第9話 秋深き

 食堂で昼食を食べ終えると、彰浩と別れ、図書室へと向かっていた。


 図書室と食堂は教室棟の正反対の位置にあるので、近いとは言えない距離だ。


 なんとなく重い足取りで歩いていると、冷たい風が吹きつけて体がぶるっと震えるような感覚がした。


 中間試験、そしてその答案返却まで終わり、季節は二十四節気で言うところの霜降そうこうせつになっていた。とはいっても、温暖化の影響か、霜が降るような気配は今のところない。秋深しとは、季節としては今ぐらいの時期のことをいうのだろうが、実際には季節そのものよりは物寂しさを表す心理的な言葉な気がする。


 「秋深し……」


 ついそんなことを呟いてしまい、ハッと周りを見渡す。


 よかった、誰にも聞かれていない。こんな気取ったような呟きを聞かれたら恥ずかしくてもう教室いけない。


 俺はこんなセンチメンタルな性分ではなかったはずだが、やはり彰浩から知らされた、俺が海王高校でいじめ問題を起こして退学になったという噂が広まっている話は、季節の移ろいに現実逃避したくなる程度には重たい話だった。


 クラスのみんなにどう思われようと、正直なところどうでもいい。


 ただ、また何か問題が起きて退学になるとかだけは本当に面倒くさいから勘弁してほしい。


 実際のところ、そんな噂話だけで俺が西高を退学になるなんてことは、普通に考えれば可能性は低い。しかし、海王高校で起きた退学騒動の顛末を振り返ってみれば、可能性が低いからと言って無頓着でいるわけにもいかない。


 彰浩の言葉を思い返す。


『勇作、本当に気をつけろよ。海王はプライドだけが極限まで高い連中が集まって、いや、まあ実際にプライドだけじゃなくて中身のあるやつもいたけど、まあとにかく、勉強も運動も何でもトップクラスだったお前は本当に妬みを買いまくってたんだ。お前がそういうのを全く気にしない奴だってのは理解しているけど、最低限自分の身を守る立ち回りはした方がいいぞ』


 妬みを感じる、というのが正直よく分からない。

 

 自分よりも何かに秀でている人なんて日本中を探せばいくらでもいる。そんな人に嫉妬するようなことをしていたらキリがない。


 何かを自分よりも上手くできる人がいくらでもいる、というと、じゃあ自分にはその人よりも価値がないのかと言うと、そんなことはないと思う。


 その人がいくら自分よりも何かをうまくできたとしても、自分がいる場所、時間でその何かを為すことができるのは自分だけだ。自分がいる場所でこの瞬間に何かを為していく行為の積み重ね自体が自分の価値なんだ。


 それに、極論すれば、自分の価値なんてのは自分で決めればいい。というか、俺はそういうスタンスだ。


 それは言い換えると、他人の評価はどうでもいいが、自分を裏切ることは許せない、ということだ。なぜなら、それは自分が決める価値を自分で貶めることになる。


 だから、勉強にしろ運動にしろ、母の施してくれた教育に対して手を抜くことなく取り組んできた。


 小さいころから周りには自分よりも勉強ができる人、走るのが速い人、テニスができる人、ピアノが弾ける人、絵が描ける人なんていくらでもいた。そんな人達といちいち自分を比べて、気にしたり、落ち込んでいたら、気が滅入ってしまう。


 そういうこともあって自然と、自分のペースでやればいい、だけど、自分が胸を張れる成果を積み重ねることだけは貫きたい、と考えるようになってきたのだろう。

 

 気が付くと、図書室は目の前だった。特に本を手に取るわけでもなく、人気のない、学習スペースを兼ねた閲覧席に腰かけ、彰浩の言葉について考えることにした。これはじっくり考えるべき問題だろう。


 自分の身を守る立ち回り、か。


 人の噂も何日とかって言うし、とりあえずほとぼりが冷めるまでクラスの人達とは距離を置いた方がいいのかな。誰が噂の大元かは分からないけれど、付け込まれるような隙は与えないように気を付けよう。


 うーん、こんなところか?


