side 杏里 アリス

 ――鏡の中だ。真っ暗闇。近づいてくる光は――たぶん、鏡の出入り口なんだろうな。

 ほら、光があたしを呑み込んで――


「しまだあんりちゃん、だよね?」


「――っ⁉」

 不意に、足にを感じる。地面。……なぜか、あたしは今立っている。

 ここ、鏡の中……のままだよね。鏡の中をことなんて、なかったのに……?

 今、あたしの名前を、誰かが呼んだ?

 かつん、と右から足音がした。慌ててそちらの方に振り向く。鏡が窓みたいに左から光を差し込ませて、の体をうつしだしていた。

「そんなに身構えなくていいよ。別に危害を加えたいわけじゃないから」

「まあ、それもできないくらいの存在ってだけだけど」

 また、足音。今度は左からだ。

 二人の……女の人?二人が、あたしの右斜め前と左斜め前から見ている気がする……。

 ……どちらも、顔は見えない。口元までしか光が差し込んでいなくて、ただ笑っているのが見えて。どちらも似通った、鏡合わせの――水色のワンピースに、白いフリル付きのエプロン、リボンを巻いた――そう、アリスみたいな服を着ていて、その上に真っ直ぐに長い艷やかな黒髪が流れている。

「あの……だ、誰?」

 後ずさりながら訊くと、二人は同時に口を開く。

「私は、〈アリス〉。そう呼ばれてるだけだからあんまり気にしないで」

 ……

 この――アリス?アリスは、なの?

 二人に見えるのは、間に鏡でもあるからなのかな。

「杏里ちゃん。貴方は、鏡を通れるんだよね?」

 話しかけられて、あたしは慌てて頷く。

「あの、なんであたしの名前……それと、ここは、何……なんですか」

 かつん。二人が同時に、あたしの方へ一歩進む。

「敬語じゃなくていいよ。あのね――ここは、鏡のこちら側とあちら側のちょうど”境い目”。境界って言ったほうがいい?こっちに行くと――」

 そう言って、二人が同時にあたしから見て左の方を指さした。……あれ?

 どっちかが本物でどっちかが鏡に映ってる鏡像なら、鏡合わせにならない?お互いがお互いを指さすか、真逆の方を指さすの――今はどっちも、左を指してるんだけど。

 意味がわからない。頭がこんがらがりそう……やっぱり二人なの?一人なの?どっち?

「――美来ちゃんがいる方。そして、あっちが」

 ……美来ちゃん?神木さんのこと?

 また二人は右側を指さす。

「――弘希くんがいる方だね。杏里ちゃんが一歩でもどっちかに動けば、その世界に行けちゃうよ。すごいでしょ?」

「…………」

 弘希くんって。蓮水くんのことなんじゃ……。

 訳わかんなくってふらふらする。アリスとやらは子供みたいな声で楽しそうにそんな事を言うし。

「なんで、あたしは……」

「杏里ちゃんが今、”アリス”なんだもんね」

「……はぁ⁉」

「あははっ」

 どこがツボだったんだ。アリス、爆笑……。ていうかどういうことなの。何だかげんなりする。もしかして、関わっちゃいけないタイプの人なんじゃないか。

「教えて。お願い。意味わからなすぎるから」

 その途端、ふっとスイッチが入ったみたいに、二人とも口元から笑みを消し去った。

「一つだけ確認する。杏里ちゃん、幽霊だよね」


「――っ」

 体中が、ぞくりと粟立った。

「っ……なっ……!」

 怖い、怒り、いやだいやだなんで!

 こんなに真正面から言われたことなんてないよ。なんでこの人達が知ってるの?恐怖が全身を駆け巡って、まるまる怒りに変わってしまったような気分――

「あたしは――」

「ごめん、杏里ちゃん。杏里ちゃんはこれから――」

「消えちゃうかもしれない」

「消えちゃうかもしれない」

 ふたつの声が重なって聞こえた。

「”体を維持するペンダント”、ここで落としたよね?」

「あれ――あれがないと、駄目、ってこと」

 そうだ。衝撃すぎて吹っ飛んだ思考が戻ってくる。

 なんでそんなことが言えるの?なんであたしが――消えるなんて。つまりは……あたしは鏡の向こうみたいになるんだ。

「それだけじゃないけどね。あれがなければ、こっちからいなくなっちゃうってことになるかな」

「っ、……知ってるの⁉どこにあるか!」

 詰め寄ったけれど、アリスは全く動じない。……なんか、なんとなくだけど、もう駄目なんだと思った。頭ではいっぱいに不平不満が溢れているのに、心では、すとんと分かってしまったんだ。

「もうひとりの”アリス”に渡しておいたよ。安心して、その人がわかったら宝石は戻ってくる」

「……誰なの、もうひとりのアリスって」

「ふふ、人は自分のいいように解釈するってとこかな」

 もう崩れ落ちたくなった。朝から頭がまとまらない……ずっとだ。第一、アリスって何?なんであたしがアリスになるの?

 ともかくペンダントだ。早く取り戻すことだけ考えないと。

「誰なのかヒントくらいくれてもいいんじゃない?あたしと会ったことある人だったりする?」

「それって、私と杏里ちゃんのこと?そうねぇ」

「……ごめん、違う。のこと」

「でも杏里ちゃん、誰なのって言ったよ。私に向かって」

「あたしはその、アリス……もうひとりのアリスが誰か訊きたかっただけ!」

 うう、こんがらがりそう……現時点で三人もアリスを使い分けなきゃいけないってことなんだから。

「……質問変える。貴方は、何者なの?」

「頭がこんがらがってきたわね。答えたくないし、やめにしない?頭がおかしくなりたくないでしょ」

「頭のおかしいアリスなんて、何だか嫌」

 不意にまた似た声が言う。……言いたくないんなら、こんなに話を長引かせなくても良かったと思うんだけど。戸惑う間もなく、それが合図のように二人が笑みを消した。くるっ、と芝居がかった仕草で背を向ける。

「私が伝えるべきことは、伝えた」

「杏里ちゃん、私はここらでお暇するね」

「っ、待って!」

 慌ててアリスの背中に声を放つ。あたし、まだなんにも分かってないよ。

「あたしが鏡を通れるの――意味があるんだよね?あたし、なにかしなきゃいけないの?」

 その瞬間、二人がぴたりと静止した。

「……

「え……?」

「それじゃあね」

 よくわからないまま、二人はふわっと闇に溶けていってしまった。

 ――……

 てちてちという足音ではっとする。ふと見ると、真っ白い毛並みの兎がこちらを見て鼻をひくひくさせていた。ぱちんとあたしと目が合うと、また闇に消えていなくなる。

 ……ここって兎もいるんだ。ぼんやりと思ってから、あたしは額に手を当てた。

 ……しまった。ぼうっとしてた。

「出よう……」

 あたしの声が響く。深呼吸をして足を左に踏み出してみると、あっという間に目の前に壁が迫ってきて、止まりきれずにあたしは激突した。

 あたしは一瞬で鏡を抜けたのだ。

 ふわり、と落ちかけていた鏡を拾い上げる。周りをそっと見回してみても、元々いた演習室で、あたしはその壁にぶつかったわけで……。

 手鏡の表面がゆらゆらと波打っていた。思わず膝から崩れ落ちると、ゆれが収まって呆然とした顔のあたしが映る。窓から入り込んだ埃っぽい光が姿見に反射して、遠く夢の中みたいに先生の声が聞こえる――

 チャイムが鳴るまで、あたしはそこにへたり込んだまま立ち上がることもできなかった。

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