これ以上、託宣を変えられたら困るから」
その一言でようやく、私は自分の性質について思い出す。たとえ消えるとしても、こればっかりはなくならないらしい。
「託宣に逆らうのは人間でないと」
きゅっと胸が締まった。まるで、慰められているはずが見当違いなことばかり言われた気分だ。
「アリス――」
「それじゃあ、また。神様」
アリスが姿見に手を伸ばした。水面に触れたときのように、鏡の上で波紋が広がる。
彼女は鏡に入っていった。
彼女は鏡に入っていった?
崩れ落ちる。鏡が靄みたく揺らめいて、一つの影が二つに分かれていった――。
揺らぎが収まった頃、座り込んだ自分の眼と目が合った。
「――……」
暫く動けなかった。震えながら立ち上がり、姿見に近づく。同じく震えた指で、鏡をそっと突いてみる。
こつん、と乾いた音がした。
自分のことが信じられなくなった、橙と藍のあいだの時間のことだ。
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