side 杏里 花束

 荷物をおろした後、あたしは演習室に走る。

 鏡を通るためだ――演習室はよく演劇部が使ってて、大きな姿見があるんだ。あたしは周りの目を確認し、深呼吸、鏡に手を押し付ける――

「――あれ」

 通れない?

 鏡の表面が、光って冷たいままなんだ。

 あたしの手鏡じゃないと、向こうに行けないってこと?さっと姿見から手を離し、あたしはポケットから手鏡を引っ張り出す。

 指を触れただけで、あたしは鏡の中にふわりと入り込んでいた。

 真っ暗闇だ。青いペンダントは、見当たらない。


 外に出てみると、あたしの手はうっすらと透けていた。良かった、鏡の中だ。ほっとした瞬間にチャイムが鳴る。

 鏡の中でも変わらずチャイムが鳴るんだ、なんて思いながら、あたしは朝礼が終わったタイミングで演習室を飛び出した。完璧に遅刻だけど、こればっかりは仕方ない。

 廊下にはあまり人がいない。そういえば、向こうで置いてきちゃった荷物はこっちでもそのまま置かれてるのかな。授業が始まる前には戻れるようにしないと……そう思いながら、あたしは騒がしい教室に開いていた扉から入った。

 その瞬間――入口近くにいたクラスメイトが、呆然とあたしを見てきたのが分かった。

「嘘――」

「なん、で」

 その声で、教室は水を打ったように静まり返ってしまう。先生は見当たらず、クラスメイト皆がぽかんとあたしを見ているんだ。

 当然、あたしは足を止めてしまう。どういう状況、これ?それこそ幽霊でも見たみたいじゃ――

「え……あの」

 不意に女の子が話しかけてきた。二人組。急いで脳内名簿で検索する――そうだ、相沢優子さんと、河井岬さん。クラスでは派手なグループにいる女子だ。

「もう、大丈夫なの?」

 意味がわからなかった。とりあえず曖昧に頷くと、二人はほっとしたように笑う。

 だからどういうことなんだ、これ。少しずつ喧騒が戻ってくる中自分の席に目をやる。ただ、そこには、置いてきたはずの荷物はなかったんだ。

 ぼうっと現実感のないまま教室を見回す。どういうことなんだろう、違和感が山ほどあるよ。

 まず、空っぽの机が二つあること。一つは分かるんだ、それは――不登校の花野香奈、さん。そしてもう一つ。これが問題なんだ。

 神木さんの机。そこに、もう一つの違和感。

 花束が、置いてあるのだ。

 まさか――。

「あの、相沢さん、河井さん」

 気が動転してしまう。噛みそうになる。

「あの――神木さん、は?」

 薄く淡い、柔らかな色の花々が、じわじわと恐怖に迫ってくる。

「そっか――」

「いなかったから、知らないんだよ」

 二人はささやきあうと、沈痛な面持ちで机に目をやった。

「あの人ね、この前、事故で――」

 ぶちんと、何かが切れた音がした。

 これが、未来?


「だけど、噂では自分から飛び込んだって」

「まぁ、なにか抱えてたのかもね。友達いなかったし」

「自殺願望?」

「違うと思うけど……私に言われても知らないよ」

 他人事みたいに喋る二人の言葉が、ふわふわと遠く聞こえた。――これが、鏡の中?現実味があまりにもなくて、ふらりと目眩がする。何でこんなことになってるの、あたしはただ神木さんと蓮水くんの未来がどうなってるか知りたかっただけなのに!

 その時、がたりと椅子を引く音が響いた。

 蓮水くんだ。見たことないほど目の色が冷たい。

「止めたら?そういうの。死んだ人のことをさ、そんなにとやかく言って」

「あと――」と、蓮水くんは、ひたりとあたしに視線を定める。……怖い。あたし、ほとんど喋ったこともないのに。


「君――誰として、ここにいるの。君は何者?」


「蓮水、それどういう意味」

 河井さんが彼に詰め寄る。あとから考えると、お喋りを邪魔されたのが気に食わなかったんだろう。だけどそのときは動転してしまって、思わず側の机に手をしまった。

 まただ。手がすり抜ける。

 わかってる。ちゃんとわかってるんだよ。

 だからお願い蓮水くん、言わないで――

「い、色々教えてくれて、あり、がと。じゃ、じゃあ――」

 幽霊だなんて。もしも、知ってるんなら。

 そこから暫く記憶がない。チャイムが鳴ってはっとして、そしたら演習室にいただけで。

 ものをすり抜けるのは鏡の中だけみたいだ。妙に冷静になった頭で息をつく。それなのに、あたしが唯一鏡を行き来できる手鏡を取り出そうとするときだけは、他のものにも触れられるし、あたしが持ち込んだものはあたしと同じくものをすり抜けるらしい。

 蛍光灯の光を手鏡が反射する。やっぱり鏡に映らないあたしは、さっきの光景を思い出してぞっとする。

「神木さん……自殺しちゃうの?」

 何でなんだろう。付き合いたてって幸せいっぱいなものじゃないの?それとは別に悩みがあるってことなのかな。

 何だか凄くもやもやする。あたし、こんなので死なれたら後味悪すぎるよ。

 浮かんだ考えに、あたしって結構お人好しだなぁと溜息が出る。

「あああもうめんどくさいっ……!」

 ……ま、そうなるよね。わかってる。わかってたんだけど。

 とにかく一時間目が始まってしまった。一旦向こうに戻って、一時間目が終わるまでは演習室でじっとしていないと駄目だな。うちの学校は遅刻に厳しいけど、二時間目からしれっと参加しとけばバレずにお咎め無しで済むだろう。

 そんな事を考えながら、あたしはいつものように、鏡の中に入ったんだ――。

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