第9話 きれい

「吹奏楽」というものに、憧れを抱いた日があった。

 キラキラと眩しくて、身体の芯に響く壮大な楽器の音。バスドラが鳴り渡り、シンバルがけたたましく音を鳴らす。木管楽器が精密で綺麗な音符の螺旋を描き、金管が最後に飾る。

 六歳の時、親に連れられて夏の吹奏楽コンクールを聴きにいったあの日、一番前の席で見た音楽の世界は、まるで花畑を見ているかのように心地よく、煌びやかで、かっこよく、そして「きれい」だった。

 私が特に注目していたのは、指揮者と一番近い距離にいる木管楽器だ。とある中学校の演奏を聴いていた時。曲は「アルセナール」。私の目の前でオーボエを吹いている生徒が気になり、じっと見つめていた。途端に流れてきたオーボエの音色に、私はいつしか虜になってしまった。

 蒼い風が吹いている。その人の周りを、蒼い風が吹いているのをこの目で確かに見たのだ。蒼といっても、一色ではない。水色、藍色、群青色、空色……色々な「あお」が混ざってグラデーションを描いていたのだ。

 ふと、オーボエを吹いていたその生徒とぱっちり目が合った。黒髪ロングで、私と同じ蒼色の目を持った、可愛い人だった。

 吹きながら、その生徒は私に向けて確かに微笑んだ。その瞬間、私の中で何かが高鳴った気がした。

 かっこいい。美しい。いや、それよりも。

「……きれい」

 ずっと、その人を見ていた。かっこよかったから。美しかったから。「きれい」だったから。

 全プログラムが終わり、家に帰ったあと、私は母にこう言った。

「あのね、ほのか、おーぼえがふきたい! ちゅーがくせいになったらすいそーがくぶに入って、おーぼえをふいてみんなをわらわせるの!」

 今思えば、くだらない夢だったのかもしれない。しかし、それくらい衝撃的で、「きれい」だったのだ。


 その七年後、私は夢を叶えることとなる。憧れのオーボエを持ち、人を笑顔にする蒼い風となる。


 ***


「……で、伊庭原先輩。どうして連れてこられたんですか?」

 由貴の隣で、桃色の髪を揺らした中本百羽なかもとももはは、由貴にわしわしとすぐに頭を撫でられムスッとした表情を浮かべる。「いやぁごめんね、この子達と一緒にコードの学習を、と思ってねぇ」とやよいがほのか、菫を指さす。

「コード? B♭ベーメジャーとかですか?」

「そうそう。あ、ほらほら、一応挨拶しておきなよ」

 やよいにトンと背中を押され、百羽は少しよろける。二人の前にやってきた百羽は「えっと、中本百羽です。一年三組、中学生の時からコントラバスやってます」と二人にぺこりと頭を下げた。

「ワオ、経験者!」

『よろしく、中本さん。うちの中学にはコントラバスはなかったから、多分違う中学かな?』

「私東の方の中学だったんだよね。だから違う中学かも。てか、百羽で大丈夫だよ? 私達同学年なんだし」

『それもそうだね』

「クラリネット担当、安城菫デス!」

『中学からオーボエやってます、箕輪ほのかです』

 新入部員三人の交流が終わったところで、「ところで……そんなに小さいのにコントラバスとは、なかなかだね…………某なんたらカンタービレの佐久ちゃんみたいな!」と百羽をまじまじと見つめるやよい。

「成長期、来なかったんです。仕方ないじゃないですか」

『分かるよ百羽、色々大変だよね……』

「ほのか、あなたに言われると、何だか複雑な気持ちだわ……」

「ワタシは言わない方がいいかしら……」

「菫、あなたは論外よ。色々と大きいから」

「ガーン!」

 がっくりと肩を落とした菫に『ドンマイケル』とタブレットを持ちながらポンポンと背中に手を乗せるほのか。相当ショックを受けたのだろう、ほのかの微々たる励ましにも反応せず、クラリネットを持ったまま椅子に座り、「ワタシはデカイ……ワタシはデカイ……」と俯きながら呟いていた。

「……中本、あんた意外とバッサリ言うタイプなんだね」

「うーん、自分の性格上はっきり言わないと気が済まないと言いますか。直そうとは思っているんですが」

「性格は直すべき人とそのままでいい人の二択がいるけど、中本はそのままでいいと思うよ〜」

「どういうことですか、伊庭原先輩?」

 百羽は首を傾げる。またワシワシと頭に手を置き「まぁ、ミーティングとか、部員会議とかの時に役に立つってことよ〜」と由貴は笑う。

「?」

「ほら安城、やれば出来る子だろう? 大丈夫さ、たしかに私も君の体型が憎いほど羨ましいけれど、それはそれ、これはこれ。今は部活中だ、学ぶべきことはちゃんと学んでもらわないとだぞ?」

「あの、憎いほど羨ましいって、褒めてるのか貶してるのかどっちなんデスか」

『比喩的表現すぎて全菫が困惑』

「有剛先輩も同じだったんだ……」

 パンパン、と由貴が手を叩き「はい、まずはB♭ベーメジャーの復習ねぇ」と五線譜ノートに音符を書き出す。

「有剛が問題出してたから、私も問題出そっかな〜。じゃあ問題です、デデドン!」

「なんかいきなり始まりまシタね」

(その効果音は違う気がする……)