 本も持たずに席に座ったものの、思ったよりも早く結論が出てしまった。というか、座った瞬間に結論が出た。


 立ち上がり、小説の棚から適当な文庫本を選んで再び席に着く。


 昼休みだけでは読み切れず、数十ページ読み進めたところで予鈴がなり、貸し出しの処理をしてから教室に戻ることにした。


   ◇


 午後の授業が終わると、ロングホームルームの時間で文化祭についてクラスで話し合うことになっていた。


 クラスでは、当然のことながら、事態が好転することもなく、俺に対しては何やら、よそよそしい、とでも表現すべき空気が流れている。


 相変わらず、時折視線を感じたかと思うと、数人のクラスメイトがひそひそと内輪で何やら話して、下卑た笑い声が漏れてくる。


 窓際にもたれかかり、そんなクラスをぼんやりと眺めていると、気遣わしげな表情の由紀と目が合った。


 そういえば、由紀はどう思ってるんだろう。


 由紀にぐらいはちゃんと説明したほうが良かったのかな、と思ったけど、いまさらな気もする。


 俺がどう思われるとかはどうでもいいけど、何かのはずみで由紀まで巻き込んでしまうのは嫌だな。教室内ではいったん距離を置いておいた方がいいか。


 そう自分の中で結論を出したところで、教室の前方から明るい声が聞こえてきて、自然と由紀から視線を外す。


「それじゃあ、文化祭についてみんなで考えよー!」


 教室の前では、学級委員長の女子がロングホームルームの仕切りを任され、何やら説明をしている。確か、名前は……まだ聞いてなかった気がする。とりあえず委員長と呼ぼう。


 委員長、というと真面目な人がやる印象だが、このクラスの委員長は制服を気崩していたり、砕けた感じの話しぶりから、ギャルっぽい印象を受ける。


 こんな空気の中でクラスの出し物をつくるというのは、気が重いなと考えていると、委員長からクモの糸のような説明が降りてきた。


「まず最初に文実をクラスで2人決めることになってるらしいから、決めちゃいましょう。委員になった人は、クラスじゃなくて、文実をメインでやることになるんだってさ。あと、このロングホームルームの時間から早速、生徒会の会議室に集合して顔合わせをやるとかなんとか。じゃあ、やりたい人?」


 なんとまあ雑な説明だ。文実とは、文化祭実行委員のことだろう。


「はい」


 俺は反射的に手を上げていた。そして、思ったよりも大きな声が出てしまった。


 委員長の説明を聞いて反射的に手を挙げてしまったが、文実はこの居心地の悪い教室から抜け出すいい機会のように思える。


 教室がざわつき始めている。


「あ、えっと……」


 委員長がやや戸惑っている。手を挙げる人がいることに対してなのか、俺が挙げていることに対してなのか。どちらにしても、やりたい人と聞かれて応えてるんだから、ちゃんと対応してほしい。そして、早くこの空気の悪い教室から抜け出したい。


 数秒間をおいて、委員長が口を開いた。


「じゃあ、他に手も上がらないみたいだし。1人は決まりだね。ええっと、あともう1人決めなきゃなんだけど……」


 委員長の言葉に対して、教室はしんと静まり返る。


「あれ……ええっと、やりたい人、いないかな?」


 再び委員長が声をかけるも、やはり手を挙げる人はいなかった。静まり返っていた教室に、ひそひそと話す声が少しずつ広がり、少しうるさくなってきた。


 時間かかりそうだな。


「委員長」


 俺が声をかけると、委員長は肩を揺らして、首をかしげるような仕草を見せた。教室は再び静かになった。


「時間かかりそうだし、先に文実行ってていい?」


「えっと、あ……」


 委員長が返事をするのを待たず歩き出す。


 教室がざわつく雰囲気を感じながらも、教室を出てしまえばこっちのものだ。呼び止められるのを無視して教室を出るのは気が引けるので、呼び取れられないように祈りつつ、やや足早に窓側の席から教室の後ろを通って教室を抜け出す。


 幸い、委員長は突然のことに言葉を失ったままで、俺が教室を出るまでの間に呼び止められることはなかった。


 教室出てため息をつく。廊下にはひんやりとした空気が流れているが、その空気が今は心地よく感じられた。


 教室棟から渡り廊下を歩いて特別棟の奥にある生徒会室へのんびりと向かう。


 どちらかというとネガティブな理由で文実になった以上、はやる気持ちはなかったし、急ぐ理由もなかった。


 特別棟までくると廊下は静まり返っていて、学校指定上履きのスリッパのぱたぱたと立てる音だけが響いている。


 あまりに静かなものだから、段々と冷静になってきて、文実に来たからといって噂から逃げられるわけでもないのではないか、という当たり前の事実に気付いてしまう。


 とはいっても、今さら引き返すこともできないな、と考えているところで、特別棟の奥にある生徒会室に行き当たった。


 生徒会室の中からは、もうすでに何人かが集まっているのか、何人かが話している声が漏れている。


 ノックをして反応をうかがうと、「どうぞー」という声が聞こえて来たので、そのままガチャリとドアを開いて入る。


 生徒会室の中では数人の生徒が、ドアを開けて入ってきた俺には見向きもせずに作業に取り組んでいた。生徒会の役員、幹部メンバーだろうか。忙しそうにしていて、悪意を持って無視をしたというわけではなさそうだ。


 どうしたものかと立ち尽くしていると、生徒会室内にある別のドアが開いて、1人の女子生徒が出てきた。


 その女子生徒は、俺に気付くと、俺の方に歩み寄りながら笑顔で話しかけてきた。


「いらっしゃい。2年で生徒会長の小笠原おがさわら結衣ゆいです、よろしくね」


 なるほど、この人が生徒会長か。


 誰が見ても認めざるを得ないと思われる器量の良さだった。


 身長は160センチメートルぐらいだろうか。1学年上ではあるものの、年齢に対して幼さを感じさせる顔と細い体つきには、男女問わず庇護欲を掻き立てられることだろう。


 高校の生徒会長選挙は人気投票のようなものだという。人となりも知らずに人を見た目で判断するのはよくないが、この人が生徒会長に立候補したなら、応援したいと思う人は少なくないだろう。当選するのは当然の成り行きのような気がした。

