第7話「記憶の齟齬」


「……僕を、救うだって?」


 声に出してみても意味がわからなかった。立夏りっかは僕を救いたいと言うが、一体何から救うと言うのだろう。

 辛い境遇や苦しい状況、危ない状態や悪い環境。今、そこにいる人しか救えない。でも僕はそうじゃない。僕は何にも困ってないのに。


「なんやわからへん、って顔してんな?」

「当たり前だろ、僕を何から救うっていうんだ? 僕は何にも困ってないんだぞ」

「ほんまに? ほんまになんにも困ってないん?」


 立夏は僕の顔を覗き込むようにして問う。でも心当たりなんてカケラもない。正直、今のこの状況は僕にとって満ち足りていたものだったのだ。少し前のクソみたいな人生には生きる意味なんて見出せなかったし、生きてることを楽しいだなんて思いもしなかったけど。

 でも、立夏と居るこの時間は悪くない。そう思えるようになっていたから。


 でも僕はそれを、立夏に言えるほど真っ直ぐな人間じゃない。性格が変に曲がってるのは自覚していたし、それに単純に恥ずかしいのだ。

 だから、立夏と一緒にいるから楽しいだなんて言えるハズがない。そういう意味でもう助かってるなんて、口が裂けても言えやしない。僕は気取られないよう、わざとらしく立夏に返した。


「……まぁ強いて言うなら。なつ10てんの最終巻がまだ読めてないくらいかな。あれを読むために僕は、立夏にここまで付き合ってんだから」

「なつ10てんか。あんたほんま好きやなぁ。まぁウチも正直、悪ないとは思うけどね」

「悪くないんじゃない、とても良いんだよアレは」

「あんた、イチオシや言うてたもんな。ほな、あのマンガでどのシーンが一番好きなん? 印象的というか、心に残ってるというか。そういうのあるんやろ?」


 それは難しい質問だった。なつ10てんは確かにガチのエロマンガだけど、印象的なシーンがたくさんあることも事実だ。マニアにとって、どれが一番だなんて簡単には選べない。あのシーンも良いし、あのシチュエーションも最高だ。それにあのセリフは心に響くものがある。なんて風に、良いところなんて挙げはじめたらキリがない。

 僕にとって「一番」はどれだろう。どこに最も心を揺さぶられただろう。しばし黙考してから、僕はゆっくりと言葉を紡いだ。


「好きなシーンはいっぱいあるけど、やっぱり一番ってなると夜の海のシーンかな。ヒロインが言うだろ。自分のしたいことをやり終えて、『夏ももう終わりだね』って少し寂しそうに笑うところ。ちょうどこんな感じで、高台から夜の海が見えててさ。二人の距離が物理的にも精神的にも近づいて、さらには綺麗な打上花火も上がって。あのシーンはとても印象的で……」


 そこまで言って気がついた。その状況は今、立夏と僕が過ごしているによく似ている、というか同じだ。あのシーンでヒロインは、ラムネのビンを夜空に透かしていた。そして、その印象的な仕草を目の前にいる立夏もやっている。あのシーンと全く同じように。


 なぜ僕は、今の今まで気が付かなかったのだろう。いや違う。そうじゃあない。とは、だ?

 あれだけ読み込んだマンガなのに、何巻のどこのシーンなのか出てこない。それでも僕は知っている。それが、なつ10てんで最も心を揺さぶられたシーンだってことを。


「……もうそろそろ気がつきそう、って感じやな?」

「待ってくれ、さっきから意味がわからない。立夏は何を言ってる? なんでラムネのビンを空に掲げてんだよ。それ……、どういう意味なんだよ」

「そのシーンの再現やん。夜の海と打上花火、近づく二人の微妙な距離。夜空に透かしたラムネのビンに、この夏を閉じ込める。これ、やで」

「いやだから、何を言ってんだって。僕はまだ最終巻を読めてないんだぞ、立夏のせいでな」

「いいや、あんたは読んだで。だから知ってるハズやねん。でもそれを忘れてるだけや。大事なこと、全部全部忘れてもうてんねん」

「忘れただって? そんな、そんなワケないだろ?」

「……なぁ、ウチとの出会いを憶えてる? 最初っから言える?」

「今度はいきなりなんだよ」

「ええから言うて。大事なことやから」


 強い口調に、僕は押し黙って考える。立夏との出会いをだ。もちろんそれはあの強盗事件に他ならない。フルフェイスヘルメットを被った立夏は、本屋の店主たる鈴木のジイさんに刃物を突き付けて「価値のあるもの」を要求した。そこに偶然居合わせた、いや居合わせてしまったのが僕だ。僕はそれを説明するが、立夏はやんわり首を振る。そして。


「ちゃうよ。あんたとウチが初めて出会でおうたんはそこやない。いいや、今のあんたにとってはそこかも知れんけど、ほんまはちゃうねん。そう言うたほうがええかな?」

「余計意味がわからない。わかるように言ってくれよ、立夏」

「──そやな、ほなこう言おか。なぁ、ウーパーイーツって、なんでもどこにでも配達してくれるん?」


 立夏は僕に向けてそう言った。確かに言った。でも、いきなりのことに僕はますますわからなくなる。ウーパーイーツ? それは僕のバイトだ。ウーパールーパーがマスコットの、フードデリバリーサービス。でもなんで立夏が知ってんだ? そもそも僕のバイトと今のこの状況に、一体なんの関係があるってんだ?

 ウーパーイーツは、注文されたフードを配達するだけの簡単なデリバリーの仕事だ。僕は確かにその仕事をしていた。配達態度に難があって、そろそろ契約を打ち切られそうになっていたけれど。

 でもそれは、今のこの状況とどう考えてもリンクしない。するハズがない。また黙る僕に立夏は続ける。まるでセリフを言うような、そんな芝居がかった口調で。


「──あんたに配達してほしいもんがあるねん。ウチ自身を、関西の海の街まで配達してほしい。この病院からウチを連れ出して、地元に帰してほしいねん。あんたはこの配達、受けてくれるかな?」


 その言葉を聞いて、僕はやっと思い出した。フラッシュバックだ。僕はその依頼を立夏から受けたことを憶えている。確かに憶えているのに、僕がからそれを受けた憶えはない。どういうことだ。どういうことなんだ。

 記憶がふたつあるのか? それとも僕は、最初の立夏との出会いを忘れているのか? いや違う。これはきっと──。


「今のウチのセリフで、全部思い出したみたいやな? あんたはこのセリフを、前に聞いたことがあるハズやで。いつどこでウチから聞いたんか、もう思い出せたやろ?」


 そう言った立夏は。やっぱり不適な笑みで笑っていた。



【続】


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