俺の青春ってサイクリングより、激しいぞ

日端記一

第1話

 その静けさは、孤独である暗い快感をより深く味わわせているようだった。僕の心の中は静かで、外では激しく雨が降り、宿の屋根をけたたましく叩いていた。こういうとき孤独が心地よいものに移り変わっていくのを感じるのは僕だけだろうか。

 窓の外は山が一望できて辺り一面が緑だった。が、今は薄暗くて外は太陽が出るか出ないかの際にあったし、雨も降っているので目に美しい風景を映すことはできない。そんな中では緑の山々も黒々としてまるで死の臭いを吐き出す巨人のような形に見えなくもなかった。

 僕は、風邪をひいて寝込んでいる彼を眺めながらタバコを吸っている。彼の名はよく覚えていない。確か竹内だか竹中だとかいった名である。

 十畳ほどの四辺の形をした一室は、十月の冷たい空気と雨の湿り気で満たされていた。その空気が僕の耳を冷たくしていた。しぃんとした空気の張り詰めているのは何か遠くの町に間違えて来てしまったような、普段と生きている世界の違いを感じる。

 僕は彼を何気なく眺めていた。彼とは大学のサークルで自転車旅をしているのだ。他のチームとそれぞれ別行動を取り、見たい所を回っていた。僕は彼とは別に仲が良いわけではなかった。むしろお互いの目つきの悪さからか、そもそも反骨精神がお互いあり余っているからか、それともどちらも孤独な性質を持っているからか、我々は何の話もしなかった。ただ自転車を漕いで霧の中に浮く海の中の諸島を眺めて回った。我々はクジで一緒になった。それだけだ。

 そして彼は風邪をこじらせて感じの良い古宿の仲居さんに助けてもらった。

 僕は彼を見詰めていた。彼は三十九度の高熱で、意識も朦朧としているようだった。それから白昼夢を見ているようになんだかうなされて言葉を口走った。「レイコ。レイコ」と。

 雨はまだ降り続いている。ザアザアと屋根を伝って流れてゴボゴボと雨樋へと流れて樋口へと流れ落ちていくのが聞こえる。緑茂る山々と海に囲まれて生まれるこの清冷な空気と激しい雨に、僕はメランコリックな気分に落ち込んでいた。外の暗闇の荒れ具合のように、僕の心は荒んでいた。なんだか鋭い剣の打ち合いが何度も鳴り響いているように思えた。

 僕は夜中の間ずっと起きていた。自転車から転んで目を打って、それからずっと氷を借りて冷やしている。目自体の痛みは激しく頭痛が僅かにした。起きていられるような感じではなかったので、僕は自前のコーヒーを淹れて飲み(この旅で嗜むためにドリップを準備していた)、タバコを吸っていた。

 窓は雨に濡れて風景がとろんと溶け流れているように見えた。雨の中の闇が薄紫に染まっていくのが見えた。段々と太陽が出てきている。だが雨でその全容ははっきりとは見えないでいる。僕は立ち上がり、窓の前に立って港の方で忙しそうに船を出している人たちが元気に働いている薄い姿を見た。この宿は海の際に建っており、向こう側の港の様子が窺えた。僕は俄に彼らの様子を見て心が高ぶるのを感じた。今日も一日自転車を走らせなければいけないと、他の勢いに流されて自分の意思が高まって固まる動きがあるのを感じた。

 僕は自分で言うのは恥ずかしいとも思うが、一人でいることが多い人間である。大学生で友達もいない。もちろん恋人もいない。

 両親とは別に仲が悪いわけではないが話もほとんどしない。育ててくれた感謝もあるが、その意を汲もうという気配が彼らの方で見受けられない。おおよその考えでは彼らは感謝されるほどの事をしたわけではないと思っているのかもしれない。そして僕の方でも感謝を如実に表す機会も、機会も無しにありがとうと伝える強い気持ちもなかったのだった。

 僕は大抵一人きりだったが苦痛ではなかった。人が沢山いる中で仲間を作っている人たちを見れば少しは気恥ずかしい思いがしないでもないが、僕はいつも他人と交わるという行動を自身の精神の成長の一環としてはあまり功を奏すものではないと思っている。僕は現代人からすれば珍しく、(またはあまり珍しくないかもしれないが)成長の意思が強い人間だ。自分の生きる世界で自身を強くしたい気持ちもあるし、そういう強さを形にして示すことで僕は自己の完成を手伝っていると思っていている。日々に活力を見出して生活している。いつも物事を判然と分からない頭でいるのは嫌で、常に活発でいようと思っている。

 それでもぼうっとした感じがやってきて、幾らか判然としない頭で窓の奥を眺めていると、港の方の雨が晴れてきた。空の雲が割れてキレイな透き通った空がぽっかりと口を開けた。僕の気分も晴れていくようだった。僕は窓際にある座卓の上のコーヒーを手に取り、香りを取り込みつつ飲んだ。コーヒーは刺激的で知的感覚を高めてくれるような気がする。

