side 美来 よびすて

「島田さん」

 私は躊躇いつつも、下校する島田さんに声をかける。――あんな託宣、なかったような雰囲気の島田さんに。

 ふらりと彼女が振り向く。きょとんとした表情の島田さんは、私を認めるとゆっくり笑った。

 それを見て、私は心を決める。

 私はそんなにいい人じゃない。島田さんが勝手に死のうが生きようが、きっとあんまり気にしないで日常生活を送る。関わりといえばこのくらいしかないので。同じく何を考えているのか理解できない蓮水も、特に目立って深い傷になるとも思えない。傷になるほど悲しむことはおよそないことなんだと思う。どうせ私は神様なんだ。人の想像する神様は、悠久の”今”を生き、幾千の人の死をも見るものなのではないか。

 だけど――私は。

 人として在りたいんだ。いくら未来を知れたって、傷にならないと分かっていたって。

 島田さんが死ぬ理由を知りたい。私にも自殺を止めるほどの説得力はないけれど、人間のそういう心も知ってみたい。折角、初めてできた人間関係なのだから。

 私達はこの前と同じようにバスに座った。以前は私が途中で抜けて話がうやむやになっていたので、そこから切り出してみる。まずは情報収集だ。

「あの、島田さん――」

 島田さんが私の様子を見るのが分かった。疑っているのだろうか、と思ったけれど、彼女はこんなことを言い出す。

「あ、敬語、まどろっこしいですよね?訓練なんだし、あたしのこと下の名前で呼んでくださいよ」

「――はい?」

「付き合うことになったから訓練するんだよね?だったら、下の名前で呼び捨てにすることもあるんじゃないの?」

「……そんなものなんですか」

「え?何が?」

「付き合ってる人同士って……いや、まず、付き合ってませんから」

「嘘、あんなに仲良さそうだったじゃないですか」

 ……なんか、情報収集のはずが島田さんのペースに乗せられている気がする。

 何にも分かっていない。島田さんはもしかして、勢いで飛び降りるのか?今の様子からして、自殺したいようにはどうしても見えない。人間が勢いでとんでもないことをするのは、この二年間で学んだことだ。

 ……でも彼女、はっきりと私の名前を呼んでいた。あの託宣は、確かな未来だ。とりあえず、彼女の提案に乗ってみるか。

「えっと……杏里さん、ですか」

「この際呼び捨てにしましょう」

 ……これも乗るべきか?託宣では呼び捨てにされていたけれど。島田さんはにやにやと私を見て笑っている。

「あ、はい……あ、杏里」

 バスが道路でがくんと弾んだ。

「……そこ……」

「はい」

「……乗ります?」

 私は目を見開く。

 え、私、間違えた?

「えっと。あ、呼ばないほうが良かったですか」

「いや、言い出したのあたしですけど。……まさか乗ってくるとは思わなくて」

「はぁ……」

 会話って難しい。何が普通なのか全くわからない……これを人間は毎日しているなんて恐ろしい話だ。

「では、私のことも美来と呼んでいただけたら」

「え……いいんですか?」

「はい。是非」

 バスが左右に揺れ、私は小さく身を縮こませる。島田さん――杏里に触れないように。今殺してしまっても、託宣に背いてしまうから。

 海が姿を現す。

「美来」

 思わず杏里の方を向いた。

 人に名前で呼ばれるなんて、数えるほどしかなくて。

「はい」

「美来、かあ」

「はい」

 杏里はにこにこと頬を緩ませていた。見ているこちらは何だか恥ずかしくなってくる。

 ほぼ満員のバス。他の人達の話し声に埋もれてしまいそうな小さな話をしている気になった。

 人間なんだ、と証明したいわけではない。ただ、人でない私にはわからない感情を知りたいだけだ。そうすれば、人らしくいられるんだろうか。

 こんな風に、私も笑える日が来るのだろうか。

 バスが停車する。何人かが降りた。以前私が蓮水を助けに行ったところだ。

 ふと、帰る前に蓮水に言われたことを思い出した。一週間後の夏休み、遊びに行こうと誘われたのだ。丁重に断ったのだけれど言い包められ、結局行くことになってしまった。こころなしか気が重い。

 暫く、二人とも黙り込んでしまった。私は少しだけ焦る。

「そういえば――」

「うん」

 杏里、と呼ぶのにはまだ慣れない。

「あの。一時間目、大丈夫でしたか」

 訊いた瞬間、彼女がぴくんと動いた気がした。思わず身構える。場を保たせようとして変なことを訊いてしまったかもしれない。

「……なんでもないよ。図書室に行ってたら遅れちゃって、面倒だから隠れてただけで」

 杏里は少し目を伏せて言った。

 いや、この様子は……何か隠しているのか?

 信じていいものかわからないな。おそらく疑わしげに細められた私の目を見て、杏里は小さく笑った。

 私の降りる停留所が近づいてきた。海はきらきらとまばゆいままで、私は最後まで取っておいた気の重い話題を口に出す。

「あの、もう一つ話があるんです」

「……はい……」

「まだ、話していないことが」

 はっきりと、杏里が私の方を見た。

 後悔しないために。

「今度、正体について、少し話がしたいのです」

 言った瞬間、杏里が目を見開いた。すぐに目をそらし、青い顔になって、指先の震えを手で抑えている。……まさか、私の正体を……?

 いや、と思い直す。託宣にも彼女が私に勘付くなんてことはなかったはずだ。

「……わかりました。いいですよ、いつにしましょう?」

 杏里が私の方を見返した。

 思ったよりも力の籠もった目だった。何をそんなに決意でもしたんだろう――私は少しだけたじろいでしまう。

 息を整えてから、私はまた口を開いた。

「夏休み中でもいいですか」

「うん、いいよ」

 ふ、とバスが停まった。

 私の降りる停留所。

「そっか。美来、ここだよね」

 私は立ち上がり、くるりと彼女の方を向いた。

「あの、ありがとうございます。――杏里」

 言ってから頭を下げると、杏里はきょとんとしてから笑った。

 バスを降りた私に、杏里は少し躊躇いがちにだが手を振ってくれた。少しだけ嬉しい。記憶に刻みつける。感情を刻むなんて初めてだ。――忘れないように。

 照れくさいけれど、嬉しかったんだ。

 息をついて前を見ると、揺らめく海の波が見えた。途端に――ふっと、ずっと昔の記憶が蘇った。咄嗟に目をそらす。もういいの、忘れよう。深呼吸をして静かに気持ちを整えた。

 蝉の声が入り乱れる。また私は託宣と違う行動をしてしまったんだろうな。そもそも自発的に動くなんて滅多になかったから、自分でも戸惑っているのだけれど。

 人気のない海辺の道。私はひとり、水彩画みたいな空を見上げて歩き出した。

 飛行機雲が空を二つに分けていた。

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