第3話

 イオリは僕にリンゴジュースをぶちまけて帰った。だが彼女からさっき連絡があった。

『こんな事があっても離れられないのがわたし達よね?』と。

 僕はメッセージアプリで返した。

『どうだろう?』

 すぐに返事があった。

『やっぱり返してくれるじゃない。本気で離れる気がないなら返事しないでって言ってるのに』

 僕は苦笑した。その苦笑は自分でも苦いと自覚している笑いだった。

 僕はタバコに火を付けた。アパートの暗い一室に煙は容易く充満した。まるで狭いこの空間に満たされるべき気体であるかのようだった。僕はその気体に触れるとなんだか冷たい水に触れているみたいな気分になった。部屋は街灯の光がわずかに入っていた。月光に照らされているようだった。

 僕は見えるだけ窓の奥遠くを見た。林が茂っており、その木々は関節の節のようにガクガクと折れるように形どられていた。僕は骨の枝のショーアップだと笑った。実際に骨のように白い枝をしていた。

 昨日、旅をしようと彼女は言っていた。僕が旅をしたいと言ったからだ。簡単に僕に同調する彼女に僕は少し腹立たしくなっていた。面倒な事をするなと咎めたくなった。僕は何も言わなかった。僕はただ笑っていた。

 ある人にとっては突然かもしれないが、僕は精神を患っているかもしれない。最近、何をしていても楽しくないし、全てが不愉快だし、全てが無駄に感じられ、虚無感がつきまとうのだ。僕はいつも自分が正しくないと思う。自分を喪失していると思う。自分の中にいるのは何なのか? 中身は何なのだ? いつも僕は自問している。僕はエイリアンではない。だがそれももしかしたら間違いではないかもしれない。意味不明な中身が入っているという点では相似点がある。僕は虚無。何もない。それも相似点があると思う。

 僕は街灯に照らされている林を見た。ボーンヒル。突然言葉が湧いた。骨の丘という意味だ。退屈だからこれについて考えていよう。骨の丘について。

 僕は骨の丘から街中を見下ろす。骨の丘からは何もかもが骨のように見えてしまう。人間も犬も木々も建物も街灯も車も、全てが骨のように白くて硬質な物体に見える。その硬さで頑丈に身を保っているように見える。骨が喋り、骨が走り、骨が笑い、骨が突っ立っている。

 僕の頭にはそういう想像が止まらなくなる。僕がこうやって連想を膨らますと止まらなくなる。骨の想像が。意識の連鎖によって生まれる。僕が窓を鏡代わりに見ると、もう僕も骨になっている。部屋の中まで骨に侵食されていく。自分の想像する事も骨だらけになる。果物も骨になる。テレビも骨の形で形成されて放送される中身も骨の出演者になる。

 僕は目を覚ます。全てが終わっている。僕は睡眠薬を飲んで必死に眠ったのだ。意識を別に移しつつ、骨に意識しないようにしつつ、僕は目をつむり、また眠った。全ては静かで元に戻っている。

 これが僕の日常だ。頭の中で何かが始まり、それに侵食されていく。呑み込まれていく。僕は自動的に世界が変わるのを感じている。頭が自動的にそれを選択している。

 僕は世の中が苦痛だ。精神病、かもしれない。

 イオリもきっと僕の本当の中身を知ると顔を歪めて不快感たっぷりに侮辱して去っていくに決まっている。


 僕らは山の中で落ち合った。イオリが笑って僕を見た。僕は不愉快さを隠しながら顔を背け、山からの風景を見た。全ては静かで美しく、木々のたくましい活き活きとした感じが空気からも感じられた。

 一太郎先輩は良い所だろうと言って笑った。僕はそうですね、素晴らしいです、と答え、さも楽しそうに笑った。女の子二人を見て、イオリが僕の事を訊いたりはしなかったかを疑った。イオリはもしかしたら僕の素晴らしい点について賞賛するかもしれない。だがそれは少しも正しくはない。僕はただの空白なのだ。孤独だから空白なのだ。


