警戒線5

 小野が帰庁して2日が経過。中1日は特に何も起こらないまま過ぎ去った。その間、伊達署署長と消防本部長による避難計画の立案もある程度は進んだ。続いて県警機動センターから航空隊の人員半数とヘリ1機分の資機材を福島北警察署に移送。そこから数キロの場所にある阿武隈川沿いの公園にヘリポートが設置されており、ここを一時的なヘリの拠点として使う準備が整った。

 本心を言えば伊達署の近くに球場やフットボール場を備えた大きな公園があるためこっちを拠点にしたかったのだが、大々的に動ける訳でもないので取りあえずの措置と言った形である。最もこれは事態が公になれば現実出来る可能性が高いので今は我慢の段階だ。

 同様に通信回線の不通に備えて衛星通信車等の準備を考えるも、これは地方整備局が管理する車両のため手出しが出来ない。変に話しを持ち掛ければ国交省に飛び火する可能性もある。


 県庁では相馬知事によって関係機関の人間が集められ避難民の受け入れ先や衣食住に関連する突っ込んだ話も行われていた。便宜上、国民保護訓練の実施に関する調整として設けられた集まりだった。

 表面上は色々と軌道に乗り始めていた。しかし、事態はある意味で予想されながら誰も望まない方向へ転がり出す。1日休んでそれなりに回復した芳村が物々しい空気で満たされる伊達署へ登庁した直後に、県警本部の堂本から電話が入った。

「課長、堂本警視です」

「一課長?」

 最初に電話を取った松山が保留を押した。その番号を確認した芳村は受話器を持ち上げて保留解除ボタンを押す。

「芳村です」

「朝早く済まん。一昨日の接触がネットニュースに流れた。銃対が1匹を射殺してその後に鑑識が来る所までが動画投稿サイトに上げられてる。SNSも大騒ぎだ」

「……まぁ、全く予想してない事態ではありませんが」

「問題はこれを知った察庁が何か言って来る可能性が高い事だ。まだ何も伝えてないからな」

「面倒になりそうですね。今からでも行きます」

「こっちは取りあえず8時半に集合を掛けた。遅くなってもいいから取りあえず来てくれ。さっきから悪戯かどうか分からんが問い合わせの電話ばっかりだ畜生」

「分かりました」

 受話器を置いて盛大にため息を漏らす。人の口に戸は立てられぬと言うが、現代人は目の前で起きた事や見聞きした事をネットに流さずにはいられない生き物なのだろうか。

 だがこれは考えようによってはチャンスとも言える。コソコソしたり裏から手を回す方法に脳のリソースを振り向ける手間が省けるのだ。大っぴらに警備部隊を動かせる上、大規模な事前避難も可能だ。諸手を上げて陸自を迎え入れる事だって出来る。

「松山警部補。申し訳ないが、まだ課長代理を頼む」

「はい。こちらはお任せ下さい」

 一旦は机に置いた鞄を手に取り、芳村は外に出て行った。それを見送った鈴森は目線を携帯に落とす。口を開けば何かしら不平を吐き出している鈴森がやけに静かなのが松山の気を引いた。

「何を見てるんだ」

「シェイクスピアですよ」

「シェイクスピア?」

 凡そ彼の口から出て来るとも思えないその言葉に松山は素っ頓狂な声を出した。

「今が最悪の状態と言える間はまだ最悪の状態ではない。どう思います」

「……難しい質問だな。例えば、この刑事課フロアの手前まで例の生物が何匹か迫っているとする。これは確かに最悪の状態だが、その言葉を使うのであればまだ最悪の状態ではない事になる。真に最悪の状態ってのは、食われてる最中か」

「是が非でも御免被ります」

 それはそうだ。誰だってそんな目に遭いたくはない。自分たちが矢面に立たざるを得ない現状を考えれば当然の事である。特に鈴森は伊達警備隊として分隊を率いる身だ。本人としては未だに分隊長の件を承諾した覚えはないと言い張るものの、自分や後輩の死は考えてしまう事の1つと言えよう、


県警本部

 駐車場に車を停めた芳村は刑事部を訪れた。しかしそこに堂本の姿は無かった。石和田二課長からさっき第1会議室に行った事を伝えられる。

 エレベーターに乗り込んで上階を目指した。第1会議室の扉を開けて中に足を踏み入れる。既に大体の面子が揃っており、正面のモニターには警察庁長官こと向井田むかいだ氏が映っていた。入って来た芳村を堂本が出迎えて隣に座らせる。シミュレーションの時よりも張り詰めた空気。芳村は小声で堂本に話し掛けた。