 

 そもそも2年生が生徒会長をやるものなのか。それとも通常であれば3年生が生徒会長をやることになっているが、この人だから2年生にして生徒会長をやることになったのか。


 後者だったとしても、違和感なく納得できそうだなと感じる。


 などと、初対面の女子、しかも先輩、というか生徒会長を相手に失礼な考えを巡らせていると、少し間が開いてしまった。


 よくない、ちゃんと挨拶しないと。


「1年A組の山本勇作です。文実になりました。小笠原先輩、よろしくお願いします。」


「おっ、A組なんだ」


「……はい、A組です」


 小笠原先輩は、A組という言葉に対して何か含みがあるような反応をする。A組だと何かあるのだろうか。


「そっか。四宮さんは一緒じゃないの?」


「四宮ですか?」


「うん、四宮さんは生徒会の一員で、自動的に文実扱いになるから、一緒に来るのかなと思ったんだけど。」


「そうだったんですか?」


「あれ、知らなかったの?」


 それは知らなかった。なるほど、それでA組に反応していたのか。


 でもさっきクラスで文実決める時、そんなこと誰も話してなかったような。その辺のルールは曖昧なのか、不文律的なものなのか。


 うーむ、とやや考え込んでいると、後ろからぱたぱたと足音が近づいてきて、それに気づいた小笠原先輩がその足音の方向に向かって俺の肩越しに声をかけた。


「四宮さん、お疲れ様。」


「会長、お疲れ様です」


 噂をすれば、というタイミングだった。


「四宮さん、遅かったんだね。あ、いや、時間的に遅いというわけではなくってね」


 小笠原先輩は、心配と気まずさが入り混じったような表情になって質問した。同じクラスなのに別々のタイミングで来たことで、仲が悪いんじゃないかとかいらぬ心配をかけたのかもしれない。


 しかし、実際俺はクラスを飛び出すように抜けてきたわけで、いらぬ心配と言い切れないところがちょっと具合が悪い。


 なんといったものかと思ったが、四宮は平然と答える。


「2人目の文実がなかなか決まりそうになかったので、粘っていました。文実の人員は多いに越したことないですから。私は自動的に文実になるとはいえ、クラス内で他に立候補してくれる人がいればいいと思っていたのですが、2人目が決まりそうになかったので諦めて私がクラスの文実として手を挙げました。」


「そうだったんだね。四宮さんがそんなに文実のことを考えてくれてるなんて、私、うれしいな。」


 四宮の説明を聞いた小笠原先輩は、先ほどの不安が払しょくされたように笑顔になってそう言った。


 ああ、笑顔に戻ってよかった。


 この線の細い、つい守りたくなるような小笠原先輩が不安そうな顔をしていると、ぎゅっと胸を締め付けられるような痛みを感じてしまうのだ。


 それにしても、この2人が揃うと華がある。


 先ほど俺が入ったときには見向きもしていなかった生徒会室の数人からも、視線を集めていた。態度の違いにちょっとへこむ。


「さて、それじゃあ、2人は隣の会議室で待っててもらえる?全クラスの文実が集まったら概要説明を始めるけど、今日は顔合わせがメインみたいなものだから、中で文実同士ガンガンお話ししてもらって大丈夫だからね!」


 小笠原先輩の説明に、四宮も俺も「了解です」と返事をし、会議室へと向かった。


 それにしても、いきなり初対面の人を集めて「ガンガンお話しして」と言うのも無茶ぶりなのではないだろうか。それとも、文実とは、そういわれると喜んでガンガンお話しし始めちゃうコミュ力お化けの集まりなのだろうか。


 会議室内はもうすでに数個のグループができてガンガンお話を始めているようだった。


 俺が先に部屋に入る。何人かと目が合い、挨拶代わりの会釈をされ、俺も会釈を返しながら奥へと進もうとする。


 しかし、四宮が部屋に入った瞬間、会議室内はどういうわけか、時が止まったかのように硬直し、静まり返る。


 いや、理由はわかってるんだけどね。俺との態度の違いにまたしてもへこむ。これは四宮ほど器量の良い女子が入ってきたら仕方がないのだろう。


 四宮に気を取られて硬直してしまったことを気恥ずかしく感じたのか、誰かが何事もなかったかのように努めてグループ内での会話を再開すると、会議室内は再び元の喧騒に包まれる。


 そして、俺は会議室にいた他の文実メンバーに話しかけるタイミングを失い、軽い絶望を感じながら会議室の後ろの方の席に座った。


 四宮はどうするのだろうかと思っていると、生徒会の執務室の方から四宮を呼ぶ声がかかり、執務室の方に戻って行ってしまった。文実兼生徒会としての仕事があるのだろう。


 そして、俺はぼっちになった。


 その後も、続々と新文実メンバーが会議室に入ってきたが、示し合わせるでもなくどこかしらかのグループから声がかかったり、逆に声をかけたりして吸収されていく。


 俺はついに誰かとお話をするきっかけを掴めないまま、窓から秋空を眺めて時間が過ぎるのを待つことになった。

 

 



 

 





 

 


 




 




 

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