B♭ベーメジャーにはその名の通り、フラットがついています。どこについてるでしょうか? あ、箕輪は答えないように」

(ちっ、書いてるのバレたか……)

「安城と中本、お互いに相談しあってもいいからね」

 そう言われ、呼ばれた二人が顔を見合わせる。「確かに、その方が良さそうね」と百羽が五線譜が書かれた紙に一つずつ音を書き始める。

「菫、B♭ベーメジャーがどの音で構成されてるか知ってる?」

「さっき教えてもらいまシタ。フラットを除いて、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、デスよね?」

「そうそう。そこにフラットを当てるんだけど……」

「簡単じゃないデスか」

「え?」

『百羽、菫はもう教えることは無いと思うよ』

「どゆこと」

 菫は迷わず「シ」「ミ」に当たるところにフラットを書き始める。驚いて声が出ない百羽に『ね、言ったでしょ?』とほのかが笑う。

「驚いた、あなたピアノとかやっていたの?」

「? 小さい頃に……」

「そりゃあ分かるわ……教えること、無いかも」

「え、え?」

「書けたかな? お、いいじゃない安城、やっぱり天才だね」

 由貴がニコニコと笑いながら「じゃあ、次の課題ね」と白いコピー用紙を取り出す。何をするのかと思えば、由貴はそこにフーッと息を吹きかけ始めた。

 しばし見ていたうちの、ほのかと百羽だけか気づいた。。息の乱れが一切ないのだ。本来であれば右へ左へと紙が揺れるはずなのだが、由貴の場合は一直線に息を吹きかけ続けている。吹奏楽部にいても出来ない人がいるそれを平然とやってのけているのだ。

「わ、すごい」

「何がデスか?」

「息が安定してるの。こういう人って、ピッチがすぐ合うんだよ。私は弦楽器だからあまり必要ないけど」

「じゃあ、ほのかもなんデスか?」

『さぁ?』

 ほのかも中学生時代、入りたての頃に同じことをしていた記憶はあったが、今やれと言われると正直出来るかは怪しい。経験と努力、そして音楽は何よりも継続力が無いと上手くなることは難しい。ただ吹いているだけで上手くなれるわけではない。

「安城も出来るさ。キミはピッチが合いやすいんだから」

「……が、頑張りマス……」

 少し自信なさげな菫に「大丈夫。管楽器って才能ある人しか出来ないから」と菫の肩にポンポンと手を置く百羽。

「ふ、ふーっ……ふーっ……」

 ゆら、ゆら、と紙が左右に揺れる……が、暫くすると揺れが少なくなり、やがて紙は真っ直ぐ上に浮き上がる。「すごい! やっぱり飲み込みが早いよ!」と百羽が拍手を送る。

『同感』

「え、そ、そうデスか?」

「私も思うよ。いやぁ、教えるのが楽で助かるや〜」

『私の後輩も、これくらい飲み込みが早かったら苦労しなかったのになぁ〜……』

「箕輪、あんたの中学生の頃の後輩って、そんなに上達遅かったの?」

 やよいの問いに、こくりと頷きながら文字を打っているほのか。

『私の教えが悪かったのか、それともその子の成長速度が遅かったのかは定かじゃないですが、まともに吹けるようになるまで半年はかかっていました。その年の夏コンも、もちろん出られずじまいで』

「あぁー、オーボエは難しいもんねぇ」

 うんうんと頷くやよいの袖をつんつんし『いえ、クラリネットです』と端末を見せるほのか。

「え?」

『ですから、クラリネットです、その子。

 クラリネットとオーボエって、運指が全く違うのは有剛先輩もご存知だと思うんですが……』

「ああ、うん。一度オーボエを吹いたことがあるからねぇ」

 ちまちまと文字を打っているほのかを横に「そうなんデスか?」と菫が首を傾げる。

「全然違うよ。かなり手こずったねぇ」

『クラリネットは閉管なのに対して、オーボエは開管なの。倍音の付き方も違うし、キーの配列とか、オクターブキーとレジスターキーっていう違いもあるし……』

「?????」

『うん、知ってる。分からないよね。説明するのめんどくさいから、ネットで調べて』

「辛辣!」

 スマホを取り出してぽちぽちと調べ始める菫。「そうだ箕輪、夏コン!」とやよいが思い出したように声を上げる。

「?」

「夏コン、どうするの? クラは毎年オーディションで決まるけど、私らも一応オーディションがあるんだよ」

 ぎょっとしたほのかに「もしかして、中学の時はオーディション無かったのかい?」と神埜が追加で問いかける。

『無かった訳ではないんですけど……』

「ははーん、その口ぶりからして、落ちた経験があるな?」

「!!!!」

 どうやら図星のようで、ほのかは机に突っ伏してスンスンと泣き始める。あわあわしているやよいをよそに、「安城、分かったかい?」と神埜が菫を覗き込む。

「全く、分かりまセン!」

 満面の笑みで、菫はそう答えたのだった。

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