「……面倒な事になりますか」

「今、本部長が応対している。終わるのを待つしか俺らには出来ない」

「例の動画、署を出る前に見ました。森を背にした住宅から見て向かい側の家から撮ってますね」

「一課から4人ばかり差し向けた。名簿上では既に自主避難している可能性が高い。一応、地区会長の方に避難先の住所は告げておく事にはしてあるが、何かの罪に問えるかと言われれば微妙な所だ。銃対は全員バラクラバだし鑑識もマスクと帽子で完全に素顔は出てない。そっちの署員2名は顔が映ってるが別に非公開な情報でもないしな」

 全員に背を向けて単身でやり取りしている小野の背中に視線が集中している。必然的に芳村もその1人となった。

「今朝方からネット上で大きな騒ぎになっているこの映像は本当の事なのか?」

「はい。当県において発生した連続行方不明事件はご存知かと思われますが、その被疑者が体長約3m前後のムカデになります。行方不明者の数から推測して十数匹ないし、数十匹が森に潜んでいる可能性が高いと判断しました。厳重なる警戒を続けております」

「なぜこちらに報告しなかった」

「報告が遅れた事は事実ですので弁明は致しません。ですが、報告が早く上がっていたとして、長官は信じられましたか?」

「……それは何とも言えない所だな」

「ですから私共はまず独自に態勢を整える事を決めました。何かしらの指示や決定を待っている間に最悪の事態が起きて被害が拡大すれば、誰の責任でしょうか」

「少なくとも君が全ての責任を負う必要はあるまい。だが、県警としての方針は尊重しよう。それと現状で最大の問題点、生物による被害が現実に発生している事を公式な情報にするか否かを話し合いたい」

 避けては通れない道だ。一気に出現したのなら否応にでも認めさせる事は出来る。しかし、相手はたった1匹だ。これを含めても計4体の存在を確認しているが、数十匹や十数匹と言ったのは可能性の話しで、実際にそれだけの数を目視なり映像なりで見つけた訳じゃない。

 こればかりは災害に備えるのと同じ思考が必要になる。起き得る事を考え、最大限備えるしかないのだ。

「取れる選択肢は1つでしょう。こうなった以上は隠し通せるものではありません。存在を認め、甚大な被害が起きる可能性があると発表して良いかと」

「それで取り越し苦労になったらどうする」

「取り越し苦労を恐れてたら二機招集には踏み切りません。こちらの独断で事を進めましたが、宮城県警には既に応援の協力を取り付けました。それと仙台駐屯地にも打診済みです」

 向井田長官の顔が険しくなった。まさかそこまで根回しをしていたとは思わなかったらしい。隣県への協力要請ならまだしも、陸自にまで声を掛けていたのは想定外だろう。

「……何をしているか自覚はあるか」

「あります。あるからこそです。これは警察が対処出来る事案ではありません。自衛隊が完全に対処可能とも言い切れませんが、警察が変に意地を見せる必要もありません。互いに線引きを行った上で共同対処するのが現実的かと」

 5分程度の沈黙が続いた。向井田長官は額に手を当てて俯いている。何度か頭を掻いた後でようやく顔を上げた。

「取り急ぎ警備局から一課と三課の人間を向かわせる。常識の通用しない相手にどれだけ対処が出来るか分からんが、よく連携して当たってくれ。その前に事が起きた場合は必要な措置を取って構わん。多少なりとも非合法な手段も認めよう。県民の保護は急務だが、そこに赴く警察官の安全にも気を配って欲しい」

「承知しました」

「これから国家公安委員会に掛け合う。内閣の決定を待っていたら動くモンも動かんだろう。管区局長にも山形、岩手両県警へ根回しをするように連絡する。関東管区は茨城、栃木、群馬。中部管区は新潟に対して通達を出す」

 向井田がそこまで言った所で、第1会議室の扉が勢いよく開いた。全員が振り返るとそこには通信指令室長が居た。

「通報4件入電。1、窓が液体で溶かされた模様ですがそれ以上の被害はなし。2と3、玄関を開けたら目の前に巨大なムカデ。4、庭先にムカデが2匹」

「何所からの通報だ」

 警備部長が立ち上がった。声色は冷静に見えるが、立ち上がった時の速さは尋常ではない。

「1と4は森を背にした住宅にまだ残っていた住民です。2と3はその向かい側」

「向井田長官、これから対処に入ります。間に合う事を祈ります」

「官房長官にも声を掛けた方が良さそうだな。あまりにも危険そうな場合は距離を取るんだぞ」

「はい、それでは」

 テレビ会議の回線は開かれたまま、小野本部長を始めとした全幹部はテーブルの位置を変えて座り直した。ここからどうなるか。見極めが重要である。


福島駐屯地 第44普通科連隊本部

 時間は少し戻る。隊員の登庁直後から連隊本部の空気は俄かに張り詰めていた。皆、自身の携帯から目を離そうとしない。昨日に仙台の方面総監部から通達されていた件はこれの事を示していたのだと、連隊幕僚たちは確信した。