 僕は小さい頃から、いつからと問われるといつからなのかは分からないが、とにかく小さい頃から人とはどこか違っていた。変人だったかもしれない。お人好しな点もあった。誰にでも好意をもった。誰にでも人間が好きな事を伝えた。だが僕は全くと言っていいほどいつからか変わった。それは多分、というかほとんど確実に中学の頃始まったのだが、全てが確実に変わったのはゆっくりとだった。中学生に始まり、それはペンキを重ね塗りするにゆったりと確実性を帯びていった。段々と空虚になっていったのだ。

 僕はいつからか精神に何かが混じっていくのを感じていたが、それを追い出す気は起きなかった。異常なものとは分かっていた。だが取り除く気はなかった。僕はその異常さを武器にするつもりだったからだ。その異常な形、性質、鋭さ、硬質な感じ、神経質な感じを僕は人に高まる感情を伝えるための武器にするつもりだった。そうすれば強くなれる気がしたのだ。

 だが実質は僕がその異常性に呑み込まれていった。異常さが勝ったのだ。僕は確実にゆっくりと病気になっていった。今はそう思う。孤独の中でただ嘲笑う一人になって、その異常さに取り憑かれて、ただ嘲笑われる一人になって、泣くこともできない独りになって、ただ空虚の中で呼吸するためだけに生きている存在のようになっている。

 全ては塗り替えられていった。僕の正常で良い人間だった純粋さも。お人好しだった部分も。可愛らしく純粋な女の子が好きだった部分も。全ては圧し潰されていった。潰され、消えていった。虚無感の中の壁のただの白い点のようになっていった。今の僕はその過去の一片を見ても心が動かない。自分の過去を振り返って良い人間だった事が分かっても、僕はもうその場にいる素晴らしい人間たちとは元のように触れ合うことができないのだ。元のように僕とは話せないのだ。皆消えていった。同じく虚無の中に潰されていった。または現実の中の神経質に鋭いトゲのヤブの中に姿を隠したのだ。そして奥の奥へと進んでいった。僕とは会話できない違う性質の国へと行ったのだろう。

 

 僕はタバコを吸い、静かに煙が踊る空間を眺めていた。僕の頭の中は人で埋まっていた。沢山の人が僕に向かっている。何百人という人が体育館の上の僕を見詰めている。

 僕は何も言わない。ただ黙っている。そこにいる人々の険しい顔を眺める。嘲笑う声がある。僕は何も言わない。けたたましく怒鳴り散らす声がある。僕は何も言わない。気味悪いと声にする人がいる。僕はそちらを見る。だが言ったその人を見つける事はできない。やはり僕は何も言わない。僕は要らないと言う人がいる。その人は裂けた口をして大きな目で泣いていた。限りなく大きく見開かれた目がパチパチと閉じられたり開かれたりした。僕は喉の奥が焼けるように蠢くのを感じるが、やはり声にできない。僕はその人に何かを言うべきだったのか、それともあなたはどうして口が裂けているのと無闇に冷静に訊くのか、どちらのつもりだったのかが分からなかった。僕には何も分からないのだ。

 ただ毎日に疲れている。僕は現実を見ることができない。いつも幻想が頭の中に浮かべられている。鋭く、賢く、神経質に彼らは言う。死ね、と。死ねば全てが終わるんだ、と。全てを終わらせるために死ね、それが唯一の方法だ、と。

 僕は子供のように泣く。泣いても変わらないんだって彼らは言う。死ねば楽になるから安心して死ね、と。僕は泣く。何もできずにその広がっている想像が留まる事なく広がっているのを堪え、僕はただ独りで耐え、泣く。テレビを付ける。過敏に他の空想が始まる。『全てを切り取る人』が始まる。

 その人は全てを切り取る。人の顔や口や耳を切り取る。切り取られた断面はキレイに繋がって傷跡なんかはできない。僕の目の前でイオリの目が切り取られた。瞼さえも無く、キレイさっぱりと目が消えた。次に鼻を切り取った。彼女はまず目が無くなって見えなくなった事を嘆いた。

