第6話 音はね、

「はぁ……」

 夕飯を食べ終わり、風呂に浸かりながら菫は深くため息をついていた。ここ三日間ずっと「ふるさと」の歌の練習ばかりだが、やはり上手く歌えない。このままでは確実にまずいということは分かっている。しかし考えても考えても、解決策は見つからなかった。

「あっ、肩の力を……でもそう言われてもいきなりは出来ないヨ……」

 ほのかのアドバイスも方法が分からず、途方に暮れていた。いいな、みんなは歌えて、と、少しばかり他人を羨んでしまう自分がもどかしい。自分でなんとかしなくてはいけないのに、なんとかする以前の問題で行き詰まっているようじゃ、音楽の世界は厳しい。

「……こんな練習、本当に意味があるのかナ」

 ザバッと風呂場から出て身体を拭いていると、「菫〜、ここに着替えおいておくからね〜」と母、安城藍那あんじょうあいなの声がした。

「ありがとう、ママ」

 そういえば、母親も同じ吹奏楽部だったと聞いている。今菫が使用しているビュッフェ・クランポンのクラリネットは、元は彼女の母親が使用していたものなのだから。

「ねぇママ、ひとつ聞いてもいい?」

「あらなぁに? 菫から聞いてくるなんて、珍しいじゃない」

 菫と同じ紫色の髪が揺れる。安城藍那は、菫をまんま大きくしたかのような姿であり、親子揃って瓜二つな見た目をしている。姉妹と間違えられることもよくあり、菫はそんな藍那が好きだった。学生時代はよくモテていたようだが、ルーマニアからの留学生である父親と高校生の時に同じクラスになり、そのまま付き合い、結婚し、菫が産まれたという経緯である。

「吹奏楽部で、歌の練習をしているの。でも全然上手く歌えなくて……どうしたら上手く歌えるようになるのかナ?」

「まぁまぁ、思春期らしいお悩みねぇ。任せなさい、お母さんがしっかりカッチリ聞いてあげるわよ!」

 ドヤ顔で言う母親に「しっかりカッチリって、どこのアニメから取ったんデスか……」と着替え終わって髪の毛を拭きながら呆れ顔の菫。

「そうねぇ、お母さんも歌には死ぬほど悩んだわぁ。死ぬほどね」

「なんで二回言ったノ……」

 藍那はたまに役に立たない。ドジで天然な、可愛い母親だ。だがそれが逆に仇になって、お悩み相談をすれば素っ頓狂な答えが返ってくることもあって、正直頼りにはしていなかった。

「ねぇ菫、今は何を練習しているの?」

「え? ふるさと……」

「そう、「ふるさと」! うさぎ美味しいかの山の、「ふるさと」ね!」

「「うさぎ追いし」かと……で、それがどうかしタ?」

 半ば半分話を聞いていない菫に「もうっ、藍那ちゃんのお悩み相談室は始まったばかりよ!?」とぷんすこし始める藍那。こうなると、全て話さないと終わらない。

「懐かしいわねぇ、お母さんも練習してたわよ?」

「え、ママも?」

「えぇ! 確か楽譜がどこかに眠ってたはず……お母さんのお部屋にいらっしゃいな、きっとお宝が見つかるわよ〜?」

 そうしてパタパタと走っていってしまった藍那を、菫は慌てて追いかける。考えるより行動派なところは、菫とよく似ているところなのかもしれない。

 藍那の部屋のドアを開けると、シンプルな空間が広がる。藍那の部屋に入ったことの無い菫は、少しだけドギマギしていた。「菫、おいで〜」と藍那の声がして、部屋のドアを閉めて駆け寄ると、既に様々な楽譜が辺りに散らばっていた。

