第2話

 自転車サークルの中で旅好きなのはそれほどいないと思っていた。僕が何気なく旅がしたいと言ったのは自転車サークルで山を登っていたときだった。

 僕は大学二年生で自転車サークルも二年目だった。僕と四年の先輩清水一太郎と同学年の佐原イオリと亜川ショウタ、それとタッグを組むことになる後輩の竹中とあと女の子二人がサークルにはいた。


 女の子二人は女性同士になるようイオリと一緒に旅をする事となった。

 あとは清水先輩と亜川、僕と竹中だけである。クジで僕と竹中は組むことになったが、別に僕は誰とでもよかった。一緒にいて嫌な事を言うような人間でなければ特に問題など無かった。


 話を戻すが僕は何気なく旅に出たいと言った。それは別になんとなく頭に出てきたことではなく、僕は中学くらいの頃から具体的にそういう願望を持っていた。

 

 だが機会を作ることはなかった。

 僕は大学に入ったのだから知り合いでも作っていつか誘うつもりだった。

 仲間という仲間はすぐにできるわけでなく、僕は一人でいつか行こうという気だった。 で、何気なく言った言葉が同学年のイオリに聞こえて、話題が盛り上がったのだった。

「旅行? それ、楽しそう。一緒に皆で行こうよ」

 イオリは僕の事を好きでいてくれる珍しい唯一の女性だ。だが僕は告白してきた彼女にはっきりとした返事をしなかった。僕はとりあえずお友達から始めましょうという言葉を伝え、かといってかれこれ三ヶ月ほど彼女のデートに付き合ったり、付き合わなかったりしてきた。都合の悪い場合は行かず、退屈のときは付き合った。僕らは恋人同士というにはあまりにちぐはぐだったし、僕の方でもぼうっとしてどういう種類の言葉をかけてやればいいか分からないでいた。恋人らしい言葉をかければ彼女は喜ぶかもしれない。だがそれはまだ本音ではないのだ。僕は言ったとおり孤独な人間なのだ。女性を愛するという事を知らない。

 僕は彼女に言われた。形だけでいいから愛して欲しい、と。セックスのことだった。僕はどうやればいいかは詳しくは知らなかったが、体力だけは大いにあったので彼女をある程度満足させるには足りたらしかった。

 僕は彼女の事を可哀想に思った。愛の無いセックスをすることで彼女の心は満足なのだろうか。そして僕がそれをしているということは彼女の暗い算段に協力していることになるのだ。つまり彼女の一人淋しい行為に協力しているのだ。自分を騙すという行為に。

 青森を旅するというのは一太郎先輩の願いだった。資産家である彼の叔父が美しい場所だといつも褒めていたのだそうだ。彼は彼の叔父と懇意で、よく叔父との楽しそうな話を聞かせてもらっていた。

 彼の叔父の湯川正三は旅行が趣味で、広大な自然の町を広く知っており、彼はよく甥の一太郎にそれを聞かせたそうだった。一太郎は小さい頃からそれを聞かされて桃源郷でも見るような心地で夢見ていたのだと思う。僕は一太郎先輩に美しい所を夢見ている話を聞き、彼こそ本当に幸せな人間に思えた。僕などはそうやって誰かに親しげに話をしたことなどないし、夢を見て特定の町へと向かい、美しさに心打たれることなど想像したことなどないからだ。

 僕は彼と比べるとただの現実を見、偶像を偶像として見て、風景をただの退屈な一枚の風景写真として見た。僕は他人の言う美しさというものに魅せられるなど全くと言っていいほどないのだった。

 僕は日々に退屈を感じる。それに加え、僕は人生というものに怒りというものを押し殺して生きているのだ。世の中は何故こうも怒りに溢れていることか。僕は自分の人生にそれがある事を実に深く感じていた。僕は退屈に怒っていた。知り合いの一言、通俗人の一言、男の一言、女の一言、子供の一言、老人の一言、様々な人々の言葉に怒りや悲しみの言葉のトゲを感じずにはいられなかった。そしてそれをただの平凡な一人の言葉として俯瞰するようにしだした時から僕は退屈しだした。僕は様々な人間の怒りや悲しみを無視した。そうしたら退屈がやってきた。だがしょうがないのだ。俯瞰して何も感じないようにでもならなければ僕の世の中はどれほど悲しみ怒りに満ちた世界かという事実に揺るがされかねないから。

 僕は一般の大人のように早くも世の中の事実に触れ、沈黙して、沢山の人になんの言葉も返さず、何も思わず、退屈し、そしてそれはそれで苦痛の種であることを認識して、どうすることもできず、ただたまに明るく純粋なイオリの相手をするのだった。イオリがいることは僕には嬉しいことと悲しいことの両方だった。彼女を表面上接するのは張り合いのあることだった。一方では僕が心の底から愛しているわけでなく、また彼女も世の中の不条理に苦痛を与えられ、いつか彼女の人格上の形が一変してしまうのではないかと恐れていた。

 僕は実に多くの起きていない不幸事に悩まされているのだった。ただそれにどうすることもできず不動でいるだけで、皆が強い男だと勘違いしていくのだった。僕にはそれも不幸の種だった。

