第7話 倍音
『違うそうじゃないの。それ低いの。喉を閉めるの、閉じるの』
菫のチューニング中、ほのかはタブレットを人差し指でべしべし叩いて強調する。菫は半泣きになりながら「どういうことデスか……? これ低いんデスか……?」とクラリネットを見つめる。
「時間がかかりそうだねぇ」
「始めたての頃は仕方ない。コツを掴むまでの辛抱っしょ」
神埜、やよいが口々に言い、「ほのか先生、そこまでにしてやんなさいや」とやよいが止めに入る。
『どう教えたらいいんだろう……』
「音感はあるのに音の低い高いが分からないとどうしようもないもんねぇ。よし箕輪、安城のお世話係に任命しよう。この一週間、面倒を見てくれないかい?」
『ガッテンです、有剛先輩!』
「厳しくはしないようにね」
『……ガッテンです』
「という訳だ安城。箕輪についていけば絶対上達すると思うよ」
ニッコリと笑い、神埜はキーボードでチューニングを始める。トントンと菫の肩を叩き『よく聴いてた方がいいよ』と神埜を指さすほのか。
神埜のクラリネットがピアノで言う「シ
『まるでその上にもう一つ別の音があるかのように聞こえるでしょ? あれね、「
「倍音……」
『ここで問題です。デデン! 倍音の音を当てよ!』
菫は目を閉じる。神埜は横目で見てそれを察したのか、更に息を吸ってシ♭を出し続ける。ピッタリと音程が合った瞬間に聞こえるのは、重みのある「レ」の音だ。
「……! 「レ」! レの音デス!」
「!」
「いいねぇ安城、これが倍音だよ。この音を常に出せるようになれば一人前だ」
吹くのをやめ、神埜が近づいてくる。クラリネットを持つ菫の手の力が少し強くなった気がした。
『やっぱり菫は音感がある』
「ほんと?」
「本当だと思う。倍音は、普通の人が聞いても「なんか別の音が聞こえるなぁ」くらいか、そもそも気づかないで終わるんだ。一発で聞こえて、しかも音程まで当てられるってことは、音感があるってことだよ。誇っていい。
ということは、だ! 絶対音程が合うはずなんだ。君はやれば出来る子だ、もう一度やってみないかい?」
「やってみマス!」
(早速手懐けてるなぁ……)
入部して早一週間、神埜は既に菫がどういうことを言われればモチベーションが上がるかを分かっているようだ。
菫は単純な性格で、褒められれば褒められるだけ伸び、貶されれば貶されるだけやる気を無くす。熱しやすく冷めやすい、まさにO型の見本とも言える。
ほのかはA型な為、几帳面で筋の通っていないことは全力で反論するタイプ。
やよいはB型で、気分屋で楽天的。
神埜はAB型で、変人の代表格。誰に対しても平等であり、常に冷静でいられる性格だ。
「そうそう、出来るじゃないか安城! 私の耳には倍音が聞こえるぞぉ!」
『手懐け方が上手ですね』
「神埜、頭いいから人情把握が得意なんだよ……」
『まるで犬のよう……』
「箕輪、それは私も同意だわ」
クスクスと小さな声でほのかが笑う。「箕輪、あんた案外声可愛いね。結構高い声というか」とやよいが驚いたように声を上げる。
「!?」
「あはは! 今聞いた限りじゃ本当の声は分からないけどね! でも誇っていいと思う。その声はきっと、合唱とかで重宝されるからね」
『そうでしょうか? 昔から変わった声だねとは言われてきましたが』
「そうなの? じゃあ私が聞いた声は変わった声? 可愛くて小鳥みたいな声だと思うけどなぁ」
なんて抽象的な。
そんな言葉は打ち出さず、正気かお前の顔でやよいを見続けるほのかなのであった。
「ふむ……低い音が合わないのは楽器の特性だ、それは気にしなくていい。吹き始め初日でこれだけできるのは上出来だよ、安城。箕輪、君もチューニングするかい? 私がやってあげるよ」
こくりと頷き、ほのかはやよいにタブレットを預けてキーボードの前に駆け寄る。楽器本体からダブルリードを引っこ抜き、片手の指で丸を作る。
「オーボエやファゴットはダブルリードからなんだねぇ。よし」
