第7話 体育の時間
3限は英語だったが、言うまでもなく授業の進行は海王に比べて遅く、暇を持て余していたので、ひたすら教科書を読み進めていたらいい具合に時間が潰せた。
3限の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室内は一気に弛緩した空気になった。昼休みを前に残る4限が体育ということもあり、面倒くさい授業から解放されたことで気が緩む気持ちは理解できる。
クラスの女子達は早々に中庭に着替えに向かっていったので、教室内には男子しかいない。
着替えが終わって周りを見渡すと、男子達は皆まだ着替えの最中だった。
「着替えるの速いね、山本君」
ふいに後ろの席から声をかけられた。
苗字にさんづけ、という日本で一番無難な呼び方をされた。俺もそれに倣うことにしよう。
「着替えるのが速いことだけが取り柄だからね。横田君はさすがに遅すぎない?まだ着替え始めてすらないけど」
「まだあわてるような時間じゃない」
どこかで聞いたようなセリフが聞こえてくる。横田君は漫画が好きなんだろうか。
「集合場所ってどこ?」
「体育倉庫前だよ。案内しようか?」
「いや、いいや。トイレ行きたいし」
のんびり着替えている横田君を待っていたら日が暮れてしまうような気がしたので、適当な理由をつけて断り、一人で集合場所に向かうことにした。
グラウンドに出ると体育倉庫っぽい建物を見つけたのでそちらに向かったが、誰もいなかった。集合場所を間違えたか。やはり日が暮れるのを覚悟で横田君に案内してもらうべきだったかと後悔しかけていると、ちらほらと体操服に着替えた人たちが集まってきたので安心した。
集まってくる人たちの中にまだ見知った顔はいない。A組にいた気がする生徒たちもいたが、特に話しかけてくるでもなく自分たちの仲の良いグループで集まってだべっている。
ぼっちなう。
やることがないので、準備運動でもして待っていることにした。準備運動は大切だ。怪我をすると日課のランニングや筋トレができなくなる。幸いなことに、これまで大きな怪我をしたことはなかったが、慢心してはいけない。
膝、アキレス腱、足首、股関節など、思いつくままに下半身を中心にほぐしていると、後ろから足音が近づいてくる。振り返ると、D組に転入した彰浩だった。
「よう勇作、新しいクラスはどうだ?」
「まだどうこう言えるほどわからないな。由紀と同じクラスになったってことぐらいか。」
「すごい偶然だな。それはいい、それならクラス馴染みやすいんじゃないか?」
「そうかもね。そんなことより、授業が退屈だ」
「おいおい、あんまり大きい声でそういうこと言うなよ。あんまり妬みを買うような行動をしてると、また――」
また、と言って口をつぐむと勇作は硬い表情になって視線を落とした。しかし、それも一瞬のことで、柔らかい表情に戻って顔を上げた。
「悪い、海王でのことはもう言わない約束だったな。でも、同じようなことにならないように気を付けるんだぞ。」
実のところ、そんな約束をした覚えはないが、彰浩は彰浩なりに海王での事件について気を使ってくれているらしい。いい奴なんだよな。
「それはそうと、選択何にしたんだ?俺はもちろんサッカーだが。」
彰浩は、本当にサッカーが好きなようだ。サッカー部が弱いという理由で海王を辞めてしまうぐらいだから、相当なものだ。
ちなみに、体育の授業では男子はサッカー、野球、バスケ。女子はバレー、バスケ、テニスの中から好きな種目を選択できることになっていると聞いている。
「俺も成り行きでサッカーをやることになった」
「ということは対決になるな。楽しみにしてるぞ」
「うぃ」
「ちなみに、部活もサッカー部はいる気は――」
「ない」
「くぅ、即答だな」
俺が質問を遮って答えると、彰浩は大げさによろめくようなポーズをとって悲しむようなそぶりを見せる。
「運動部に入るのはもういいかなーって」
「ああ、そういうこと」
彰浩はそれだけで、察したような雰囲気を醸しつつ、フッと穏やかな表情になる。
「それもいいかもな。じゃあ何やるんだ?文化部とか、はたまた生徒会とか?」
「帰宅部って選択肢もあるぞ。」
「たはー。青春を楽しもうって気持ちを持った方がいいんじゃないか?」