「うそ、これ、全部……?」

「そうよ〜? ワタシも吹奏楽部だったんだもの、色んな曲やったのよ? えぇと、ふるさと、ふるさと……あっ、これこれ!」

 そうして藍那が手に取ったのは、少し古びた一つの楽譜。紙自体は日焼けこそしていないものの、やはり年代を感じさせる手触りだ。

「はいこれ、菫に贈呈いたします!」

「ふるさと」そう書かれた楽譜を渡され、「へ、ゾウ……なにその単語」と困惑しながらも菫は受け取る。

「贈呈よ、贈呈! 贈って呈するって書いて、贈呈! つまりはまぁ、敬意を表してあげるってこと!」

「な、なるほど……ありがとう、ママ」

 楽譜をよく見てみると、所々丸がつけられていたり、「まっすぐ」「伸びる」「だんだん大きく」など、五線譜よりも多くたくさんの文字が書いてある。その一番右上には、「よく出来た!」「はなまる」「才能あり!」「こいつはヤバい」と、それぞれ違う自体でそう書かれていた。

「あら、先輩のお褒めの言葉もあるわねぇ、懐かしい」

「あ、これ、先輩方の字なのね……」

 すごく、褒められていたのだろう。私もこんな日が来るだろうかと、菫は少しだけ母を羨ましく思ってしまった。

「ありがとうママ、ワタシ頑張ってみる」

「うんうん! さすが私の娘! あなたは特徴的な声をしているから、歌の業界で重宝されるわよ!」

 楽譜を片付けながら、藍那はニコニコと笑う。そのうちの一枚が、はらりと音を立てて床に落ちる。拾い上げた菫は楽譜を見て、「アルセ……ナール?」と口にする。

「あら、懐かしいわねぇ。アルセナール、聴いたことない?」

「無い……どんな曲?」

「そうねぇ、お母さんのお母さん、つまり、菫のおばあちゃんが中学生の時にコンクールで吹いた曲よ」

「えっ、グランマも元吹奏楽部なの!?」

「そうよ〜? 楽譜は流石に私が吹奏楽部だった時に貰ったものだけど、おばあちゃんも同じクラリネットパートでね。楽譜を見せてもらった記憶があるわぁ、懐かしい……」

 ほらこれこれ、と、藍那は楽譜の束の中に入っていた一つの写真を見せる。そこには、「第70回北海道吹奏楽コンクール 金賞 〇〇中学校」と下に書かれた2L判サイズの写真に、半円形状を描くように並べられた席で色とりどりの楽器を吹く生徒たちが並んでいる。そのうち、指揮者から見て一番前の真ん中より少し右側の席に、長く艶のある黒い髪を束ねた女性がクラリネットを吹いている。藍那はその者をさし「ほら、これおばあちゃん」と笑った。

「グランマ、黒い髪の毛……?」

「そうよ? おばあちゃんは黒い髪の毛なの。お母さんのこの髪色はおばあちゃんのお母さん寄りなのよ」

「グレートグランマの髪色だったか……」

 ふふっとまた笑い「菫、よく聞いてちょうだい。これはね、おばあちゃんによく教えられていたことなの」と菫の肩に両手を置く。

「音はね、誰かに何かを伝えたい時に使うものなの。ただ自分の思うがままに奏でるのも一つの音かもしれないけれど、それは音であって音じゃない。思いがこもっていない、ただの歌に過ぎないの。

 だからね菫、あなたは誰かに何かを伝える思いを持って音を奏でなさい。それはきっと、誰かの心を動かして、誰かの生きる道筋になって、誰かを笑顔にさせることが出来るのだから」

 音を奏でるということは、その音に羨むことじゃなくて、自分が奏でる音で誰かがそれに憧れるような存在になるってこと。自分がやりたいことと、音を奏でるということは、確かに似ているのかもしれない。

 数日前にほのかが言っていたことと似ているなと、菫は感じた。

「そうそう、ふるさとを歌うなら、自分の故郷こきょうの情景とか思い浮かべるといいわよ! 小さい頃はルーマニアにいたんだから、それを思い浮かべながら歌ったらちょっと恋しくなるかもね」

「.......うん、ママ」

「よしよし。あなたならきっと、いいクラリネット奏者になるわよ!」

 ニコニコとしながら菫の頭を撫で、「なんなら、今から練習するー?」と菫の手を引っ張る。

「わ、わ、いいの?」

「もちろんよ! こう見えてもお母さん、ボイストレーナーの経験だってあるんだから!