 僕は疲れに疲れ切っていた。なんだか分からないものにばかり動かされている。僕は思うに、何一つ理解していないのだろう。怒りや悲しみが僕の元にやってきて、そしてそれを俯瞰して孤独になり、誰の手助けも借りないし、何の解決もしない。僕はもう疲れ切っている。分かった。それだけが分かった。

 

「ねえ。桐谷くん」

 僕はイオリの問いかけに微笑んだ。僕はこの頃イオリとセックスするのを避けていた。なんとなく避けて決定的な不覚な事実にしておきたくなかった。自分をひどい男にしたくなかった。

 カフェのテラスのパラソルの下で僕はニコニコとしている。赤や緑、黄色の柔らかなマカロンが皿の上には置かれていた。沢山の楽しい事がこの世には蓄積されているような絵だ。だがそれは実態ではない。僕は現に苦しい現実ばかり味わっている。

「桐谷くんってさ。わたしの事好きだよね?」

 僕は笑った。何も言わない。僕はこの手の話題に嫌というほど答えを出すべきかどうかを考えてきた。結果としてこう言うことにしている。

「僕はキミには沢山助けてもらっている。僕もキミにお返しを沢山したい。そしてキミはとても大事な人だからこれからも大事にしたい」

 彼女は僕を見ていた。少し鋭い目つきだった。彼女は決定的にするつもりだったらしい。僕と彼女の間柄を。

 僕が率直に好きという言葉を使わないことに問題を感じているらしかった。何も問題はない。僕が彼女を好きではないという事以外は。だがそれの何が問題なのだ? 全てはうまくいっている。うまく循環し、事が起きたら処理されて全ては静かに終わっていく。それで問題はないのだ。考えを変えれば確実に問題が起きる。どちらかの考えが変わってしまえば。

 彼女は目を伏せて苦笑した。なんともならないわね、と言っているようだった。

 僕もなんとなく笑った。


 僕はマカロンを宙に据えて向こう側の道路を見た。街路樹が立っていた。ぽつんと一本だけだった。だがその街路樹はキレイに花が咲いていた。なんの木なのかはさっぱり分からないが、濃い黃色でとても柔らかに咲いていた。その木の根本にはブリティッシュショートヘアが横になっていた。僕はイオリに連れて来られてこの辺りには詳しくないのでその猫がどういう存在なのか分からなかった。

 イオリが僕の好奇の目線を追った。彼女は可愛いと言った。

「近所の飼い猫でね。チャリオッツっていうのよ」

「へえ。チャリオッツ。戦車だね」

「戦車っていう意味なんだね」

「正しくは戦闘用馬車。ローマや中国とか広い範囲でも使われていたくらい戦闘では重要視されていたんだ。なにせ速いしパワーが凄い。簡単に人を殺すことができる」

 彼女は僕を無視してチャリオッツを見ていた。チャリオッツはその名に相応しくなく、でっぷりとしていた。全身灰色のキレイな毛並みをしている。柔らかで抱き心地がよさそうな猫だった。

 僕はピンクのマカロンを口に入れた。赤っぽいマカロンだが血でできているわけではない。僕はぼうっとそう思った。

「わたしね。あなたのこと、どうしても嫌いになれないし、好きにしかなれないの。どうすればいいと思う? わたしとしてはさっさと他の男にいければいいんだけど。離れられないのよ。磁石みたいに。ガッチリ離れないのよ」

 僕は苦笑した。僕はキミが嫌いだ。とでも言えれば楽になれるかもしれない。だがそんな事はできなかった。僕が彼女を大事に思っているのは事実だ。愛しているという言葉が人を大切に思い、離れられないという意味ならば僕だって愛していると言っただろう。

 だが愛しているとはそんな意味ではないのだ。女性に対して愛しているという言葉を使うときは、僕は、困る。

「多分、僕も離れられない。それは僕も同じだ。変えられない事実だ」

 僕は事実を言える事ですっきりしていた。離れられない。それは事実なのだ。だが僕にはどうすることもできない。居心地のいいこの状態を変えたくない。

 僕はブラックコーヒーを飲み、タバコを取り出した。深く吸うと遠くの現象が全て蜃気楼の中に閉じ込められたように感じられる。僕は巧妙に笑った。

「離れる必要なんかないんじゃないか? そう思うんだが」

 彼女はエロチックに分厚い下唇に付いたクリームを舌で舐め取り、上品に笑った。彼女がとても大人に見えた。僕と同年代とは思えないくらいだった。彼女は茶色に灰色を混ぜたような特殊な地毛をロングにして肩を超すくらいまで伸ばしていた。そして目が鋭く大きく、海外の大物女優らしく見えた。ただ顔に火傷っぽい茶色の大きな痣があり、それが露骨に彼女を僕らの立場にまでおろしてくれているようだった。それは右側にあり、僕はよくそこに手のひらをあてがった。

 彼女は不敵に笑った。それはあなたとわたしは同じ種類の人間なのね、という自分と僕を嘲笑うような笑みだった。僕は何も言わなかった。ただ僕も笑うべきなのかもしれないと思った。が、そうはしなかった。

「僕はキミの右頬にある痣が好きなんだ」

「あなたが好きな物はわたしも好きよ。大体は」

「じゃあこれから言う言葉で、今度からその大体はなくなるかも」

「なぜ?」

「実は告白しに来たんだ。先週他の女の子とお酒を飲んでキスをした」

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