side 美来 海の追憶
ぼんやりと、靄のような夢を見た。
遠い、遠い昔のような気もするけれど、本当はそれほど前でもないのかもしれない、そんな記憶の。
――最早、記憶かどうかもわからないけれど。
海にいた。波打ち際で一人ぼうっと立っていて。
現実味のまるでない、真っ青な空と海を眺めていたのだ。
「――誰?」
突然、声をかけられる。振り返る間もなく、声の主は私の斜め前に歩いてきた。男の人。誰だ?
「私?」
「そうだよ」
ふわりと風が吹いた。その人の短い髪が一緒にさらりと流れる。顔は、見えない。
「……わかんない」
「駄目だろ。自分のことくらい分かってないと」
振り返った。そこで、思い出す。この記憶の結末を。嫌だ、見たくないと願っても、夢は覚めてくれない。
何が起こったのかはわからない。ただ、その人が波にさらわれてしまったのだ。
きっと、まだ幼かった。だから、私は、その人を助けようと迂闊にも手を掴んでしまったのだ。
生き物に素手で触れると、殺してしまう。それは、救おうとした人間にだって例外ではない。
その瞬間、どくんと心臓が飛び跳ねて、頭が殴られたような痛みを覚えた。
それはきっと、命を消してしまった重みだったんだろう。
「っぁぁあああ」
声を出していた。恐怖のあまり、思わず逃げ出してしまった。背を向け、目を閉じて走り。
その後、彼がどうなったのかを私は知らない。殺人も同然なのに、事故――溺れたことになったのかもしれない。とにかく、私は自分のことで精一杯になってしまった。
……最低だ。いくら神様だったとしても、こんなことが許されるはずもない。
それなのに、謝りたいのに、私はあの人の名前も、……顔すらも思い出すことができない。じくじくと痛む胸に追い立てられて、私はこの記憶を封印してしまった。
人を助けもできない私。
杏里の自殺を止めることができたなら、せめてもの罪滅ぼしになるのだろうか。
彼は言った。自分のことを、分かっていないと。
分かっている、だから苦しいんだ。
いつかと同じように、私は祈る。
――許さなくてもいい。だから、私が何者なのかを、教えてほしいんだ。
鳴り響くアラームの音と、反響する蝉の音の中で、また私は目覚める。
……久しぶりに嫌な夢を見た。汗がびったり張り付いて気持ち悪い。こんな夢を見たのは、この前海を見て思い出してしまったからだろうか。
ぼんやりと部屋を見渡す。隅に置かれた、赤い着物が目に入った。これは……気づいたら部屋に置いてあった、よくわからない代物だ。桜が咲き、川が流れ紅葉の色づく雪の景色が鮮やかに、かつ丁寧に縫い取られ留まり続けている。
深く息を吐きだすと、私は立ち上がった。今日は一学期最後の日だ。――時間はまだ、ある。
目を閉じる。頭にはない、体の記憶に身を委ねて、私はひらりと片手を上げる。
そっと目を開くと、目の前の姿見に舞を舞う私が写り込んでいた。
憶えていないのに、私の中枢を成すもの。そういったものがいくつか、私にはある。きっとこの舞もその一つだ。
埃っぽい朝日が射す中で、手が柔らかく円を描き、足が知らないポジションを取って全身をふわりと回す。結んでいない黒い髪が視界を覆い、それでも私はがむしゃらに舞い続けた。こうしていれば、少しだけ冷静になれる。だけど、それも一瞬だ。舞もいつかは終わる。
ほんの少し整理のついた頭に飛び込んできたのは、有無を言わせない託宣だった。
覚えている最後の動き。すとん、と終わってしまった瞬間、言いようのない恐怖が代わりに落ちてきた。
……怖い。
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