 まずはお腹に手を当ててみて。みぞおちより下ら辺から、内蔵を丸ごと持ち上げるイメージで力を入れるの」

「内蔵を……丸ごト…………????」

「イメージよ、イメージ! で、声を出す時は喉からじゃなくて、お腹の底から声を出すイメージ!」

「イメージばっかり……」

「そうよ? 音楽はイメージが大事なの。イメージが出来ないと歌えないわ。ほら、ここに書いてるでしょ?」

 楽譜のことあるところを指さす藍那。そこには「自分の故郷」「イメージする」「穏やかで田んぼが広がっている」「そよそよしてる」他にも色々なことが書いている。

「この「ふるさと」を作った人は、当時どんな気持ちでこの曲を作ったのか……そう考えるの。それを自分に当てはめて、この人が想像した「故郷ふるさと」を、自分だったらどう想像するのか……それを考えればいいのよ。菫、少し目を閉じてご覧?」

 言われるがまま、菫は目を閉じる。すると藍那がふるさとを歌い始めた。綺麗な旋律、どこまでも響き渡りそうな、透き通ったメロディ。

 ふわりと、田んぼの風景が菫を包む。山があちこちに広がり、どこからか藍那の声が聴こえる。成長した大人が故郷に帰ってきた時に口ずさむ、懐かしんだメロディのような、でも逆に、子供が無邪気に歌っているような、そんな声。どこまでも続く一本道は、きっと終わりのない夏の蜃気楼のように、ずっと、ずっと。

「思い浮かんだ?」

 ハッと現実に戻される。藍那がニコニコ笑いながら「その様子だと、コツを掴んだみたいねぇ」と菫の頭を撫でる。

「菫の思うがままに歌えばいいの。お母さんは田舎育ちだから、田んぼとかそんなのしか思い浮かべられないけれど、菫はもっと色んな景色を知っている。ルーマニアの華やかな景色を思い浮かべたら一撃よ!」

「一撃って……」

 藍那の抽象的な一言に、菫はまた呆れ返る。

「あとね、菫は声に力が入りすぎちゃってるの。優しく優しく、楽譜を手でなぞるような感覚で歌うといいわよ」

「楽譜を、手で……」

 そう言われ、菫は楽譜を手でなぞってみる。ザラザラとした紙の感触が手に伝わる。

「今の菫はきっとね、その楽譜を破く勢いで歌っているのよ。音は鋭いナイフじゃないの。確かにそういうアニメもあるかもだけれど、それはまた別のお話。音は「風」なの。どこまでも続いていって、そして素知らぬ誰かにいつの間にか届いている。それが音なの」

「音は……風…………」

 そういえば、と思い出す。ほのかがオーボエを吹いている時、周りには常に蒼い風が吹いているように見える。彼女自身が「音」だと言いたいのか、それとも他にも何か理由があって見えているのか……それは分からないが、彼女のオーボエの音は聴いていてどこか懐かしさを覚える柔らかい音だった。

「……そうか。ワタシの歌声、荒い風だったんダ」

 菫は自分がどうしてあんなに音程が取れなかったのかがようやく分かった。

「ママ、ワタシのふるさと、聴いてもらってもいイ?」

「もちろんよ。お母さんは目を閉じてじっくり聴いてるわねぇ〜」

 そういい、藍那は目を閉じていつでもこい状態になる。

 頭の中に、音という「風」を奏でながら、菫はそっと歌う。ルーマニアという故郷ふるさとを思い浮かべ、ルーマニアで過ごした時に楽しかった思い出、泣いたこと、辛かったこと、何もかも全部、歌に乗せて。

「……ほぉら、もう大丈夫」

 藍那が小声で、そうポツリと呟いた。


 ***


「さて、安城。土曜日、日曜日と挟んだけど、ちゃんと歌えるようになったかな?」

 次の週の月曜日。神埜がメトロノームを手に持ち、菫を見る。

「お任せあれ! ちゃんと練習してきまシタ!」

「お、威勢がいいねぇ〜! 安城、どんな特訓をしたんだい?」

『特訓.......?』

「ヅカ先輩、今日のワタシはちょっと違いマスよ! というか、大分違いマス! お母さんに褒められたくらいデスから!」

 ふんすとドヤ顔をする菫。手には藍那から貰った「ふるさと」の楽譜がある。

「おお、お下がりの楽譜かい? これはまた色々書いてるねぇ」

 神埜はふっと笑い「じゃあ、見せてもらおうか。箕輪、メロディーをmpメゾピアノで頼めるかい?」とメトロノームの針を動かした。カチ、カチ、カチ、と美術室に音が響く。窓を開けると、少し暖かい風が吹き、まだ溶けきっていない雪が見える。

