見えない道の先に

秋雨千尋

冬の奇跡

「冬の間だけ、見えない道が現れるんだって」


 三年の付き合いになる彼氏が、雑誌を片手に楽しそうに呟く。

 私はあくびを隠してテキトーに返事をする。

 仕事一筋の母に嫌気がさして家出した高三の夏。

 家賃の安さに惹かれて契約したアパートのお隣さんだった。

 何度か部屋にお邪魔している内に、そういう関係になって、休みの日には彼の部屋でDVDを見ながらダラダラするのがお決まりのルーティン。

 ときめきは特にない。

 SEXも盛り上がることなく、淡々とこなしている。


「今度の休みに一緒に行こう」


 私はろくに顔も見ずにOKを出して昼寝を始める。

 そして約束の日には「具合が悪い」と言って自宅にこもった。実際だるかったから完全な嘘では無い。

 彼は残念そうに、でも明るく「見えない道を写真に撮ってくるよ」と言って出かけて行った。

 私の部屋のドアノブに、ポカリとアイスとレトルトのお粥が入った袋を引っ掛けて。

 私はベッドでダラダラしながらアイスを食べて寝るという怠惰の極みを満喫した。


 彼は帰って来なかった。


 雪山で迷子になって、眠るように亡くなっていたらしい。葬儀には行かなかった。お前のせいだと責められる気がしたから。


 隣の部屋からは二日に一回、洗濯機を回すグオングオンという音がしていた。

 窓を開けると、彼のヘタクソな鼻歌が聞こえて。

 私はそれを聞くのが好きだった。

 ゴミを出し忘れて走っている時、大声でゴミ収集車を止めてくれたのが付き合うキッカケだった。

 学生時代は応援団だと言っていたな。

 ロマンチックさのカケラもない思い出の数々だ。


 今は何の音も聞こえない。

 壁に耳を当てても、いつも見ているテレビの音すらしない。

 もう、居ないんだ。

 当たり前のように横にあった笑顔は、二度と戻らない。


 体がだるい……頭がガンガンする……。

 ボンヤリとベランダから下を見ていると、最後に交わした言葉が蘇ってきた。


《冬の間だけ、見えない道が現れるんだって》


 私はテキトーに支度をして玄関を飛び出した。


 +++


 一人で雪山に入るのは危険だと止められて、どうしてもと言ったらガイドさんがついてきてくれた。ゴーグルをつけて口元をマフラーでしっかり守っているから年齢は分からない。


「見えない道ね、知っているよ」


 晴れているのに寒さの厳しい山道をゆっくり進んでいく。手袋を貫通する冷気は、死神を思わせる。

 こんな場所で、迷子になったんだ──。

 最期に何を思ったのだろう。

 私を恨んだだろうか。


「ここだよ」


 2メートルぐらいの雪に囲まれた通路があった。

 澄んだ氷で出来た道だ。

 陽の光に照らされて、見えなくなっている。


「滑って危険だから、足元だけに集中して歩いてね」


 言われるがままに進んでいく。

 ギッギッと鈍い音を響かせて、見えない道を歩いて行く。10メートルぐらいはあっただろうか、急に氷は無くなり石畳になった。


 顔を上げると、そこには教会があった。

 白い壁に緑のツタが絡んで、ステンドグラスがキラキラと輝いている。


《今度の休みに一緒に行こう》


 あれは遊びの誘いじゃなかった。プロポーズだったんだ。こんなだらしない私と、ずっと一緒に居たいと思ってくれていたんだ。

 涙がとめどなく流れた。

 死んだと聞いた時も、もう居ないと分かった時も泣けなかったのに。止める術が見つからない。


「いつも、聞いていたよね。ヘタクソな鼻歌」


 ガイドさんが呟いた。

 え、今なんて?


「洗濯を干そうとすると毎回窓が開くから気づいていたよ、変な子だなって思ってた。

 ゴミを出すのがきっかけで付き合うって、ほんとダサくてごめん」


 どうして……だって……。


「来てくれてありがとう。ずっとここから離れられなかったんだ」


 ガイドさんがゴーグルとマフラーをはずす。

 よく知った顔だった。

 二度と会えないと思った人だった。


「ぼくと結婚してください!

 ……そう言いたかったけど、もう出来ないから、これだけ言わせて」


 イヤ、ダメ……。


「元気なおばあちゃんになってください。ずっと見守っているから」


「ひとりにしないで! 連れて行って!」


「さようなら」


 彼の姿は、雪が溶けるように消えていった。

 お腹が熱い。

 手を当てると、心臓の音が聞こえた気がした。



 私は妊娠していた。

 ずっとだるいと思っていた理由が分かった。

 彼の死をきっかけにバイトをやめていたし、貯金もほとんど無い。産んでも不幸にするだけかもしれない。

 だけど、あきらめる選択肢は無かった。


 +++


「ママー、ばあばー、はやくー」


 5歳になった息子がはしゃいでいる。

 私は疎遠だった母に泣きついて、実家に転がり込んで出産した。母は呆れながらも受け入れてくれて、今は仲良く買い物にも行く。

 今日は皆で山にハイキングに来ている。


「ここー?」


「そうよ、ここがパパとママの思い出の場所なの」


 見えない道は今は無い。春の陽光に照らされた教会は、今日もピカピカに光っている。

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見えない道の先に 秋雨千尋 @akisamechihiro

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