第6話 転校初日

 1限は数学の授業だった。


 転校前にちゃんと手続きやら準備やらを終わらせた俺は、教科書類もしっかり揃えて、今日の授業の準備もばっちりだ。


 教科書をぱらぱらと斜め読みしてみると、二次関数、三角比、場合の数といった項目が並んでいる。先生には悪いけど、1年生で習う数学の内容は既習なので暇を持て余すことになりそうだ。


 次回からは有意義に時間を使えるように自習道具を持ってきた方がいいだろうか…… 勉強もできることなら自分のペースで進めたいなぁ。



 1限が終わると、転校生を囲むイベントが起きるのだろうかと少し身構えていたが、特にそういうことはなかった。「諸事情で海王から転校」したということに加え、「諸事情についてはあまり聞かないで」と釘を刺したこともあり、近寄りづらいのだろうか。転校初日なので本来の教室の空気というものは知らないが、それでも今の教室の空気は普段よりはソワソワしたものであるに違いないと感じられる。


 由紀ですら話しかけるのは憚られたのか、もともと俺に話しかける気なんてなかったのか、仲のいい友達なのだろうと思われる男女集団でなにやら静かに話し込んでいる。薄情な女だ。


 その集団の中には、ショートホームルーム中につい見惚れてしまった、ピンクブロンドの美少女もいた。

 

 由紀とその女の子の向かいには、男子が3人。


 イケメンで背が高く体格の良い、サッカー部にでも入っていそうな男子。そして、ちょっと小柄だが体格のいい男子。ん、こいつは中学で見かけたことがあるような気がする。名前は覚えていない……。あと、野球部っぽい髪型の男子。


 この集団がいわゆるこの教室における最上位カーストというやつのだろう。本人達がカーストなるものを意識しているか否かはわからないが、その存在感、教室内のクラスメイトの彼らを囲む位置取り、クラスメイト達のそれとなく伝わってくる態度等を見るに、誰もが最上位カーストであることを認めているであろうことは明らかであった。


 それはそうと、もしかして自己紹介ミスったかな?そこそこ仲がいいと思っていた由紀ですら特に話しかけてきそうな様子が今のところはない。タイミングをうかがっているような雰囲気は感じるが、俺の自意識過剰な気もする。


 まあ、もしミスっていたとしても、海王でのドタバタを思い返すと、このまま誰にも話しかけられないなら、それはそれでいいんじゃないか。


 そう結論し、次の世界史の授業の準備をする。新しい教科書によくある、独特なインクの匂いをを感じながらページをぱらぱらとめくっていると、2限の開始を告げるチャイムが鳴った。



「2学期は1学期に引き続き、『イスラーム世界の形成と発展』を扱います。夏休みで忘れていることもあると思いますので、簡単におさらいから始めましょう」


 世界史の若い男教師はそういうと、さっそくウマイヤ朝やらアッバース朝やらの単語を書き並べて説明を始める。


 歴史は覚えることが多く大変な科目だが、個人的には面白いと思う。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはいうが、過去を通して現在を考えるというのが歴史という科目の本質だ。ただ、その本質の部分にまで踏み込めるようになるには、時代・場所・人物などの基礎的な知識を覚えた上で、歴史を俯瞰的に見る力を身につける必要がある。俺は英才教育の賜物か、記憶力はには優れているようで、最近少しずつその歴史の面白さに気付いてきたところであった。


 イスラーム世界に関して言えば、イスラーム世界の内側だけでなく、外側の文化圏との接触や交流を――それは得てして、侵攻や戦争を伴うものだっただろうが――通して文化が受け入れられ、発展していく営みなどは1つの大きなテーマだろう。7世紀にイスラーム勢力はエジプト、シリアを奪い、古代ギリシアの学術を手に入れ、古代ギリシア語文献をアラビア語に翻訳して研究が進められる。また、東方へと拡大した勢力は遠くインドにまで達し、インドからはゼロの概念や数字・計算法などが取り入れられる。かと思えば、このようなイスラーム世界の学術は、イベリア半島やシチリア島などから西欧世界に受容され、西欧世界の12世紀ルネサンスにつながっていく。


