第4話
午前九時半。病院だ。大きな病院。精神科も腫瘍科もある。当然内科も整形外科もある。大学病院だ。僕は自殺未遂してここに入れられた。全ての概念を自分から失った日だった。そういうときに僕はごくごく自然に目が覚めたのだ。僕は様々な存在を捨ててこの病院に入ったのだ。死とはそういうものだ。全てを捨て去るために行った行為。それが自殺未遂。病院のベッドで目が覚めた。写真の枠組みに収めたみたいに家族が目の前に座っていた。皆笑顔だった。儚い、そんな現実を彼らはなんとか拾った、そんな笑顔をしていた。僕が捨てた現実を彼らは拾ったのだ。
僕は全てを捨ててそこのベッドで寝ぼけていたのだった。オーバードーズ。全ては失われるはずだったが、拾われてしまった。
僕はごく当たり前みたいに話をしようとした。両親は僕が完全に目が覚めたのだと知って、少し戸惑ったようだ。僕も戸惑った。母は看護師さんに知らせてくるね、と言った。僕は黙って点滴を見ていた。機械に繋がれている。僕は、まるで自分の体が死によって他人のようになるのを想像していたが、何もかも実体験のように実存していた感触だった。現実だ、とこの現象たちは答えているのだ。それらが何よりも手っ取り早く僕に現状の辛さを教えてくれる現実だった。僕がここまで辿り着いたという現実。全てを失うために行った現実の結末。死を望んだ男の行くすえ。僕が間違ったのか? 僕は耐えた。耐え難いことに笑って答え、皆の事を想い、信じられないくらい迷い、死ぬほど沢山の事を考えた。その人に対するのがこの結果なのか? 僕が悪いのか? 僕はもう後戻りできないんだな。廃人や狂人、そう呼ばれるのが相応しくなった。だが教えてほしい。誰か答えてくれ。僕の何が悪かったんだ? 僕は助けてほしかったのだ。変えられない現状から。変えようが無かったんだ。そんな僕のどこが間違っていたのだ?
僕は草原にいる。草が生い茂り、どこまでも続いた草原。空は冷たく曇り、風が耳にやかましかった。僕は遠く遠くを眺めていた。僕は夢か現実か分からない境界にいる。ただ分かるのはこれらの風景の中にいて湿った風を感じるだけだ。それらが現実なのかどうかは分からない。分からないというのは確かではないというだけで、現実の否定にはならない。僕が死ぬ事が確かであるか確かではないかを決定づけられないように否定はできない。
僕は草原の中で笑っている少女を見つけた。右頬に火傷の痣がある女の子だ。イオリだ、と僕は結論付ける。僕は彼女が嫌いだった。僕につきまとう。いや、それは実際はつきまとうというほどではない。僕の頭につきまとうのだ。僕の頭の中の何かを揺り動かす、だから僕は彼女が鬱陶しいのだ。恋心を揺り動かすのだろうか。僕にもその何かが分からないでいる。どうせなら全てが壊れればいいと思って僕は死を選んだ。そのはずだ。死を選べば多くの事が解決する気がする。解決というより放棄する事になるのだが、だがどっちだっていい。僕は死にたかった。毎日苦痛だった。僕は分かってしまうのだ。誰にも必要とされていない。僕が誰も必要としないように他人も僕を必要としない。僕は誰も要らない。だから世界が無いのも同然だった。産まれてから僕は世界に必要とされず、必要としなかった。ただ孤独だった。孤独には慣れてなんかいなかった。ただ傷付くのに慣れただけで、本当は呼吸ができないみたいに苦しいのだ。淋しいのだ。生きていないみたいだ。冷たい雨の中にいるみたいだ。
雨が降ってきた。僕は草原の中に倒れる。激しい雨だ。冷たくて芯にまで冷気が届きそうな雨だった。僕はいつ死ぬのだろう。こうやっていれば死ねるのかな。淋しいみたいに冷たい雨だ。僕はこの雨の中で耐えてきたみたいだ。そうやって孤独の中で耐えてきたのだ。でも苦しい。苦しい。死ねれば同じだ。だから早く死がやってきて欲しい。僕はどうしたって終わりなんだ。もう後には戻れない。だって父さんも母さんも、皆同じように僕を一人にしかしないのだ。僕は終わりなんだ。そして僕は終わって当然の人間だから死ぬのだ。誰にも必要とされず、誰も必要としない。そういう死。ああ、孤独って悲しいのだな、一人でも大丈夫だと思っていた自分はなんと愚かしい。馬鹿なんだ。でももうどうにもできないな。誰も僕を欲しいとは思わないから。僕が渇望するものの形をイオリからは貰えないから、だからイオリじゃダメだなんだ。イオリじゃ僕を満たせない。ああ、イオリの可哀想な事よ。彼女は僕を大事に想いつつ僕を喪失する。僕を喪失する痛みを胸に刻まれながら、痛みに堪えながら、生きていかなければならない。