 僕は座卓を囲んでいる対の一人用のソファに座った。リラックスできそうな籐の椅子だった。僕はメモ帳を開いて今日の目的地の事を考えていた。サークルの人達は僕と竹中の遅れに痺れを切らすかもしれないと思ったが、他の連中も遅れを取ったり、腹を下したりした者がいたので、僕も彼らの失敗に自分らの失敗を悪い事ではないという認識を持って安心を抱いた。

 メモを閉じてまだ僅かに降る雨の中に美しさを感じたこのとき、ようやく僕は眠気を感じた。昨日という一日の出来事が過ぎて、全ての事が夢のように僕を取り囲んでいる気がした。旅に出て皆と一緒になって自転車を走らせる事。雨に降られて一日中暗がりの中タバコを吸う事。走って体を活性化する事。なんだか美しい青春の一編に相応しく、僕にはあまり似合わないように思えた。

 僕はこういうような事を考えつつ窓の外を眺めていた。そしていつだったか覚えていないが布団に入り、一時間半ほど眠った。

 

 僕らは相変わらず黙っていた。自転車を電車にのせて二人で今日の目的地の鰺ヶ沢まで行った。その電車は田舎である上に町から遠く外れており、海を沿岸通り進むだけで僕らの旅の道筋を進めるにはうってつけの電車だった。十時半現在は晴れていて山の紅葉と黄葉が際立って目についた。それは旅雑誌の一面で紹介してもいいくらい美しかった。

 だが僕はそうならないように願った。誰かが紹介して人々が汚していくよりだったら、地元の人々に大事にされて、そうして我々旅人がたまに通り過ぎるだけの場所だったら良い。 

 やがて風景は村の家並みから抜けて美しい海が高台から見下ろせた。

 僕は一つ微笑んだ。

 僕はあまりに美しいものを見ると世の中の人間の幾らかに気を許すのと似たような気持ちになった。無条件の信頼に似ていた。

 僕は秋の山と秋の海を見た。どちらも感傷的になるにはふさわしすぎて、遠くに来た感じがした。僕は今まで外行きの、他人事の顔を浮かべて旅をしていたが、たまに今のように美しくノスタルジイを湧かせるような光景を見ると、自分の町にいるときの顔になった。自然な自分の顔になったのだ。

 僕は電車の中のがらんとした風景の中にいる向こう側の席の竹中に目を遣った。

「風邪は良くなったか?」

 僕は少し恥ずかしく思いつつ言った。

「はい。おかげ様で」と彼は一応の微笑みをしてボソリと言った。彼もまた独りな人間なのだとその微笑に僕は自覚した。

 僕は鰺ヶ沢の町並みを眺めた。古い町。木と土でできたような力強い自然の力と、丁寧で幽微な線で出来上がった家々がある。電車はその街の中を辿っていった。

 僕は竹中を見据えている。彼は平熱になったそうだった。強い薬を飲んで一晩を明かし、熱い風呂に入って昨日の汗を拭いた。昨日は風呂に入る余裕が無いため、濡れた手ぬぐいで体を拭いてはいたが、今日風呂からあがると彼は意識がはっきりとしたようで快活に笑った。もちろん丁寧にもてなした仲居らにだった。僕にはなんとなく恥ずかしいような微笑をした。

 僕といえば彼を一晩眺め続けて彼自身の心に入り込んだ気がしないでもなかったのだ。そしてレイコという人の名。彼が苦しげにわなないて言った名。

 僕には無関係だがなんとなく思わせぶりなそういう事があって、彼と接する上で尋ねたくなった。なんとも思わないようにできればそうするが、そうできない僕の不慣れさがなんとなく馬鹿らしい。

 僕は窓に目を向けた。太陽が斜めから差してきていて、彼の黒い瞳に影と光の二分を作った。僕はその暗さと明るさを眺めていた。彼も僕を眺めていた。観察をしていた。目が度々合い、その都度に微笑や会釈をしていたがそのうち互いに何も応じなくなった。僕らはたまにそうやって観察し合った。我々が走り損なった半日は二、三時間ほどこうやって窓の外と彼の瞳や顔の輪郭を観察する時間で補われていった。

 僕はいつからか彼が吐息のように漏らすレイコという人物について訊きだそうという気になった。だが彼とはそういう心を打ち明け合うほどの間柄ではなかったし、僕は多くの人にそうしないように努めてきた。僕の不確実な意思は揺れていた。

 目的の駅に着き、我々は駅の綺麗で閑散とした様子(それは多くの駅に置いてある通俗的な物を取り除いていた駅だった)を互いに見遣っていた。我々は目の挙動で促し合って駅に降りた。高い山の麓に近い駅だった。我々はそこからチームで山を登る。駅から眺める海は青黒く、閑散とした駅と相まってどこからか残酷で厳しい自然の顔を見ている気になった。僕らは自転車で山の麓にいるサークル仲間に落ち合いに行った。

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