 何が言いたいのかというと、数学に引き続き既習範囲であったため退屈をしていた。この分だと、本格的に授業時間の過ごし方について考えていかなくては。



 2限後の休み時間になり、さて次の授業の準備をしようと教科書を確認していると、先ほど目についた最上位カーストっぽい人達が近づいてきた。由紀、先ほどのピンクブロンドの女子、運動部っぽい男子3人、合わせて5人のグループだ。


 なるほど、ついにこのイベントを消化するときがきたか。とりあえず無難にやり過ごして今後静かにやっていけるように頑張ろう。


 休み時間になりざわついていた教室が少し静かになる。直接話しかける気はないが、転校生とのやり取りが気になる、という人も少なからずいるようだ。


「ゆーくん、久しぶりだね。びっくりしたよ!」


 由紀が「ゆーくん」といった瞬間、教室がざわ……となったかと思うと、水を打ったように静まり返る。一緒にやって来ていた4人も驚いた様子だ。というか、男子3人の内の1人――中学で見かけたことがある気がする――は、ひくりと引きつるような顔をしていた。


 一方、由紀はそんなこと気にする様子もなく、右手を挨拶をするように前に突き出し、元気いっぱいに微笑んでいた。


「ああ、久しぶり。」


「教えてくれてもよかったのに。そもそもなんで、って、あ!」


 何やら理由を聞こうとするや、慌てて手を口元に当てて、まずいことをしたかのような顔をして、一瞬目を伏せた。


「ごめん、聞かないでって言ってたよね。まあこの件はまた今度にしよ」


「結局聞くつもりなんじゃないか」


「冗談だよ。まあ、私とゆーくんの仲だし、私にぐらいは教えてくれたっていい気もするけどね」


 あはは、と笑いながら由紀がそういうと、先ほど顔を引きつらせていた男子が、今度は肩を振るわせ始めているような気がした。


「まあ、それはそうと、まだ皆の名前すら分からないよね。早速だけど、紹介タイム。いきなりは大変だろうけど、ちょっとずつでいいから、覚えていってね。」


「歴史とかじゃないけど、人の名前を覚えるのは得意だよ。」


「あー、そういえばゆーくん、なまでに記憶力よかったよね。中学の時、暗記系の科目で満点以外取ってるの見たことないもん。暗記系以外の科目でも満点以外取ってるの見たことないけど。ようするに満点以外取ったことがない。」


 腰に手を当て、程よく豊かな胸を張って、なぜか由紀が自慢げにそう言うと、ついてきた男子達が「マジか……」とか「さすが海王……」などと声を漏らしていた。肩を震わせていたような気がした男子は、気がするどころではなく、ぷるぷるわなわなとしていた。どんな顔をしているか気になるけど、その男子の顔を直視することは憚られた。


「中学の定期試験は授業の範囲からしか出ないからね。模試では満点取れないことなんてよくあるよ」


「よくある、じゃなくて、模試で満点なんて取れないのが普通です」


「うーん。それはそうと、紹介してくれるんじゃなかったの?」


「あ……」


 由紀は話がそれてしまったことを、あはは、とごまかしながら、連れてきた友達の紹介を始めた。


「まず、四宮しのみや理恵りえちゃん。すっごく成績がよくて、1学期は学年トップ。あと、モテる。りえって呼んであげてね」


 紹介された女の子の方へと向き直る。


 ショートホームルームで真っ先に目についたピンクブロンドの美少女。正面から見つめられると、ハッと息が止まってしまうかのような気がする。すっと通った鼻筋、陶器のようなその白い肌に思わず目を奪われる。