色々な物を喪失し、取り戻してしまった翌日の朝。病院の中、僕は点滴を受けながら物思いにふけっていた。過去の事を、特に思春期の青臭い時期の事を思い出していた。僕はあの時代に色んな友人に悪い事をしたと感傷的になっていた。
そしてなぜこんな事を思い出すのだろうと考えた。僕はバカバカしい事を考えているのだ。思春期の頃の事など思い出して何になるだろう。それは取りこぼした苦い青春から何らかの意味を見出そうとしているのだ。僕は意味を求めている。辛かったあの時代を葬儀するために思い出すのが苦しい時期に意味を持とうと思ったのだ。
僕はベッドの角度を変えて窓の奥を眺めた。外では野球青年たちが汗を流していた。そこには自由な風が強く潔く吹いているように思えた。
僕はああいう場所で幾度となく汗を流した。一生懸命に生きていた。僕にもああいう特別があったのだ。僕だけの時間。僕だけの場所。僕だけの特別な存在。そこを僕は漂っては吹かれ、走り、永遠を感じていた。そこには僕がこうやって地獄にいるような予想図は描かれておらず、ただ必死に頑張っていれば自分も世界の一部に含まれているという簡単で短絡な若さだけがあった。
今、僕は悔しさを感じている。こういう地獄に自分を陥れた者たちへのおぞましい憎悪と、それらを洗い流すだけの涙を流している。僕は特別だっただろ? 一時的にであっても。
僕はベッドの上で縛られている。抗束帯というらしい。腹巻きのように巻かれている。最初は腕も拘束されていたが、今は抗束帯の位置を直すくらいの事はできる。
僕は命を取り戻した。だがこういう現実は僕を闇の底に陥れる事くらい容易にできるのだ。ベッドの上でペニスに管を入れられ、排尿をいつでもしていいと言われている。僕は人間の尊厳を奪われたなどとは思っていない。ただこうやって自由を失うことで、今までの自分が虚しく葬られている気がしてならない。
僕は死んでもいないのに、色々なものを自殺未遂によってしなくていいと言われた。考えなくてもいいと言われた。考える事がストレスになり、キミを追い詰める。僕はどちらにしろ既に追い詰められていた。精神安定剤の投与によって色々な事が考えられなくなっていた。精神安定剤は意識レベルを低下させ、何も感じなくなる。
あの青春時代に思い描いていた普通に生きるという宿命さえ、僕は失っていた。
僕らは海沿いにある小さな民宿に泊まることにした。そこは楽園らしさで意味づけられているように全てが南国風だった。僕はそこの畳の上でぼんやりとタバコを吸った。男女別室で四部屋借りた。イオリは一人で一部屋を借り、二人の女の子は一部屋、男性は二人ずつ。僕は亜川と一緒だった。亜川は全ての人間から束縛を受けていない人間のようで、僕は一緒にいて彼が羨ましかった。どの部分に? と言われたら、僕はきっと答えられない。どの部分にも彼に羨ましさを感じていたし、憧れてもいると感じられた。彼は一人のときでも独りの人間には見えなかったし、多くの人が彼といたがった。彼はそれぞれの人間に相応しい受け答えをしていた。つまりなんでも上手くやり、誰にも嫌われず、そして心の底から彼は人間を愛している男だった。僕も多分彼なりに愛されていたのだろう。一人の人間として、一人の友人として。
僕は砂浜で遊んだ後、民宿の風呂場で塩を流し、部屋でそれぞれ自分たちの仲間と仲間らしい会話をした。
僕は亜川に幾らか親密な会話をした。それは非常に話しやすい、受け答えのし易い会話だった。
亜川は僕に優しく問いかけた。
「イオリちゃんと付き合っているの? いつもキミに熱い視線を送っているのを皆黙って見ているんだ」
僕ははにかんだ。そのはにかみで僕は多くの事を語ったらしかったので、少し口をつぐんだ。それでも彼は要所要所で親切な言葉をかけた。
「こんな質問をして少し悪かったかな」とか、「キミは優しいから女性の方から積極的になるんだね」など。
僕は彼の積極的な会話に少し驚いていた。彼はいかにも僕と会話したかったんだよ、とでも言いたげな、一部彼らしくない積極な思いやりを発揮していた。
