side 杏里 鏡の中
あたしの家は、あるマンションの片隅にある。二百四号室、思い出せない頃からずっと、この扉を開けている気がする。
そうはいっても、あたしは忘れているんだ。高校生になる前のことを。もっと正確に言えば、去年の三学期くらいからしか記憶がない。
やっぱり幽霊には記憶細胞とかないんだろうな。それは自然に消えていって、しかも無意識の間の出来事だから、覚えてないことが当たり前になっているんだ。
記憶は戻ってこない。だから、あたしが今名乗っているこの名前――島田杏里だって、本当の名前なのかもわからない。
じゃあ、あたしって、何者なんだろう――考えても仕方ないのに。部屋の扉の前で立ち止まる。溜息を吐きながら、ドアノブに手を伸ばす――と。
手に、何も触れた感触がなかった。
ちゃんと見てなかったからかな。そう思った。思ったんだけど――あたしの手は、ドアノブをするっとすり抜けたんだ。
「――ウソ」
うそうそ嘘。
背筋が急に冷たくなるのが分かった。信じたくなくて、あたしは何度も試そうとする。ドアノブに手をかけて、かけようとして、すり抜けて……何にも手に触れない。
――まさか。
はっとして首元に手をやる。”体を維持するペンダント”を、必死で探す。
「――ない」
なくした。
目の前がどっと暗くなった。絶望に近い気持ちが冷たく体中を這いずり回る。
なくしてしまった。
……あたしが偽りでも、”人間”であれる唯一の手段であるペンダントを!
悪い夢でも見ているんじゃないだろうか。体がふわふわして、現実味が全然ない。
あたしは震える手で、扉を手で押してみた。そのまま扉に向かって歩けば、あっけなくあたしの体は扉をすり抜ける。恐ろしくなったのも束の間、あたしは慌てて家に上がった。
――問題は、どこで落としたか、ってことだ。
思い当たるとしたら場所は一つ。あの――何故か落ちていってしまった、あの場所。転んだ拍子か落ちたときに落とした、とか?
頭がキンキンと痛かった。記憶がないのと同じくらい当たり前に、あのペンダントはあたしのところにあったから、まさか失くすなんて思いもよらなくて。
……同じくらい普通に、これがあるからあたしが人間に紛れ込めるんだと、どこかで本能的に解っていたんだ。
見慣れた部屋に走り込んだ――つもりだったんだけど。
そこには家具が一つもなかった。
「嘘でしょ⁉」
この部屋にだって机の一つくらいあった。それなのに、なんにもなくなっている。ただ壁の白い空間がからんと広がっているだけで、そこに人が住んでいそうな様子は少しもなかった。また、いつもと違うこと。見つけてしまって、何もかも壊れてしまったような気分になる。
――何が起こっているのか、分からない。
頭を振る。もう嫌だ。もう何だかわかんない!夢から覚めない夜みたいに、怖くて怖くて仕方がない。まるであたしが、いなくなったみたいで。
とにかく、あのペンダントを見つけるのが先だ。そうすれば、元の状態に戻れる、よね⁉
深呼吸。自分の手を見る。……まだ、あたしはここにいるよね。まだ死んでないよね?違う、幽霊になりきってない、よね。
また深呼吸。あたしは今、何者なんだろうか。
いくら幽霊だったとしても、引き下がるほど納得はしていない。
持ちっぱなしだった鞄を床に放り出し、もう一度玄関に向かう。その時、洗面台に備え付けられた鏡が目に入って――。
「……?」
見慣れた、三面鏡。
本当に息が止まりそうになった。
とんでもないことが映ってるんだ。違う、映ってないんだ。あたしの姿が――⁉
「うそ、うそ、嘘でしょっ」
あの強烈な目眩を思い出した。ふらついているのを自覚しながら、鏡の前に立つ。
鏡にあたしが映っていない。自分の存在に自信が持てなくなって、あたしは鏡に指を押し当てる。変わらず輪郭の曖昧なあたしの指は、冷たい金属の感覚でさえも感じ取ってくれない。不安で涙が出そうになる。悔しくて何度も手を鏡に打ちつけた。
汗かと思ったそれは、本当は涙だったのかもしれない。どうしたってあたしはもう鏡に映らないんだから、確かめようもないけれど――。
「嫌だ、やだやだもうやだ……っ」
鏡を拳で殴った。そのまま力が抜けて座り込む。
もう駄目だ。どうしたらいいの?あたしは今、どんなふうに見えてる?
それでも希望にすがりたくて、あたしはさっき放り出した鞄を引き寄せた。
鞄を開けて、手鏡を取り出す。あの三面鏡がおかしいだけで、他の鏡なら映るかもしれない。きっとそうだ。
無意味だって解ってるのに、手が震えてしまう。泣きたい気分で、あたしはさっきと同じように鏡に指をつける――すると。
「ひゃっ」
思わず手鏡を放り投げた。かしゃん、と高い音が響く。
今――あたしの指が、触れた分だけ、鏡に吸い込まれたような?
何が起こったかわかんない。だけど、頭ではちゃんと追いついていた。はっとして手鏡を拾い上げる。それは、水か靄みたいに反射する表面をゆらゆらとさせていた。――まるで、鏡が溶けているかのように。
ずきん、とこめかみが痛くなる。だってこれ、鏡を通れるってことでしょう⁉
試しに掌を押し付けてみた。その途端、あたしの手はあたしを映していない鏡の中に入ってしまう。思い切ってその小さい鏡に体重を乗っけてみれば、あたしは穴に落ちるように鏡の中に入っていた――。
次の瞬間、あたしはまた落ちていた。
ただ一つ違うのは、さっき落ちたときとは逆に光が大きくなって近づいてきてる……事?
ってことは、ぶつかるんじゃないの⁉
近づいてくる光は、あたしの顔を映し出している。……やっぱりあれは鏡なんだ、鏡だったんだ。
そのとき、視界の端に青いものが過ぎった。
「あっ」
まさか、あれって――ペンダント⁉
ふわふわと浮いているそれに手を伸ばした途端、視界が光で白く色が飛んだ――。
「!……つうっ」
光から飛び出したあたしは、勢い余って壁に激突した。……痛い。ってことは?
「現実だ……」
慌てて側の手鏡を掴む。そこに、あたしはちゃんと、写り込んでいた。
あんまり絶望的な目をしてるから、思わず自分で笑ってしまう。……良かった。あたしはここに、たとえ幽霊であっても居られてるんだ。
はっとして家中を見て回った。大丈夫。家具も全部あるし、あたしはドアをすり抜けることはできない。ようやくほっと息をつけて、また座り込んでしまった。
ならば、あたしは――。
「鏡を――通り抜けたってこと?」
口にしてみても現実味がなくてどうしようもなかった。だけど、さっきいた家とは――世界とは、確実に何かが違うんだよな。認めたくないけど、あたしは”本当”に幽霊だった。
もしかして……鏡の向こう側だったら、あたしはもうとっくに存在していないことになってるの?
ぞっとして鳥肌が立った。今のあたしには”体を維持するペンダント”もない。じゃあ、あたしがいないあの世界は、未来――だったりしないよね?
「もういや」
怖くって、誰にともなく呟いてしまう。
もしかしたら、鏡の中で浮いていたペンダントには届いたかもしれないな。
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