 一瞬の沈黙の後に、返事をしなくてはいけないということに気が付いた。


 りえって呼べばいいって言われたんだっけ。いきなり馴れ馴れしい気もするけど、まあそう呼んであげてと言われて別の呼び方をするのも気まずい気がするな。よし。


「おっけー。よろしく、り――」


「ちょっと!」


 俺の言葉は、いら立ちが混じっているような声で遮られた。


「私が男子に名前呼びなんて認めてないって知っているでしょう」


「そうだったのか?」


「あ、あれ、そうだっけー?」


 由紀の方を咎めるように睨みつけると、目を斜め上に逸らして吹けもしない口笛をフーフーと吹いている。あからさますぎて、「確信犯です」と隠すつもりもない態度に苦笑してしまう。とりあえず、呼び方は四宮、ということで確定か。


「そういうことなら、四宮でいい?よろしくね」


「はい、こちらこそ。」


 無事一人目の紹介が終わったかと思ったが、由紀はふっと何かに気付いたような顔で四宮を見つめる。


「それにしても、珍しいね。いつもクールな理恵がそんなにムキになるような言い方するなんて」


「そうかしら?」


「もしかして、さっきの成績の話で、強力なライバル出現かと心中穏やかでないとか?」


 由紀の煽るような物言いだった。


 まさかそんなこと、と思ったら、実は図星なのか、四宮はひくりと顔を引きつらせてこっちを睨みつける。


「別に……」


 なんか、どこかで聞いたことあるようなセリフが聞こえてきた。


 わずかの沈黙。やや剣呑な空気に包まれる。すると、由紀は場を仕切り直すかのように、話を続けた。


「さて、じゃあ男子の方も紹介しなきゃね。」


 男子3人が前に出て由紀の左横に並んだ。


「私の方から順に、本田ほんだりく君、手島てしまじゅん君、伊藤いとうたけし君。」


 一息で紹介すると、まるでそれでおしまいとでも言わんばかりに、微笑みを浮かべた。雑すぎないか?


「おいおい、四宮に比べてずいぶんと雑すぎないか?」


 本田陸、と紹介された男子が文句を垂れた


 うん、俺も同感。


 陸は3人の中で一番背が高く、180センチぐらいありそうだ。イケメンで体格もいい。部活がどこかはまだ聞いていないが、サッカー部所属でカーストの頂点っぽいという印象。


「だって、四宮さんみたいに成績学年トップ、みたいなのないなーと思って」


 由紀の歯に衣着せぬ物言いに、男子たちは一様に悔しさをにじませた顔つきになる。


「あ、でも、陸君はサッカー強いんだってね。西高サッカー部は県内トップクラスらしいんだけど、そんなサッカー部内で、1年生にしてすでにレギュラー候補らしいよ。今日体育あるから、ゆーくん、ちょっと手合わせしてみたら?」


 本当にサッカー部だった。


「体育って選択制?」


「そうだぜ。2学期はD組と合同授業でD組との対戦になるから、サッカー選択するなら、手合わせじゃなくて俺とチームになるけどな。サッカーできるのか?」


「中学ではサッカー選択だったよ」


「よし、じゃあ決まりだな。よろしく、ゆーくん」


 成り行きでサッカーを選択することになった。というか、ゆーくんって呼ばれた?由紀に倣ったというのはわかるけど、男子にそう呼ばれると少しこそばゆい感じがする。ムキになって訂正するほどのことでもないから、まあいいか。


「よろしく、陸」


 俺がそういうやいなや、チャイムが鳴った。


 まだ陸としかまともに話せていなかったが、とりあえず4人の名前はもう覚えた。


 ちなみに、さきほど肩をぷるぷるわなわな震わせていた、中学で見かけたことがある気がする男子は、「手島純」と紹介されていた。なにが彼をぷるぷるわなわなさせたのか、わたし、気になります。


 転校生を取り囲むイベントは終わったとは言えないが、無事初回のイベントを通過してほっとした気分で次の授業の先生を待つことにした。







 



  


 



 


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