キーボードの音を少し小さく、されどハッキリ聞こえるダブルリードの音。音が安定しており、やはり倍音が聞こえてくる。
「あんな小さなものでも倍音ガ……」
「音は合いさえすれば倍音が聞こえるものよ。それなりの努力が必要だし、ましてやダブルリードなんてリードに人生を振り回されるようなものだから、更に難しいのよ?」
「えっ、リードって全部音が出るものじゃないんデスか?」
菫の驚きの問にんーんと首を横に振り「全然」とやよいは呆れた様子だった。
「リードは全部が全部固定の人が作ってる訳じゃなくて、その固定の人が全国に何十人、何百人といて、作られたものが工場に運ばれてきて、梱包されて、楽器屋に並ぶってのが仕組み。だから、吹きやすいものもあればほんとに吹きにくいカスなものもある」
「カス……」
「私らはそれを「当たり」と「ハズレ」って呼んでるの。ダブルリードはその中でもまた特殊でねぇ……今日は当たりでも、次の日には裏切って吹けなくなってたりとかがざらにあるんだよね。だから難しいの」
「全てはダブルリードの仰せのままにってことデスか。大変デスねぇ」
チューニングが始まり、菫はその音を聴く。先程から音程が一つもブレていないほのかに「凄い……」と感嘆の声を上げてしまう。
「体験入部の時点で分かったけど、箕輪は本当に上手いよ。相当努力したんだろうなぁっていうのが伝わってくる。オーボエはアンブシュアがブレやすくて、音程も取りにくい。だから、やりたがる人はあまりいないんだよね」
「アンブシュア?」
「簡単に言えば口の形さね。楽器を吹いてると、唇が震えて音程がブレちゃうことがあるでしょ? 箕輪にはそれが一切なくて、ずっと一定の音程を保つことが出来ているってこと。並の努力ではなし得ない実力だと私は思うねぇ」
「……」
ほのかの端末を見る。ふと、「筆談用」「メモ用」と並んだメモ帳機能のフォルダに、空白のフォルダが一つあることに気づいた。人のものを見ることに抵抗はあるが……と、菫は試しに開いてみる。
そこには、ほのかが自分で書いたであろう自分の目標やオーボエの手入れ方法、吹き方、コツ、できない連符の所など様々な事が箇条書き形式でびっしりと書かれていた。
「おおう……」
「どした、安城? ……うわ、これ全部箕輪が書いたやつ?」
「みたいデス……ん?」
スクロールしてみると、一番下に「声と言葉を出せるようになる」と強調するようにゴシック体に設定して書いてある。中学から一緒だった菫は、ほのかがどんな気持ちでこれを書いたかがいやがうえにも分かる。だからこそ、だからこそなのだろうか。
少しだけ、胸が苦しくなったように感じた。
「いやぁ、箕輪はチューニングが楽でいいよぉ。早く終わった」
「……?」
ほのかが菫を見て首を傾げる。さりげなく筆談用のフォルダに戻し「なんでもないデス! 凄いデスね、音程全然ブレてなかったデスよ!」とほのかにタブレットをほのかに渡す。手話で「ありがとう」と表した後、ほのかはそれを受け取って脇に挟む。
バレてないだろうか。そう思ったが、特に何も気づいてはいないようだ。
「さて、今日はパート全員で基礎練をしようか。先週はまともに楽器すら触っていなかったから、まずはそこからだ」
「ハイッ!」
『返事だけは一丁前なんだよなぁ……』
「はは、吹奏楽部は挨拶と返事が一番大事って聞くからね。むしろ元気でいてくれた方が、こっちも元気が出てきてありがたいよ。さ、行こうか」
ニコニコと神埜は笑いながら歩いていく。「安城、気をつけた方がいいよ」とコソッとやよいが耳打ちをする。
「え、どういうことデスか」
「有剛は基礎練であろうとなんであろうと、色々と厳しいから……まぁ、あいつの言ってることは半分冗談だし、肩の力を抜いて、言われたことを守ってさえいれば何も言われることはないからね」
「は、ハイ……?」
やよいの言っている事が分からず、首を傾げる菫。その意味を思い知らされるのは、また次のお話。
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