「どうしてこんな風になったの?」叫ぶ。泣きわめく。痛みは無いようだった。彼女の声が裏返って僕の部屋の中に響いた。

 僕はそれを見て泣いた。止めて、と僕は切り取る人に言った。

「次は右腕だよ」子供っぽい声だった。少年のように若く、なにも理解していない声だった。

「死んだら止めるよ」と次にひどくしゃがれた声で切り取る人は言った。僕が死んだら止めてくれるそうだ。いつもそう言う。だが実際に自殺未遂をしても彼らは止めてくれなかった。あれは無しだ。死ななかったから。そう言うのだ。

 僕はこうやっていつも無力な自分がいる事を知る。世間へも、自分自身の感情にとっても、僕は何も手出しができないのだ。

 

 山で落ち合った後、どこに向かうかを我々は決議を始めた。風邪をひいた竹中と腹を下した亜川とが迷惑をかけた事を恥じているように微笑んでいた。僕はどこでもいいから美しい場所を見ていたかった。できれば一人で。女性組は女性組で活発にどこかへ行くかを考えている。ここからは道の駅が近いから、と言う理由で全員そこへ向かう事にした。

 道は下方にあり、海沿いを走る事となった。海は青々としていて空は少し曇りがちになっていた。僕は走りながら静かな気持ちで海を眺めていた。僕は自分の荒れた精神が落ち着くのを感じていた。精神安定剤が効いているのもあった。僕は自分の中のひび割れを修復していた。僕は多くの終焉を始めるべきなのだろうと思った。この心地よい旅の機会に僕の頭の中で働く様々な事に終わりを告げるべきなのだと。例えばそれは自分の考えの癖。あえて辛い事を考える癖。もちろん病的な考えまでは止める事はできない。だが苦しむような考えは止めてもいいのではないだろうか。それが生きる上での最善の策なのだ。

 やがて海沿いに林があるのが見えた。活き活きとした日本風な木々だった。浜もあった。一太郎先輩は僕らに少し眺めに行こうと行って、浜の近くにある駐車場に自転車を停め、サイクリングウェアを脱いで熱い砂浜の方へと歩いていった。皆話を合わせていたように水着を持ってきていたので、僕は少し驚いた。僕は水着のレンタル店利用し、遅れて皆の方へと歩いて行った。皆元気だった。サイクリングしてすぐとは思えないくらいだった。 

 曇りがちだったが太陽は照って、風が心地よく吹いていた。後ろから緑の活き活きとした酸素の濃い空気が湧いた。僕は海に入ってぷかぷか浮いていた。太陽の下で僕は気持ちいい気分になれた。もう十月だというのに海には入れた。とても暑いからだったが、僕はそんな事にも気付いていなかった。もちろん海は平日だったからとはいえ、まばらに人もいた。僕はそっちを眺めた。

 六歳にも満たない女の子が砂浜の砂を掬って大事そうにしていた。それを持って帰ると駄々をこねているらしい。僕は砂浜の砂が大事に思えるその考えが素晴らしいなと思った。何もかも大事に思えるんだ。

 僕はといえば何もかも見失っている。悲しむべきことも、笑うべきことも、喜ぶべきことも、何もかも基準を見失ってただここに浮いている。僕は何も大事に思っていない。

 僕はそうやってしばらく砂浜を歩く人達を眺めていた。僕はたまに感傷的に微笑んだりしていた。僕は自分の心が素直になっているのに気が付いた。そういうときに僕という人物は失われていないのではないかと自覚した。僕はまだ人を見て笑うことができるんだと理解できた時、僕はまだ根本から人間という部類から切り離されてはいないのだと思った。

 僕は人間離れした様々な感覚があり、それで人間失格という判を押されたと思っていたし、信じていたし、人間ではなくなったと感じていた。僕はまだ人間らしくいられる。完璧に自分というものを喪失したのではない。

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