僕は黙って微笑んで彼を見ていた。そして時折タバコを吸い、缶コーヒーを啜った。
部屋には壁に掛け時計とエアコンがある以外は広く幅を取った座卓しかなかった。入り口の向こう側には全身を映せるキレイに磨かれた窓ガラスがあった。僕は自分の座卓の向こう側の窓ガラスを眺めていた。奥では太陽が落ちかかっていて海と水平線の境界にオレンジ色の光を映して見事に輝いていた。僕はそれを見ようと彼に言った。
僕らの間に静謐で美しい沈黙がやってきた。僕は精神病院を思い出していた。あの抗束帯でベッドに繋がれたあの日々の事を。僕は回復したのだ。そういう実感があった。
僕らは座りながら窓の奥の太陽と海を眺めた。少し見上げると月が白く光っていた。星がもうすぐ見えてくるだろう。
「僕は旅をして良かったと思う」
僕は彼に言ったつもりでなく独り言のように呟いた。
彼は「本当だね」と言った。彼は僕の横顔を眺めて微笑していた。僕が喜んでいるのを彼も喜んでいるのだと分かった。彼は正真正銘のお人好しだと思った。純粋な心の持ち主で、怒りも悲しみも狂気も知っているのかと疑問に思ったくらいだった。
僕は彼の純粋無垢にどういう言葉を贈ってあげたらいいだろうと思う。彼の美しい心に僕のような狂気を持った精神の人間が彼の心を温めるような言葉があるだろうか。僕はそういう事を考えられる機会があるのを幸福に思った。
その時僕は狂った人間にでも幸福の機会がある事をこれ以上ない幸いだと思った。宮沢賢治ではないけれども、最上の幸いというのを僕は考え始めていた。
朝、男女に時間帯を分けて風呂に入った。檜風呂だった。壁も地面も板張りで爽やかな木の香りがし、壁上部の窓の外から真っ白な光が水蒸気を照らしてその細やかな一つ一つの粒を輝かせていた。
僕は熱い浴槽に入り、汗を流し、垢を落とした。石鹸は無かったから代わりに垢落としを使った。安いシャンプーがあるだけだった。リンスは無い。
僕は風呂上がりに缶コーヒーを近所の自動販売機から買い、そこに背中を押しつけて一面に広がる海を眺めた。海は朝の眩しい光に照らされて反射していた。僕は精神安定剤を飲み、その輝く海を眺めた。まるでこの街全体に祝福を授けているようにその海は輝いていた。僕は自転車で走るときのために準備していたサングラスをかけ、後ろに広がる山を眺め始めた。
海と山。それはまるで隠れた栄光の象徴だった。観光客もそれとなく来ていた。砂浜でキャンプをしているらしくテントが幾つか張られている。
僕は少年時代の頃を思い出した。近所の湖に行き、静かで穏やかな黒々と波立つ水面を眺めていたあの頃を。その頃僕は赤茶色をした犬を飼っていた。元気でよくはしゃぐ犬だった。犬は生き物のようにうごめく波を崩して飛沫をあげて泳いだ。遠くへ遠くへと行った。まるで僕ら人間の関わりを断つのではないかと言うくらい遠くだった。犬は夜僕らがキャンプしている最中に戻ってきた。犬は大きく荒れた息をし、僕らが晩御飯を食べているのを見て苛立たしげに吠えた。彼に犬専用の骨ガムをあげても彼はそれを受け取らなかった。彼は遠くへ行っている最中僕らが敵にでもなるような知識でも手に入れたかのようだった。まるでリンゴを与えられたように知性でも手に入れたかのようだった。
家に戻ってから彼はまるで知性を帯びた青年のように気難しげな顔を浮かべ、犬小屋の前でただ僕らが出入りするのを眺めていた。まるで孤独という知覚を手に入れたかのように彼は難しい事を考えているようだった。彼はその年に交通事故で死んだ。他の犬に吠えられながら彼は車道の真ん中に座り、スピードを無視した酔っぱらい運転の車に轢かれた。
僕はあの湖の真ん中には島があったのを覚えている。小さくてタケノコのように尖った形をした狭い島だ。夕方になると仰々しい暗い影がかかり始める。よくそこは暗くなると神秘的な霧がかかった。まるで関わるだけで死を宣告されるのに等しいような不気味な影だった。僕は小さい頃からそこへ二度行ったことがある。そこへはボートで近づいた。森が生い茂っていて、カラスが鳴いて糞を岩辺に落としていた。ボートはそこに近づくだけの遊覧目的でできていたので、僕らは島と関わることがなかった。だが僕の犬はそこへ近づいたのだ。