彰浩は口をとがらせて、やれやれ、といった仕草をしてみせるが、再び穏やかな表情に戻る。
「中学の時に気づいたんだけど、部活に入ると自分のペースでワークアウトできないんだよね。」
「で、出たー!マイペース至上主義!」
「それだけならまだいいんだけど、海王ではあんなことがあったしね。テニス部に入る気はしないな」
「……そうか、それなら仕方ないな」
俺は正直、海王での退学騒動については、まったくと言っていいほど気にしていない。ただ、こういうと彰浩も納得して引き下がってくれそうな気がしたのでそういうことにしておくことにした。
ただ、彰浩が思いのほか悲しそうな顔になったような気がして、少し申し訳ない気持ちになる。
「あっくん?」
ふと、由紀の声。彰浩が満面の笑みで応える。
「おう、由紀、久しぶりだな」
「えー!うそ、あっくんも転校してきたの?」
「驚いたか?」
由紀は目を丸くして固まっていた。
「二段構えのサプライズ成功だな」
俺の言葉に、彰浩は満足そうにうなずく。
「勇作のこと好きすぎでしょう」
「ばっか、そんなんじゃねえよ。」
「あら、ムキになって否定すると怪しいよ?」
由紀はいたずらっ子のような笑顔で彰浩をからかう。ふむ、仲良さそうで何より。
「でも、うれしいな、これでまた3人一緒になったね。」
由紀は本当にうれしそうだった。海王を退学処分になった一通りのいきさつは、当然おめでたいものではない。それでも、太陽に照らされて輝くひまわりのような由紀の笑顔を見ていると、これでよかったんだと、全てを肯定できるような明るい気分になってきた。
◇
運動場のサッカーコートでは、男子サッカー部が中心となり、体育の授業とは思えないほどの熱のこもった声を各々が張り上げていた。
さすがはサッカー強豪校の西高だ。中学時代を受験勉強に全振りしたような生徒も多かった海王の体育の授業とは、比べものにならない迫力があった。
「ゆーくん、そいつ止めろ!」
陸が怒号のような緊張感のあふれる声で指示を出す。陸からはなんとなく「ゆーくん」と呼ばれることになったことは理解しているが、この激しい攻防の中でそんな間の抜けた呼び方をされるとどうしても気が抜けてしまう。
サッカーのポジションは、自分のゴールポスト側から順に、キーパー、ディフェンス、ボランチ、トップ下、フォワードとあり、フォワードが攻撃の最前線だ。陸はサッカー部でのポジションと同じトップ下を授業でも受け持ち、俺は陸に「勇作はボランチじゃね?」と言われてボランチのポジションを付け持っていた。
「そいつ」と呼ばれたのは、彰浩だった。転校初日ということもあり、名前が分からないのだろう。当然、日本トップレベルと言われる実力も知られていなかった。
ゲーム開始直後、陸がボールを持つと颯爽と相手チームに攻め込もうとしたところで、油断もあったのか、彰浩にあっさりとボールを取られてしまい、カウンターを食らっているところだった。同じくサッカー部の手島は彰浩の後ろでカバーに入っていたが、彰浩が陸からボールを奪うやいなや、そのついでに抜いておいた、ぐらいの軽さでサクッと抜かれてしまっていた。俺は別にサボっていたわけではないのだが、のんびりと攻撃についていこうとしていてワンテンポ遅れていたので、幸いなことにカウンターに対処する余裕があった。
「お、勇作、勝負するか?」
挑発するような彰浩の声。彰浩は一瞬だけ俺を見たかと思うと、フィールド全体をちらりと見渡しながら、ゴール方向に立つ俺へと近づいてくる。ボールには目もくれていないのに、ボールは彰浩の足に吸い付くような動きを見せる。
正直、体育でしかサッカーをしたことがないので彰浩には敵うわけがない。俺が唯一対抗できるとしたら、フィジカル面ぐらいのものだろうが、ぶつかっていったところでスルッと躱されるのが関の山だし、タックル成功したとしてもサッカーにおいてはただの反則だ。ボールを取り返すという選択肢は最初から除外する。ゴール前への正面突破だけはされないように、なんとかサイドに追い出し、時間を稼いで味方が戻ってくるのを待つぐらいしか思いつかない。
彰浩が2, 3メートルの距離に近づいたところで、俺は重心を低くして身構える。彰浩は俺が真正面にいるというのに勢いを落とす様子がない。パスを出そうなどという様子もない。このままの勢いで正面突破で抜き去ろうとしている。言葉通り、勝負がしたいようだ。
