side 美来 バスのうちそと

 靴箱から校門までの道で、彼女は少なめの手荷物を確認していた。静かに歩み寄って声をかける。

「島田さん」

 島田さんはゆるりと振り返り、硬直した。

「か、か、神木さん」

 目と口をぽかんと開けてしまって、島田さんの顔にはわかりやすく動揺が滲んでいる。申し訳無さを覚えつつ、私はその目に言葉を放った。

「少し、相談に乗ってくれませんか」

「実はっ……はい?」

 島田さんが一つ瞬きする。思わず首を傾げた。

 何か言おうとしていた?用事でもあったのだろうか。それなら今日は駄目だ。今度にするか。と、島田さんが口を開いた。

「……神木さん、バス通学?」

「はい」

「えっと、じゃあ、バスで聞きましょうか?あたしなんかが役に立てるかはわかりませんけど……」

「ありがとうございます」

 良かった。私は第一関門を突破した気分でほっと息をつく。でも島田さんの方もほっとしているように胸に手を当てていた。何故だろう。というか島田さん、相当驚いたらしく鞄を締め忘れているのにも気付いていない。注意しようと思ったタイミングでちょうどバスが来て、彼女は定期券を取り出しながら小さく「やばっ」と呟いた。

 先に乗った島田さんのあとに続き、私はバスに乗り込む。何となく彼女の顔は白いような気がするけれど、拒絶する素振りはないのでこのまま押し切ることにする。

 いつもは座らない一番後ろの席へ向かう。島田さんの隣に、「すみません」と断ってから座った。

 バスが発車。同じ制服の女子の笑い声も同時に充満していって、私は少し喋るのが億劫になる。

「……それであの、相談、とは」

「あ、はい」

 ……話すとなると少し迷う。やっと出した声は、ほんの小さな呟きのようになった。

「……人とスムーズに話せるようになるには、どうすればいいでしょうか」

 バスが大きく左右に揺れる。

「それ……」

 島田さんが一つ瞬いた。

「あたしに聞きます?」

 私は目を伏せる。その言葉は少しだけ雑で、彼女の怒り、みたいなものが感じられた。申し訳ない、とは思うけれど、とっくに話してしまったことなので仕方がない。

「……すみません。私が相談できるとしたら、今の所島田さんだけで」

 島田さんが俯いた。その顔が少し険しくなる。

「えっと、ごめんなさい、毎朝声をかけてくれるから、話しかけることができたんです」

 しん、と沈黙が降りる。……怖い。どう受け止められているのかわからなくて、どことなくそわそわしてしまう。

「じゃあ、こうしましょうか?今みたいに、帰るときあたしと話して練習する、とか」

「へ」

 驚いて島田さんの方を見ると、激しく反射する青い光に目がくらんだ。

 ――海。私たちの街には、海がある。

「いいんですか」

 予想外だった。島田さんの方から願ってもない事を言ってくれるなんて。

「あたしなんかで、よければ。練習付き合いますよ」

 思わず頭を下げた。「わ、神木さん」と彼女の声が慌てたリズムになる。――良い人だな……島田さんは。

 私は人ではないけれど。生きていると言えなくてもいいから、人らしく在りたいのだ。

 顔を上げ、移ろう窓の外と島田さんを見る。バスが信号で停まり、彼女は小さく笑い、……景色は?

「――っ」

「か、神木さん?」

 島田さんの声で我に返る。軽い衝撃――この景色、夕暮れ具合、だ――。

 気がついたら降車ボタンを押していた。どくり、とありえないような音が胸のうちから響いてくる。どうしよう、どうするべき?

 私は神様の役割に徹するのか。人らしく在りたいと願った身で、不幸を捻じ曲げる?

 どちらにせよ信号が青になってしまった。次の停留所は、信号のあとすぐの場所。

「島田さんごめんなさい、ありがとう」

「あ……いえいえ」

「私、ここで降りますね。えっと……これから、よろしくおねがいします」

 私はばっと頭を下げて立ち上がった。ちょうどバスがぴたりと止まる。いつも降りる停留所とは違うけれど、私は扉が開くのを待って飛び降りた。

 ――島田さんの顔が、バスの発車したあとに蘇る。彼女は少し不思議な、心配したような目をしていた気がしたのだ。

 一つ深呼吸をして、託宣が照らした横断歩道を探して走り出す。――ここは、あのときの託宣が見せた蓮水の事故現場なんだ。

 イメージは、していない。イメージしないなんてはじめてだけど、私はまだ迷っているのだ。

 ……怖いんだ。怖くて怖くてたまらない。自分のすることに、……確信なんて持てるはずがない。要らないおまけに彼は告白なんてしてきたのだ。

 横断歩道が近づいてきた頃には息なんて既に上がっていた。もうそれどころじゃない。

「――っ!」

 いた。いてしまった。緊張で息が止まりそうになる。

 橙色の柔らかい空の下、託宣の中のとおりに、蓮水が青信号の横断歩道を歩いていた。

 ――見えた。

 それこそ人を跳ね飛ばすスピードで走ってくる黒い車。確か、あれは蓮水を轢き殺したあとに逃げてしまうはずだ。要するに、ひき逃げ。私はおぞましいビジョンから逃げるように横断歩道に走り込んだ。

 その途端、ふわりと――ゆっくりと立ち止まって蓮水が振り返った。

「……あれ、神木さん。どうしたの」

「……は、はすみっ……!」

私も思わず立ち止まってしまう。私と蓮水の間には、ふと見ると絶望的な距離がある。

 瞬間、車のクラクションが響き渡った。

 嘘だ、と思いたくなった。託宣通りにイメージしたわけじゃないのに何故。そんな思いは、黒光りする自動車と蓮水の姿が重なっても燻っていて、それでも目に焼き付いたままなのは、先程の島田さんの瞳だった――。



 甲高い音が響いていた。青信号がちかちかと点滅する。

「痛……か、神木さん、何で?」

 その声で、私は自分が握りしめているのが生温い鮮血ではなく、生きている蓮水の腕だと気付いた。

 蓮水が横断歩道に尻餅をついたまま、私のことを目をまん丸にして見つめている。

 頭が、真っ白。理解できない。ただ、まだ燻ったままの、感情は、怒りと喪失感で。

「神木さん!信号、赤だ!」

 ぐいっと袖を引っ張られた。立たされ、横断歩道から走り出す。私は座り込んでいたのだと、その時はじめて分かった。

 何も言えないまま向こう側に辿り着く。立ち止まってすぐ、彼は私の袖を離した。

「神木さん」

 目を合わせる。

「あの、ちょっとお茶しませんか。助けてくれたお礼に」

 そう言って、蓮水は現実味もなくふわりと笑ったのだった。

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