この夏に飛ぶ

太田肇

第1話

金曜日の七限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。すべての授業が終わった。教室が騒がしくなる。外は土砂降り。夏らしい夕立だ。


「凪ちゃん。もう遺書は書いたの」

「ううん。まだ。家に帰ったら書く予定だよ」

「忘れないようにね。私はもう書いたよ」

「どんなこと書いたの」

「ふふっ。内緒だよ。だって恥ずかしいもん」


 私はこの子と心中する。そう、死ぬのだ。きっと明日の今頃には水死体になっているだろう。


「それじゃあ、明日、あの橋のところで待ち合わせね」

「うん。寝坊したらごめんね」

「そのときは電話でたたき起こしてあげる」

「お願いします。それじゃあ私は帰るね。また明日」

「はーい。ばいばい」



「ただいま。お母さん」

「おかえり。雨、大変だったでしょ」

「ううん。自転車は学校に置いてバスで帰って来たから」

「そう。濡れたもの、早めに洗濯機に入れといてね」

「わかった」


 少し型崩れしたローファーを脱いで奇麗に揃えて並べた。そして言われた通りに、洗濯機のある洗面所に向かった。濡れた靴下が気持ち悪かった。私は廊下に足跡を作った。


 靴下、ひざ丈まで折られたスカート、肘のところまで捲られたワイシャツを脱いで洗濯機に入れた。その下着姿のまま、ぺたぺたと足音を立てながら階段を上って私の部屋に戻った。


 リュックを置いて、部屋に入って正面に在る、私が小学生のときから使っている赤い椅子に腰を下ろす。私はお気に入りのこの椅子に座りながら部屋を見渡した。見慣れた光景だ。十七年もここに住んでいるのだから当然だ。今日だってそうだ。当たり前の日常を、青春を謳歌した。普通に生きた。それが私には俗っぽく感じてならなかった。


 机の引き出しから草臥れた一葉の写真を取り出した。私が小学校に入学したときの家の前で撮った家族写真だ。お父さんとお母さん、そして私と、年子の妹が手を繋いで写っている。あの頃は毎日が希望に満ち溢れていた。何をするにしても新しいことで驚きや発見が尽きなかった。キラキラとした胸を熱くする輝きが、今でもこの写真を見ると蘇る。


 写真をそっと引き出しに戻した。父から高校の入学祝でもらった黒のボールペンとルーズリーフを机の上に置いた。



 私には死ぬ理由はありません。学校生活は充実しているし、友達だって多くはないけど、信頼できる人がいます。十年続けている陸上も、あんまり得意じゃない勉強も、苦しいときもあるけど、何やかんやで楽しいです。


 ただ、生きる理由もありません。最近、なんで生きているんだろうって考えるようになりました。私はその理由を見つけられません。私は普通の人間で、何かの才能があったりするわけでもないので、これからずっと代り映えのしない生活をすることになると思います。なら、いっそのこと、私が一番可愛い、私が少女である今のうちに死んでしまったほうがいいって思うようになりました。今、このときを逃してしまったら、生き続ける決意をしなければならないと思います。この何も変わらない日常を、これからもずっと、私は生き続ける決意をすることができないので死ぬことにしました。


お父さん、お母さん。今までありがとうございました。私がここまで成長できたのはお父さんとお母さんのおかげです。喧嘩したりすることもあったけど、私はとても幸せでした。二人の子どもとして生まれてきてよかったって心から思います。先立つ不孝をお許しください。

 汐浬ちゃん、情けないお姉ちゃんでごめんね。最近、お父さんが帰りが遅いって心配していました。遊ぶことも大事だけどあまりお父さんとお母さんを困らせないようにしてください。あと、この間もらったクッキー凄く美味しかったよ。



 「凪ちゃん、ご飯だよ」


 お母さんに呼ばれたので階段を下りて居間へ向かった。夕飯は親子丼だった。 汐浬ちゃんの大好きな食べ物だ。


「お父さん、おかえり。今日は早かったんだ」

「あぁ、早く家に帰りたくて頑張って仕事を終わらせたよ。もう、くたくただ」

「お疲れ様です」


たしかに、いつもより皺が一、二本多く見えた気がした。


「汐浬ちゃんはまだ帰ってきてないの」

「うん。なにやっているんだか」

「そっか……」

「なにか用でもあったのか」

「いや、特にないよ。いつものことだし」


 お母さんが私とお父さんの箸を並べてくれた。


「いつ帰ってくるのかわからないし、冷めちゃうから先食べちゃいましょう」

「そうだね。いただきます」


お父さんはどこか淋しそうにしていた。


「きっと汐浬ちゃんは友達とカラオケにでも行っているんでしょ」

「歌うこと昔から大好きだもんね」


 そう私は答えたが、そうでないことを私は知っていた。そのあとも、いつものように学校であったことの話や、テレビをみながらあーだの、こーだのと雑談をした。いつも通りの夕食だった。


 夕食を食べ終わった後、お風呂に入って、歯を磨いた。ふと鏡の中の自分をみた。少し丸みを帯びて女性らしくなった体が、だらしなく見えて嫌だった。私には歳を重ねる度に少しずつ醜くなってくようにしか思えなかった。