 目を閉じ、藍那が言っていた、「故郷」を思い浮かべる。菫は父親の仕事の関係で、小学校五年生までルーマニアのトランシルヴァニア地方にいた。日本よりもルーマニアの景色の方が思い浮かべやすい。

「1、2、3、1、2、3」

「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー……」

 菫の歌声が響く。それは先週とは違い、音程も声質も安定している。

 帰れるなら、帰りたい。ルーマニアはいい所だ。空気も美味しい、自然はのどかで、森も多い。菫はそんな故郷ふるさとが大好きだった。

 ほのかはオーボエからそっと口を離し、目を閉じて菫の歌声を聞きはじめる。神埜も一緒に歌うのをやめ、二人で顔を見合せてふふっと笑った。

「わーすーれーがーたき、ふーるーさーと……」

 菫が歌い終わると、真っ先に拍手を送ったのはほのかだった。『すごく良かった。先週とは大違い』とべた褒めしている様子だった。

「ほのかぁ……!」

『何をどうしたらこんなに上手くなるのかがすっごく疑問だけど……』

「良かったよ、安城。声も安定していたし、震えも少ない。一体どんな入れ知恵をされたんだい?」

 神埜にそう聞かれ、「お母さんが教えてくれまシタ! 声の出し方から、ブレスのタイミングまで!」と胸を張る。

「母親? 君の母親は、ボイストレーナーかなにかなのかい?」

「ハイ、経験があったみたいで」

「安城、安城……どこかで聞いたことがあるような……」

 やよいがうんうんと考えているのを横目に「まぁでも、すごく良くなっていたよ。ほのかはどうだった?」と長文感想を打ち続けているほのかに問いかける。えっ私? の顔をしたほのかは端末を指でコンコンと触り、打っている途中だということを伝えた。

「OK、伝えたいことが沢山あるみたいだね。私は安城が歌っている時に、風景がちゃんと見えたんだ」

「ど、どんな景色でシタ?」

「そうだねぇ、レトロな街並みかな。オレンジ色の屋根が沢山見えた。山も近くにあって、大きな城も見えたよ」

「……!」

 予想通りだ。菫は内心ものすごく喜んでいた。自分が思い浮かべている風景を伝えることが出来たのだから。

「そ、それ、ワタシの故郷こきょうなんデス!」

「おや、そうなのかい? あんなレトロな街並みに住んでいたなんて、どこの外国だい?」

「ワタシの故郷こきょうはルーマニアデス。最近帰れていませんが、あっちにはグランマとグランパが住んでいマス」

「ルーマニア! ドラキュラの聖地じゃないか! ということは、私が見ていた城はエリザベートの?」

「ノンノン、あれはニートテ地方のチェイテ城デス。ワタシの故郷はトランシルヴァニア地方なので、コルビン城の方かもデスね」

 ほのかが打ち終わったようで、バッと端末を見せてくる。そこには長文の感想が書いてあり、「うわっ、吹奏楽部特有の長文感想! 曲とか聴いた時になるやつ!」と神埜が少し引き気味に言う。

「あぁ!! 思い出した!」

「うわっ! 今度は君か、鬼塚! 一体どうしたって言うんだい?」

「思い出したんだよ、安城って人! 歌声が透き通ってることで「戦場の歌姫」とまで言われた世界的に有名な安城藍那先生! あんたそれの娘さんなの!?」

「へ、お母さんそんな人だったんデスか」

『知らなかったの!?』

 藍那は音楽大学を卒業後にボイストレーナーとしても活動していたと、菫にもよく話していた。しかしそれだけではなく、昔は全国ツアーや海外でライブしたりなど、藍那自身も歌手として飛び回っていたのだ。

「安城……ああ、なるほど。昔は「藍」って名前で活動していたみたいだねぇ」

「え、知らないんデスけど」

『知らないの……』

 とんでもない人の娘が来たものだと、やよい達は心底驚いたのであった。

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