side 杏里 道端の鏡

「私、ここで降りますね。えっと……これから、よろしくおねがいします」

 神木さんはものすごい勢いで頭を下げると、バスを飛び降りていった。

「……はあ」

 止める間もなかった。彼女はそのまま、なにかに追われるように走っていく。

 ぷしゅうっ、と甲高い音がして、ゆっくりバスが発車した。口下手なだけの幽霊なあたしはただ、その動きに流されるだけ。

 ……何だったのかな。神木さん。あまりに切羽詰まった目で――顔はほぼ無表情だったけど――あたしと景色を見てたから、ちょっとびっくりした。

 ……最初は、正体がばれたんだと思ったけど。

 何であんなことを頼んできたのかは結局わからなかった。あたしに人と話す方法を訊いたってしょうがないじゃないか。あたしは今のままで、十分ちゃんとしてる。

 ――正体、ばらしてやりたいな。あたしはそんなにいい奴じゃないんだから。

 やっぱり、あたしの正体に気づいたとか?そんな事を考えて自分を嘲笑った。ばっかみたい、あたし。

 あたしは二つ先のバス停で降りた。ここから少し歩くと、何であるのかはわからないあたしの家に着く。そもそもあたしは死んでて、身体があるわけじゃないから、食事はしなくても暮らしていける。学校でのお昼休みのときは、怪しまれないようにどこかで時間を潰して人に見られないようにするくらいだ。

 いつもどおり、人気のない道を歩いていく。小さく青い花が咲いていた。隣の白みがかった花は、誰かに踏まれたのかぐしゃぐしゃになっている。

「あ――」

 やば。鞄閉めてないじゃん。いつからだっけ?最後に鞄をいじったのが校門のところだと思いだして、頬がかあっと熱くなった。焦りすぎでしょ……神木さんに不審に思われても仕方ないな。

 溜息をついて前に目をやれば、小さな水溜り。……雨でも降ったのかな。ぼうっとそんな事を考えていると、後ろで警告するように甲高い金属音がした。

「わっ」

 黒い車が真っ直ぐにこっちに向かってきていた。

 住宅街に入っているから、道は歩道を示す白線が引いてあるくらいで、殆ど車道も同然だ。猛スピードで向かってくる車は歩道なんか目に入ってないみたいに走っていて……

 轢かれる――!

 あたしは咄嗟に道の端に寄った――

「――っ?」

 視界が、ぐらりと、傾く。

 足が地面を離れる感覚がした。そうした途端に目に入ったのは、晴れてきた青い空と、鞄からこぼれた荷物と、光を反射する手鏡――

 あたしは地面に叩きつけられた。思わず手をついたのは鏡の上……?

「っあああああああ」

 次の瞬間、あたしは

 ……なに、どうなってるの?ふと見た隣には闇が迫っていて、上から――あたしが落ちてきた方から光が見え隠れしている。きらっと光った所に、目を見開いたあたしの顔が写り込んであっという間に小さくなってゆく。

 ――鏡みたい。割れた鏡の断片みたいに言葉が浮かんで消えた。状況が飲み込めなくて、感情みたいなものも一切浮かんでこない。

 背中に冷たいものが触れてはっとした。は――それは光で、あたしはどうにもできずに飲み込まれる。途端、強烈な目眩が起きた。……吐き気がする。何が起きてるの――

 ――どこかで、叫び声がした――。


「……いっ……たあ」

 気がついたら、あたしは転んでいた。

 ぱらぱらと落とした荷物が手に触れる。あたしの他に人は見当たらない。……あたし、足滑って転んだみたいだな。地面がぬかるんでるせいだ。は、ずかし……!

 起き上がると腰がついっと痛んだ。とりあえず散らかした荷物を拾う。……手鏡を拾うときは、どうしても深呼吸しないと駄目だった。

 立ち上がると目眩が戻ってきた気がした。なんとなく、さっきのことを思い出す。……あれ、何だったんだろ?ぞっと背筋が冷えた気がして、思わず走り出す。

 感情も出てこないほど怖かったのは、多分あれがはじめてだ。……きっと、生きてたときもあんなことなかった、筈、なのに。

 何がなんだか、得体も知れないから怖い。一つだけ覚えているとするなら、あの落ちていくときの感覚だけだ。

 そう思うと少し残念だった。記憶にあるお話のあの子は落ちて別の世界に行けたのに、あたしは幽霊のまま、生きることもできずに走っているだけだから。

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