僕が死神に取り憑かれているというのはただチラリと押し寄せた空想にすぎない。だが僕は忘れられないのだ。あの犬の聡明で陰湿で世界を憎むとでも言いたげな難しそうな顔を。そこでは何人かの人が自殺していたのは数年後知った。僕らは自殺者の物憂い苦痛に触れたのかもしれない。そしてそこは僕が死を予感するときに思い出される一片となった。多くの人が自殺したタケノコ状の島。僕の死の連想はいつもあそこにたどり着く。僕は健康的なときはその死の連想をくだらなく思っていたが、今はあまり笑えたことではない気がしている。もちろんあの島が死に導いたとは思わない。だが僕の空想はあの島と幼少期の青春と共にあり、気がついたら死を思うとあの美しい幽微な湖を思い出す。あそこで泳いで一度溺れたことも。暗くて冷たい湖の底の泥も。全てが完璧な一片として思い出される。
僕は海を眺めているうちにそういう事柄のことを思い出していた。今の海はこれから生きていくべき道を輝かさんとするように活き活きとしていた。
僕がタバコを吸っていると亜川とイオリがやってきた。亜川もタバコとコーヒーを買いに自動販売機にまで来たらしかった。僕はイオリを見た。イオリは誤解しないで、と言わんばかりに少しばかり慌てていた。亜川はそれに全く頓着がないように微笑んだ。日焼けした腕と脚を出してハーフパンツを履き、自動販売機の口から微糖の缶コーヒーを取り出した。
「おはよう。桐谷くん。お風呂の湯加減はどうだった?」とイオリが口を挟んだように言った。彼女は楽しそうに僕を見て笑った。僕はとりあえず微笑んで彼女が絡みついてくるのではないかと心配しつつ「良かったよ」と答えた。
「そう。でもちょっと熱かったわね」彼女は何気なくそう言った。
亜川は僕らのことを一瞥してベンチに座り、タバコを吸い始めた。キャスターのスパーライトだった。
僕は彼女と一緒にしばらく海を眺めた。端から見たらロマンチックな光景に見えたかもしれないが、僕は幾つかの問題に捉えられていた。一つは僕がいつか自殺するかもしれないことだ。もう一つは僕が彼女を苦しめてしまわないかという事。僕は精神病だ。統合失調症。医者の宣告通りだとそういうことになる。僕は死ぬことは恐れていない。だがそれによって多くの喪失が生まれることが苦痛なのだ。
僕は彼女を横目でちらりと見た。彼女は海と太陽を見据えていた。僕は彼女の左側の顔を見た。そこには普通の女の子が大人になっているといく過程があった。僕は彼女の大女優らしい風貌の中に火傷をしているという悲しみの表れがあるのを、少しだけ可哀想に思った。彼女は美しかった。だが大きな火傷を作ったという事件があるだけで自分を卑屈に蔑んでいるのが誤りだというのを感じた。彼女は火傷の痕があったって美しいし、僕にはもったいない女の子だと思う。僕は彼女を愛すことはできない。それは僕が愛するという根本の観念を喪失しているからだった。先生はそれも治していこうと僕に伝えていた。だが僕はその意味がよく分からなかった。愛するということができるようになったとして、誰が本心から僕を愛するというのだろう? イオリも僕が精神病だということを知ったらゆっくりとその事実に怯えていくことになるだろう。僕を憎むようにだってなるかもしれない。僕は彼女の青春を潰したくない。
全てを切り取る人だって僕の頭の中でたまに殻を破るように突っついているのが分かる。少しずつ、一層一層ずつ破ってそのハサミの切っ先を表面に出してくるのが。
だが彼は言っていた。それは突然僕に告白してきたのだ。僕はもう誰も切り取りたくないと。それが僕の心が癒えてきた証拠なのか、彼は僕と話す気になってくれたらしい。僕は彼がいつも人を切り取るのを悲しんでいると言っていた。僕はなぜ切り取るの? と問いかけた。彼は涙をボロボロとこぼして言った。「キミが自分を切り取るのを止めないから、僕は代わりに他人を切り取っているんだよ。キミのせいだよ」僕はどうしようもなくなり途方にくれた。そして自我がはっきりしていくうちに僕は自分を傷つけているのかもしれないなと思い至った。自分自身を傷つけることで誰も傷つけないようにしているのだと。
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