 予定していたスケジュール等を一部変更、または取り止めを行い、連隊長室へ幕僚が一堂に会する。

「急な参集で済まない。既に状況を把握していると思うが昨日に方面総監部から下達されていた件について部隊方針を取り纏める事にした。取りあえず1個中隊を即応態勢にとの内容だったが、目標の脅威度を考え全中隊がいつでも動けるようにしたい。そこで問題になるのが、どれぐらいで準備が整うかと我々の介入するタイミングだ」

 連隊長室に集まったのは連隊長兼駐屯地司令の斎木さいき1佐を始めとして副連隊長の渋谷しぶや2佐。そして1科から4科までの各科長たちである。

「人数から考えて3中隊が最も充足率が高くあります。他は有給、代休、慶弔等で少し穴がありますね。それと2中隊長は手術を控えていますので呼び出すのは無理です」

 渋谷2佐が連隊の現状を伝える。第2中隊長は自宅の階段で足を踏み外して転げ落ち、足の骨を骨折していた。プレートを用いる手術のため術後もリハビリが必要だ。復帰までは暫く掛かる。

「そうか、明日だったな。となると3個中隊か。2中隊は後詰として考えよう」

 ここで連隊長席の電話が鳴った。受話器を持ち上げた斎木の口調から、恐らく相手は方面総監だと全員が予想する。

 電話での会話は10分程度で終わった。受話器を戻した斎木がこちらを振り向く。

「方面総監だ。船岡から弾薬がこちらに向かう。悟られないよう、数回に分けて輸送するそうだ」

「この状況で悟られないってのはちょっと無理があるのではないでしょうか。否応にでも車両が出入りすれば目を引くかと」

 兵站を司る4科長が意見を述べる。確かにネットで情報が出回った以上、この駐屯地に対して注目が集まるのは避けられない。いくら地方とは言え、好き者も居るだろう。

「となれば準備に最短で1日、もしくは明日の昼頃とまで見るか。その辺は総監の采配次第だな」

「今の段階で警察に人員を送るのも難しいと思われます。有線で情報交換の段取りだけでも整えるべきでは」

「向こうさんがすぐに白旗を上げるとも思えん。最低限の事はするだろうが、こっちから申し出るのも変な話しだ。連絡があるまで待て」

「はっ」

 情報に関してを担った第2科長。思う所は全員同じだが、少なくとも要請があるまでは独自に動かない方が良い。それが連隊幹部の共通した考えでもあった。


 伊達署で待機していた銃器対策部隊は全分隊。一機も全小隊。県警本部で待機中の二機は2個小隊で合計5個小隊。機動センターで待機中のヘリも1機が飛び立った。伊達警備隊は鈴森分隊と滝口分隊1班2班が臨場。無線には現地で警戒中だった第3分隊、堂本の命令で動画が撮影されたと思われる家に向かった一課の刑事から情報が流れ始めていた。

「こちら刑事部一課の田村たむら警部補、路上にムカデ2匹を確認した」

「第3分隊より広域各移動、一課田村警部補と共にムカデ2匹を視認、十分な距離を取って警戒を続行」

「二機隊長古川ふるかわから臨場各小隊長へ。全分隊に対して発砲を許可する。危険な場合は躊躇うな」

「平山から鈴森並びに滝口警部に達する。同様に発砲を許可する。必要な時は構わん」

「こちら鈴森、感謝します」

「滝口です、承知致しました」

「航空隊あづま、地上監視の支援に向かいます」

「交機01から各移動、周辺道路封鎖に備え待機中」

「交機02、同じく」

「機捜11です、避難誘導支援のため急行中」

「北署待機班はこれより新田公園に向け移動を開始。あづまの着陸に備えます」

 これが長い1日の始まりかそれともまだ本番前の前座か。予想は出来ても断言が出来る状況ではなかった。県警としては一応の陣容が整っていても、万全ではない。いや、どれだけの応援が居た所で、誰にもそれが最善の状態とは言えないのだった。


――――――――――――――――――


補足


警察庁警備局警備第一課:主に機動隊の運用に関して指導、口出し等する

同第三課:ハイジャック、テロ、災害対策等を担当


各課を纏めて警備運用部と言う部署名だそうですが全部繋げると長いので割愛しました

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