 私の部屋に戻ろうとしたときちょうど汐浬ちゃんが帰って来た。


「おかえり」

「お姉か。ただいま。お母さんだと思って怒られるかと思ったよ」

「お母さんが親子丼、冷蔵庫に入っているから、まだ食べてなかったら食べてだって」

「やった。後で食べるね」

「うん。私は寝るから。おやすみ」


 部屋に戻って濡れた髪まま、ベッドに寝転がった。蒸し暑い。どうにも髪を乾かす気力がわかなかった。天井には中学生だったときに描いた星座の絵が画鋲で留めてあった。私は星が好きだった。今はそのときめきもなくなってしまった。



 少し背の高い雲がぽつぽつと、青の中に浮かんでいた。アスファルトの上の水たまりに、まだ一番高いところまで昇り切っていない太陽が反射していた。私は予定より少し早く着いた。橋は水面から三十メートルくらいあった。川は幅が広く、二百メートルくらいあった。川の底は水が濁っていて見えなかった。


 暫く経って、彼女がきた。白いワンピースを着て、赤い紐の白いサンダルを履いていた。とてもよく似合っていた。


「凜ちゃんおはよう。良い天気だね」

「おはよ。でも、ほら見てよ。川がすごいことになっているよ」

「昨日は結構降ったからね。まだ水が引いてないみたい」

「まさに絶好の心中日和だね」


 彼女は笑っていた。私は彼女が死にたいと思う理由を知らない。それで良いと思うし、これから聞くつもりも無い。そして彼女に対するこの思いを打ち明けることも、もう無いだろう。


「そう思えば何だけど、なんで凪ちゃんは死のうと思ったの」

「凛ちゃんに一緒に死のうって言われたからだよ」

「えっ。そうだったの」

「うん。でもその言葉に救われたよ」

「そっか。ありがとう凪ちゃん。大好きだよ」


 そういうと彼女は小さな手提げの鞄から、薔薇のような深い深紅の紐を取り出した。


「これ、手に結ぼう」

「いいよ」


 私は右手に、彼女は左手に紐を結んだ。きつく、固く、決して外れないように結んだ。


「これで一緒に死ねるね」


 彼女は微笑んだ。


「凪ちゃん、それじゃあ行こうか」

「うん。また来世でも会えるといいね」

「そうだね。きっとまた親友になるよ」


 私たちは橋の真ん中まで移動した。そして、私の肩の高さくらいある欄干を、落ちないように二人で慎重に乗り越えた。


「あはは。何とかなったね」

「飛び降りる直前で結べばよかったね」


「それじゃあ面白くないでしょ」と彼女は呟いた。どんな意味を込めて彼女がそう言ったのか私には分からなかったが、少しだけ嬉しかった。


 橋の欄干の外側から見る世界はとても広く感じた。さっきまでは無かった飛行機雲が遠くに伸びていた。夏の匂いが、ぬるい風に乗せられて旅をしていた。欄干に巣を作っていた女郎蜘蛛が揺れる。どんなに醜いものも、今なら美しく見える気がした。茶色の水面に映った私たちがとても、とても小さく見えた。


「何だか劇的だね。凪ちゃんもそう思うでしょ」

「うん。こんなのテレビでしか見たこと無いもん。私、今すごくワクワクしてる」

「私たちもテレビに出るかな」

「きっと報道されるよ。女子高校生、心中ってね」

「私たちの生きた証の一つになるかもね」

「人は二度死ぬって言うけれど、私たちは一回で済みそうだね」

「なんだそれ」


 きっと彼女は誰かに認めて欲しいのだと思う。私はそのことが悔しかった。


「凛ちゃん。私を誘ってくれて本当にありがとう。出会ってくれてありがとう」

「私こそ、ありがとう」


彼女は女神のように微笑んだ。


「それじゃあ、行こうか」

「一緒に、一緒に、行こう」

「いっせーの」


 私たちは飛んだ。鳥のようにとはとても言えないが、紛れもなく飛んだ。今この瞬間は、全てから解放されて、自由になった。臓物が持ち上がる、あのジェットコースターで味わう浮遊感がした。勢いよく水に飛び込む。そして沈む。どんどん沈む。途轍もない速さで流されているような気がした。


 少し苦しくなってきたとき、私の右手が暴れ出した。正確には、私の右手と結ばれた彼女の腕が暴れ出した。上へ、上へもがいている。今、彼女は捨てたはずの生にしがみつこうとしていた。姿は見えなかったが、もがき、苦しむ彼女を私は美しいと思った。私も急に辛くなって上へ行こうとした。どうにかしようと動けば動くほど体は沈んだ。私は水を飲んだ。砂なのか、土なのか、木片なのか分からないが水は重く、ザラザラして、そして甘かった。



 気がつくと真っ白な紙に黒のインクをぶち撒けたかのような天井の部屋に仰向けで寝ていた。私には呼吸器が付けられていた。体は動かなかった。夢でも見ている気分だった。右手には、結ばれていた紐の痕がくっきりと付いていた。この痕は、もう二度と消えない気がした。


「凛ちゃん。どうして。どうして言ってくれなかったの」


 カーテン越しの、隣のベッドで誰かが泣いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この夏に飛ぶ 太田肇 @o-ta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