それなら、選択肢は限られる。右か、左か、正面の股を抜くか。
1メートルの距離。もう、決め打ちしなくては間に合わない。
俺はまた抜きされたら恥ずかしいだろうな、という消極的な理由でまた抜きを警戒して足を閉じようとしたところで、彰浩がボールを俺の左側に蹴りだそうとしているのが見えた。
しまった、賭けが外れた。
彰浩が俺の左側を駈け抜けていく。ふと、左足に軽い衝撃を受けた気がした。
「あー!くそ、まずった!」
彰浩がなぜか「まずった」といっている。俺はまだ状況が理解できていない。
「勇作、早く前に出せ!」
陸のまたしても怒号のような指示。どういうことだ? と思い、足元を見ると、ボールは俺の足元でぴたりと止まっていた。
「くっそー、裏の裏を読まれた!」
彰浩が悔しそうにボールを取り返そうと、切り返しながら叫ぶ。ようやく状況を理解した。
……裏の裏を読んだというか、表を外しただなんだけどな。
後ろから彰浩が迫ってくるのが分かる。俺が彰浩に対してボールをキープするなんてまあ無理だ、とっとと前に蹴りだしてしまおう。慌ててとにかく全力で蹴り出すと、ボールは前には飛んで行ったものの、味方を軽く通り超えていきそうな、いや、それどころか上がってきていた相手のディフェンスラインすらも超えていきそうな勢いになってしまった。
やらかした。どうしたものか。あ、そうだ。
「切り替え遅いぞ!」
俺は責任転嫁のため、陸を真似て怒号のような声を張り上げて味方をテキトーに煽ってみた。
「くそ!」
味方の誰かが悪態をつくのが聞こえた。味方チームは俺のボールに反応できず、置いてきぼりになっている。
いや、ほんとごめんって。怒んないでよ。
「なめんなよ!」
置いてきぼりになっていたかに見えた味方チームの中で、陸だけが俺のボールに反応し、相手のディフェンスラインをも超えてボールを追いかけていた。
敵チームのゴールキーパーは陸とボールを挟んで1対1の形になった。難しい判断を迫られる。彰浩よりも先にボールに届くなら、ボールをクリアするべく飛び出すべき局面だ。ただし、陸がまさかボールに追いつくとは思っていなかったその油断により、飛び出すのが一歩遅れてしまい、それが致命的なミスとなった。
ボールにギリギリのところで追いついた陸は、さも当然のようにゴールキーパーとのタイマン勝負を制し、ゴールネットを揺らした。
「ナイス!」
「陸すげー、さすが!」
味方チームが陸へ次々との称賛の声を上げる。
ゲーム開始直後3分にも満たない攻防であった。彰浩は悔しそうな顔で「すまん、俺のミスだ」と謝っていた。
いや、本当は俺のミスになるはずだったんだけど、陸に助けられた。ピンチとチャンスは紙一重ってやつだな。
コート中央から敵チームボールからプレーを再開するために各々がポジションに戻っていく最中に、陸が近づいてくる。
「さすがに鬼畜すぎだろ、あのパスは。切り替えとかそういうレベルじゃなかったぞ」
呆れたように叱責するような声だったが、その表情には、そんな鬼畜なボールにも追いついて見せたという満足感からか、喜びを隠しきれない様子が表情に表れていた。
まあ、パスのつもりじゃなかったからな……
それからは、試合運びは開始数分の攻防に比べると膠着したものになった。いともたやすく陸からボールを奪い、サッカー部員の手島をも、いつ抜いたの?、と思うぐらいの華麗さで抜き去り単独ドリブルで切り込んだワンプレーで彰浩の実力が明らかになった結果、陸の指示により彰浩を徹底的にマークする戦略がとられた。一方、彰浩も序盤の攻防での反省をして控えめにプレーをすることにしたのか、時折俺との1対1になっても、味方にパスを出すなどして抜いてこようとはしてこなかった。多分、彰浩が抜こうと思えば俺なんて簡単に抜かれると思うけど。
ちなみに、サッカー部の手島は彰浩に何度も抜かれて陸にキレられていた。
その後、終了間際、彰浩が意地ででロングシュートを決め、1対1になったところでタイムオーバーとなった。
教室に着替えに戻りながら、俺は陸からもサッカー部勧誘を受けることになり、断る理由を探すのに苦労した。
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